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碧の記憶 1(常闇の楽園2)

一、

カチッ……

電子ロックが外れる音にソファーの上にだらし無く転がっていたジェサイアはうっすらと目を開けた。

ぱたぱたと小さな足音が、徐々に近づきながら耳に響いてくる。

やれやれ、一泊二日の静寂の時はこうして騒々しくも幕を下ろすのだ…と小さく溜息をついて、ゆっくりと身体を起こした。

「パパ、パパいる?」

息せききって、居間に転がるようにして駆け込んできたビリーは父親の姿を認めると、嬉しそうににっこりと笑った。自分が知る限り最高の笑顔だとジェサイアは思う。

「見て、見て、買ってもらったの。これ」

そして、ジェサイアそっくりのアイスブルーの瞳をきらきらと輝かせ、手にしっかりと握られた合体ギアの玩具を尽きだした。

ビリーの後から、ゆっくりと妻ラケルが、居間へと入ってきた。「ただいま」と小声で言うラケルにジェサイアは片手を上げた。

「ああ、お帰りビリー。おじいちゃんとおばあちゃんは元気だったか?」

「うん……。あのね、それで、動物園行ったんだよ。ウサギ抱っこしたの。かわいいの。ヤギさんにねゴハンやったんだよ」

動物園……。ジェサイアは僅かに眉をひそめた。

本物の動物がいるわけではない。それは本物の動物そっくりに動くレブリカや立体映像。命の宿っていないただの機械。

「ビリー……、楽しかったのか。よかったな。今度、本物の動物を見ような。ちゃんと生きている動物だ。」

「?」

きょとんとした表情を向けるビリーの頭に手を置き、ジェサイアは「まだ難しかったな」と苦笑した。

と、ビリーは父親の顔をまじまじと見つめた。そして、不意に、両手でバシンと頬を挟んだ。

「イテェー」

「パパ、おかお、こわれてるぅ」

いきなり、突飛なことを言い出す息子の言葉につられてジェサイアの顔を覗き込んだラケルの目が丸くなった。左頬から顎にかけて腫れていた。あきらかに殴られた形跡。

「あら、ホント。その顔、どうしたの? 酔っぱらって喧嘩でもしたの?」

「そんなんじゃねぇよ」

「ふーーん」

ラケルは明らかに疑いの目を向けていた。

そんな両親の顔を交互に覗き込み、もはや理解不能な夫婦の会話にビリーはくるりと背を向け居間から廊下へ出ていった。と、すぐにドアを叩く音が聞こえてきた。

「シグルド兄ちゃんいる? ねえ、見て。買ってもらったの。シグルド兄ちゃん?」

「あら、シグルド君出かけているの?」

首を回し開けっ放しになったままの居間のドアをちらりと見てラケルは言った。

「ああ、たぶん、ヒュウガのところに転がりこんでいるのだろう」

「たぶん…って、まさか…」

気まずそうにそっぽを向いているジェサイアの顔を見て、ラケルは意味ありげに笑った。

「シグルド君に殴られたの?」

ジェサイアはちらりとラケルを見ると、観念したように「ち……。どーせバレるか。まあな」とポツリと言った。

それは、昨晩のことだった。

ジェサイアはシグルドを飲めもしない酒に付き合わせた。

案の定ほんの少しのアルコールで気分が悪くなってしまったシグルドをジェサイアは自分が振り回した責任上家まで引きずってきたのだった。

水を飲ませベッドに座らせてやる。

その時ふと、悪戯心がジェサイアにある行動をとらせた。もちろんただの冗談だった。

話を聞いてラケルは唖然とした……毎度のことながら、どこをどうしたら、こういった行動に至る発想になるのだろうか?

「何考えているのよ、あなたはっ!!」

「何って、ただの冗談に一々考えっかよ!!」

「冗談になっていないわよ。一度、あなたの頭をぶち割って、その脳構造を調べてみたいものだわ」

「押し倒されたくらいで、思いっきり殴ることないじゃないか。せいぜい、キスの一つや二つだろうが」

「せいぜいですって?」

「あれは、ただのちゃめっ気のつもりだったんだぞ。普通、本気か冗談かの区別はつくと思うけどな。いくら、俺だって、体格差のさほどないあいつを本気で押し倒そうなんて無謀なことは考えるかよ!」

「呆れた。壊れたのがあなたの顔だけでよかったわ」

何度ドアを叩いても、何の応答もないことに諦めて、ビリーは居間に戻ると両親の顔を交互に覗き込んだ。

「シグルド兄ちゃん、どこ?」

「パパに苛められて、ちょっと、出て行ったの。でも、すぐに戻るから大丈夫よ」

ジェサイアは小さな息子を膝の上に抱き上げた。

「違う。苛められたのはパパの方だ。そうだ、ビリー、パパにキスをしてくれ」

「んーー」

ビリーは小さくて柔らかい手のひらで、父親の両頬を挟むと、唇を押し付けた。

「ビリーはいい子だな。シグルドは意地悪だからパパにキスしてくれなかっ……」

バシッ。

言い終える前に、クッションがその先の言葉を遮った。

「もう、子供を混乱させるようなこと、言わないでちょうだい」

「凶暴な女房だ」

ぶつくさ言いながら、ジェサイアは俯き後頭部を両手で押さえた。それから、ゆっくりと頭を持ち上げると、天井を仰ぐようにソファーの背もたれに寄りかかった。ビリーはジェサイアの膝の上からするりと下りると、リモコンを取り上げ、トリヴィジョンの電源を入れる。ちょうど幼児番組が始まったばかりだった。

やがて、ビリーは番組から流れてくる音楽のリズムに合わせるように体を揺らし始めた。

ジェサイアはラケルにぽつりと訊ねた。

「なあ、シグルドのドライブ依存症の治療は順調なのか?」

「少しずつは、依存症から抜け出していると言えるかしら」

「情緒は随分安定してきたな……」

「そうね、ただ、彼の場合は過去を奪われているから、単純な依存症治療に当てはまらないことが多すぎるの」

「ソラリス政府が絶対に解けることがないと豪語する『洗脳』か……。傲慢なこったな」

「あの子は……支配されてなんていないわ。諦めていないもの。大切なものを置き去りにしてきたことを知っている。……だから、苦しむの。その掴むことのできない余りにも強い想いに」

「そうだな……」

シグルドは地上から人種サンプルの被験体として、拉致されてきた。

シグルドの持つその潜在能力の高さに最初に注目したのはラムサスだった。

カーラン・ラムサス。

そのずば抜けた能力は噂になり、好奇心から近づいた……いや、最初に近づいてきたのは自分を利用しようとした彼の方だったのか。いずれにしろ、ジェサイアは、不完全ながらも、高邁な理想を掲げ、真っ向からソラリスの現体制に異論を唱える彼に好意的な態度で接した。

そんなおり、ラムサスは、同時期に同じように見いだされてきたヒュウガと共にシグルドの管理責任者、つまり後見人的な役割を引き受けて欲しいとの話をジェサイアへと持ってくる。

ジェサイアにとって、被差別民であるシグルドやヒュウガらの管理責任者を引き受けたのも、ラムサスが提唱する理想国家へソラリスを再生させるという目的を成し得るための、バックアップでしか過ぎなかったのかもしれない。

だが、初めて接した生身の被差別民。彼らとの交流は、皮肉にもラムサスの唱える「能力主義」という新たな階級制度の欠陥を浮き彫りにしてしまう。

ソラリスは所詮シグルドにとって異国だ。自分の故郷ではない。ソラリスを理想国家にすること、ソラリスの変革なんて彼にとっては何の価値もないことだ。

利用しようとしているに過ぎなかったのは自分も同じだとジェサイアは思う。

トリヴィジョンでは、何という動物か判別が難しいマスコットのきぐるみが歌っていた。その声に合わせて、舌っ足らずに歌うビリーの声をぼんやり聞きながらジェサイアは小さく首を振り瞼を押さえた。

二、

褐色の指に餌を摘み、ぱらぱらと水槽の中へと落としてやれば、二匹の半透明の青い魚が餌を求めて、水面近くまで浮き上がってきた。

絡み合うようにして餌をついばむその二匹の青い魚は、水槽上部に設置されているライトに照らされて、きらきらと体表を輝かせていた。

ソラリス最先端の遺伝子工学の副産物である宝石のように美しい観賞魚、ジュエリーフィッシュ。蛍光を発したように周辺の水を青く染めて輝く半透明の美しい姿は、宝石と表現されるにふさわしかった。

昨日の晩から、この魚の飼い主である友人宅へ転がり込んでいたシグルドは、寮内の食堂で夕食を済ませ、部屋に戻ってからずっと水槽に向かい合っていた。薄暗い部屋の中、青白く浮かび上がる水槽は幻想的で、レプリカの魚と違って生きている魚の動きは見ていて飽きなかった。

ドアフォンの音に我に返りモニターを見れば、この部屋の本来の主人である友人の姿を確認できた。時計を見れば、自分は一時間も飽きずに魚を眺めていたことを知り、「俺も暇だな」と苦笑う。

ドアが開閉する音に続いて、静かな足音と共に近づいてくる友人のけはい。

シグルドは、ちらりと振り返り「やあ」と一言かけ、再び水槽に目を戻した。

「ただいま…。遅くなってすみません。先輩につかまっちゃて、こきつかわれていました」脱いだ上着をハンガーに掛けながら、飽きもせずに眺め続ける友人の背中に話し掛けた。「先輩は、徹夜ですね。とてもそこまで付き合いきれませんから、逃げてきちゃいました」と、くすりと笑った。

「そうか、俺の方こそ迷惑をかけているな」

「お互い様ですから、気にしないで下さい。それよりも、シグルド、餌をあげすぎないでくださいね。水が悪くなりますから」

「ああ、無意味に贅沢なものを飼っているな。これは、上流階級の間で流行っている魚だろ? こんな、高価なもの、どうしたんだ?」

「ブレナン教授、ご存じですか?」

「あ? あの分子生物学のか?」

「ええ、なんか、この魚を副産物としてまちがってつくってしまった、張本人なんですが、なぜか私のことを気に入っているらしくて。何かのプレゼントだそうです」

ヒュウガはくすくす笑う。「後継者にならないかって。あの人、お子さんいらっしゃらないから」

シグルドは苦笑した。

ヒュウガは、ジュエリーフィッシュを飼う前、シグルドがまだこの部屋で同居していたころにもレプリカの魚を水槽で泳がせていた。「なぜこんなものを?」と訊ねるシグルドに「水は私にとっての幸運の鍵なんです。風水でね」と笑った。どうやら、縁起担ぎらしかった。

「面倒なことしているな。だいたい、生育キットを使っていないだろう。これでは、きちんと面倒を見ないと死んでしまうぞ。わざわざこんなふうに手が掛かるようなやり方をなぜする?」

まだ、餌を与えようとするシグルドの手首を掴むと餌の箱を取り上げ、ヒュウガは答えた。

「ちゃんと、愛情ををかけ、気を付けて面倒をみてやらないと、死んじゃうからですよ。たとえ、相手が魚であっても、自分が必要とされていると思えるのはいいものだと思いませんか?」

「俺だって、お前やカールは大切な友人だし、必要としているぞ」

「守ってやらなくてはいけないほど自分を必要としている相手です。あなたは、私が守ってあげる必要はないでしょ? そして、あなたも私を守ってややろうなんていう発想はない」

「そりゃ、お互い子供じゃないからな。……なんか、おまえの言うことはよく解らない。大切な友達というだけでは、物足りないのか?」

ヒュウガは、今にも消えてしまいそうな笑みを浮かべた。

「たまにね、あなたが羨ましくなります」

「羨ましがられるようなものなんて何もないぞ。地上に生まれたラムズのはずなのに、その地上の記憶すらない。被験体としてソラリスに連れてこられるまで、確かに地上で生活していたらしいということを情報として知っているにしか過ぎない。実感は何もない。だから、懐かしくもないし、なんの郷愁もない」

「でも、あなたは諦めていないでしょ? 諦めていないものが何かなんて知らなくても諦めていない……。あなたは、取り戻すべきものが確かに存在する。それが、私には羨ましい」

何を言いたいのだろうか、この友人は。顔をまじまじと見つめても、曖昧な笑みはいつものとおり。シグルドは僅かに眉を寄せた。

「どうだかな、ピンとこない。それよりも、今日も泊まっていっていいか?」

「私は構いませんけど。まだ、顔を合わせたくないのですか? 先輩と」

シグルドは一瞬驚いた表情を見せるが、すぐに皮肉混じりの微かな笑みを浮かべた。ヒュウガはさっきまで、先輩の仕事を手伝っていたという。ことの顛末を聞いていたとしても不思議はない。

「……先輩から、聞いたのか」

「ええ、確かに、先輩のやったことは、冗談が過ぎていると言えばそうなんですが。いくらなんでも殴りつけるとは、反応が過剰ですね。……なぜ?」

シグルドはヒュウガの問いには答えずに、もう一度水槽に視線を戻した。

自分でも解らない。冷静になれば、誰がどう考えたって冗談にしか過ぎない。度が過ぎた冗談に腹が立った? いや、冗談には受け取れなかった。

ただ、怖かった……。

怖い?

ふと浮かん言葉を振り払うようにシグルドはきつく目を閉じた。

ばかばかしい。

括り付けの濾過層をから浄化された水が流れ落ち、水面を叩く澄んだ音に意識が吸い寄せられる。ゆっくりと目を開けると、水の中できらめく青い光点を視界に捉えた。

涼しげな水音。

そして、二匹の青い魚が、水槽を明るく照らすライトの光をきらきらと反射させながら、水草の間をせわしなく動き回っていた。

水のにおい、色、音、光、空気。

なんだろうか。この感じ………確かに、どこかで。

シグルドは微かに感じるイメージを求め、再び目を閉じた。耳の奥で水音が一定のリズムで響いていた。

木々の間を通り抜け吹き下ろしてくる熱く乾いた風を受けながら、シグルドはその水面を黙って見つめていた。池の中央で控えめに吹き上がる噴水が、涼しげな水音を響かせ水面を細かく波立たせていた。水面に描かれるさざ波に乱反射したいくつもの光の破片が目に突き刺さる。

ここは、どこなんだろうか? ソラリスではない。

「どこだ」などとばかなことを。ここは、王宮の庭園ではないか。

だが、王宮? 王宮ってなんのことだ?

シグルドは、空を見上げた。青い空。終点の見えぬ果てしない空間。純粋なソラリス人が恐れる強烈な光が、降り注いていた。

なんという、明るさ、開放感だろうか。

ふいに人差し指を握りしめてきた柔らかく温かい感触に、彼は斜め下に視線を落とした。二つの澄んだ碧い瞳が、自分を見上げていた。黄金の髪が陽の光を受けきらきらと輝いていた。

そして、にっこりと笑うと舌っ足らずに自分を呼ぶ「シグ……」と。

「若」

その幼子を抱き上げようと、腕を伸ばしたその時、周りの風景がゆらりと揺れ、闇に吸い込まれた。

いや、闇に吸い込まれたのは自分の方だと気づく。

暗い……。ここは、どこだ? 水音がうるさい。

そうだ、ここは、ヒュウガの部屋だ。

意識を一気に引き戻され、シグルドは自分が今いる世界を自覚した。その途端に、強い閉塞感に息がつまりそうになった彼は、空気を数回深く吸い込んだ。

だが、何度、繰り返し呼吸をしても、息苦しさは消えなかった。空気を思いっきり肺に取り込んでいるはずなのに、息ができない。胸が締め付けられ、悪寒が全身を襲った。

死ぬかも知れない……。

今まで感じたこともないような恐怖に、彼は息を更に深く空気を吸い込んだ。だが、状態は益々悪化しているように感じた。

死にたくはない。死ぬわけにはいかない。あの子の……『若』の側に帰るまでは。

死ねない!!

シグルドは、激しく喘ぎながら、がくがくと全身を震わせ、崩れるように床にうずくまった。

「シグルド!?」そう叫ぶよりも速く、異変に気づいたヒュウガはシグルドの側に駆け寄り、身体を腕の中に抱き起こす。頭を起こそうと、額に手を当てれば、汗でぐっしょり濡れていた。「どうしたんですか?」

「い、息…が…でき…ない」切れ切れに苦しげな声で、訴えるシグルドを腕から下ろし、ヒュウガは自分のライティングデスクに駆け寄った。激しく心臓が鳴り、震える手で引き出しを物色するが、そんな時に限って肝心なものは見つからない。

やっとのことで、見つけたものを手に駆け戻ると、それをシグルドの口に押し当て耳元で言った。「ゆっくり、息をして。そう、ゆっくりと。大丈夫ですから」

その言葉はヒュウガ自身にも向けていたものだったかもしれない。

シグルドは、口にあてられた袋の中に息を吐き出し、吐き出した息をそのまま吸い込んだ。それを何度も繰り返す間、ずっとヒュウガはシグルドの背中をさすっていた。やがて、引きつるような呼吸が徐々に落ち着いてきたことを確認して、ヒュウガは口から紙袋を離した。

「すまない……」そう言いながらシグルドは、ゆっくりとヒュウガから身体を離すと、シャツの袖で額の汗を拭いた。

「大丈夫です。一時的なものですからシグルド」

「どうしちゃったんだ? 俺は」

「『過換気症候群』でしょう。血中二酸化炭素濃度が極端に減ってしまう為におこるものです。だから、息苦しさのあまり、深く速く呼吸をしようとすればするほど、症状は悪化する」

「そうか、だから、紙袋を。で、原因は何だ?」

「心因性…」

シグルドを見ないままポツリと答え、語りかける言葉も見つからないまま沈黙した。目の前にある水槽の中、ジュエリーフィッシュは何事もかったように泳ぎ回っていた。透きとおった青い魚。青い輝き。

「あれは、あの子は誰なんだ? 名は『若』…。いや、『若』は名前じゃないかもしれない」

「え?」

「まだ、小さい子供だ。ビリーよりももっと小さな……」シグルドはヒュウガの両腕を掴み、真っ直ぐ視線を合わせる。「俺はあの子供のそばを離れてはいけなかったのに、なぜ? なぜだ!? 俺はなぜここ〈ソラリス〉にいるんだ。教えてくれヒュウガ、答えてみろヒュウガ!!」最期には大声だった。

「むちゃなこと言わないでください。そんなことを私に訊かれても……」

「いったい俺は何をしているんだ。こんな所で誰の為に何をしようとしているんだ」

シグルドは俯き、ヒュウガの腕を掴んだまま、何度も何度も首を振った。掴まれた両二の腕に指が食い込み、ヒュウガは痛みに顔を歪めた。腕に食い込んだ褐色の指を一本ずつ剥がし、シグルドの背中に腕をまわし抱き寄せ、なだめるように背中を叩いた。

「今は、もう休んでください。これからのことは、明日にでも、ゆっくりと考えればいい。だから、今は、何も考えないで休んでください」

ヒュウガは立ち上がり、シグルドの側から離れ、簡易キッチンへと向かった。

「これを、飲んで」

戻ってきたヒュウガに手渡された水と錠剤を「何の薬だ」とも訊ねることもせずに、黙って口に放り込み水を一口含んだ。残った水も一気に飲み干すと、手の甲で口元をぬぐい、大きく息をはいた。

両膝を胸に引き寄せ、抱えた膝に顔を埋める。そんなシグルドをヒュウガは無言で見つめていた。

子供…。それは、ソラリスに連れてこられてからの記憶でも、都合のいいように捏造された記憶でもない。明らかに地上の記憶。

あの時、シグルドはヒュウガに背を向け、しばらくの間、水槽に向かい合っていた。ヒュウガはその様子に、「よほど、魚が気に入ったのだろう」くらいにしか感じてはいなかった。そして、その直後だった。『過換気症候群』の発作を起こしたのは。

彼は、あの時、ここ〈ソラリス〉ではなくて、彼の本来いるべき場所〈地上〉にいたのだ。

被験体として、理不尽なやりかたで地上から拉致されてきたシグルドは、記憶を消され、ソラリスにとって都合のいいような洗脳を受けている。消された記憶を取り戻しかけているのかもしれない。表向きには絶対に解けないことになっている洗脳。絶対に思い出すことなどできないはずの消された記憶。

だが、絶対などというものは存在しないことをヒュウガはよく知っていた。

さっき、シグルドに飲ませたのは睡眠誘発剤だった。彼が現在服用している抗ドライブ剤との副作用はないはずだ。今は取りあえず収まった。だが、薬が切れたとき、ドライブ中毒の発作が重なったとき、自分にはどう対処していいか解らない。

かつてシグルドが使用していたベッドから、小さく聞こえてくる寝息は今のところ規則正しく安定していた。ヒュウガはそんな友人のブランケットをかけ直して、時計に目をやる。まだ、夜の十時をちょっと過ぎたころだった。遅すぎることはないだろう。

ヒュウガは受話器に手を伸ばした。

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