「久しぶりに地上か」
帝室特務外務庁ビル内、四元統合司令部にある執務室で、薫らせた煙草を口に運ぼうともせず、紫煙をぼんやり眺めながらジェサイアは呟いた。
上を見上げると気持ちが悪い。
臭い……。
吐き気がする。
それが、はじめて下界へと降りた天空の住人たちの言うセリフだった。
頭上に青い空を見上げるのはなんと落ち着かないことかと連中は訴える。
地上は浄化されていない不衛生な世界だから、空気そのものがにおうのだと。
天空にある国家ソラリスで一生を終える人々にとって、空というものは、情報でしか知らない。頭上にあるものは、野蛮なラムズが生活する大地という下界。
空は、今、自分が踏みしめている天空の国家の足下のさらに先にある空間に下界の住人ラムズたちが名付けた呼称にしか過ぎない。
地上に降り、頭上に空を仰げば、その吸い込まれそうな感覚に足下が崩れ、酔ったような気分になる。閉鎖空間に馴染んだ人々にとって、終点の見えない果てしなく続く空間は不安を煽るものでしかなかった。
だから、皆一様に一言「気持ちが悪い」と訴える。
ソラリスの地上制圧部隊ゲブラー。そのゲブラーの次期総司令候補を巡って周辺が騒がしくなってきていた。ジェサイアはその最有力候補と言われている。
ゲブラーの主任務など内政干渉と軍事介入さらには粛正でしかない。
だが、手っ取り早く権力へ近づくことを自ら目指してきた彼には願ってもないことだった。そのためにやるべきことをやり、目を瞑るべきことには、目を瞑ってきた。感傷は必要のないものだった。
今回の地上任務もその延長でしかない。
それでも、気が重かった。逃げ出してしまいたいほどに。
異例と言われるほどのスピードで最年少記録を塗り替えながら、昇進に昇進を重ねてきた。それなりの地位を得て、はじめて見えてきたこの国の構造というものがある。おかげで漠然としていたゲブラー総司令というものが、具体的にイメージできるようになった。それと同時に、そのポストから得られる力の限界も見えてしまった。
「所詮、お山の大将だ」
嘆息混じりに呟くと、ジェサイアは帰宅のため、上着を掴むと立ち上がった。
この時間ともなると、さすがに人気はほとんどない。いくつかのフロアを除き、明かりは落ちていた。ジェサイアの進行方向を先取りする形で、廊下の照明が流れるように点灯していった。エレベーターに乗る。無機質な女性の声が、目的フロアを聞いてくる。一階エントランスへ行くように伝えるが、エレベーターが動き出してから、ふと思い立ち途中の階で止めさせた。
そこは、兵器開発部のあるフロア。
その中の一室に向かう。ドアを開けると、パーティションの隙間から黒い頭が見えた。案の定、その後輩はまだ帰っていない。いや、今日は、先客が二人。
その二人の先客が同時に顔を上げて、ジェサイアを見た。
淡いブロンドの髪と金色の瞳を持った端正な顔立ちの、ジェサイアにとってのもう一人の後輩カーラン・ラムサス。いや、後輩というよりもエレメンツ発足への提言者であり、対等の同志である男。そして、彼の傍らに寄り添うのは、藍色の髪と瞳を持ったミァンという魅惑的な女性。
このラムサスとミァンは、上官と部下の関係であり、公然の恋人同士でもある。こういった関係を好ましく思わない連中は多いが、この二人は、ストイックなほど公私をきちんと使い分けている。
任務中、二人は私語を交わすことはもちろん、かるい目配せすらしようとしない。足を引っ張ろうという輩に隙を与えることはなかった。これは、偏にミァンという女性の聡明さの証明でもあった。
先にミァンが口を開いた。
「こんばんは、顔を合わせるのはお久しぶりですわね。次期ゲブラー総司令」
ジェサイアは苦笑した。
「やめてくれ、まだ内定もしてないし、今の司令の任期満了はまだずっと先だ」
「一年先か二年先かの違いはあるとしても、もう内定も同然だろう」
ふっと口許に笑みを浮かべて、ラムサスも続けて言った。
この二人に数テンポ遅れてヒュウガは顔を上げた。黒い髪の毛は櫛をちゃんと通しているのか、というようなボサボサの状態で、眼鏡の奥の黒い瞳はしっかりしているが、顔色が良くない。この様子では昨晩も宿舎には帰っていないだろう。
「でも、先輩にはがんばっていただかないと、こっちの都合が……」
「都合? ふん、どうせ、賭けでもしているんだろう」
「あ、バレていました? もっとも、あまり賭けにならなくて。大穴狙いの数人が、先輩じゃない、えと、ス……なんとかいうのに賭けているくらいで」
「しらじらしく忘れたふりをするな、ヒュウガ。スタインだろう」
呆れ顔でラムサスが口を挟んだ。
「スタイン? 誰だそれは。知らねえな」
くっくっと笑いながら、ジェサイアも惚けて言った。三人もつられて笑い出す。笑いながらもジェサイアは話題をさっさと変えることにする。この話題はあまり引きずりたくなかった。
「カールもミァンも久しぶりだな。どうしたんだ? こんな遅く」
「あ、いや野暮用だ。たいしたことはないが、先日こいつに依頼した……」
ラムサスはちらりとヒュウガを見た。
「ええ、カールはギアのセッティングのことで。先輩こそ、どうしたんですか? 珍しいですね、こんなところまでわざわざお越しとは」
ジェサイアは、椅子をひきどかりと座った。そして、胸ポケットから煙草を取り出すと、火を付け銜える。盛大に煙を吐き出して、「灰皿はどこだ?」と尋ねた。
「ご存じだったと思うのですけどね、ここは禁煙です。精密機器類が多いもので」
わざとらしくせき込みながら、ヒュウガはジェサイアの煙草を取り上げ、底に少しコーヒーが残った紙コップへと投げ入れた。ジュッという音と共に、白い煙が立ち上がり、火は消えた。
「ちっ」
ジェサイアは小さく舌打ちした。
その様子に軽く吹き出して、カーラン・ラムサスは、立ち上がった。
「用事は済んだから、俺たちは失礼する。行くぞミァン。じゃあな、ヒュウガ、ジェサイア」
「ああ、たまには一緒に飲もうや。男だけでな」
「あら、妬けるわね」
ミァンは、さほど妬いているふうでもなく笑った。
ラムサスは、「楽しみにしている」とジェサイアの提案に応え部屋を後にした。
ドアが閉まってから、ヒュウガは立ち上がり、デスク後方の壁側に設置してあるコーヒーメーカから二杯分のコーヒーを紙コップに注ぎ、一つをジェサイアの前に置き、もう一つをキーボード脇に置いてから、ディスプレイを違う画面に切り替えた。
ジェサイアがぬっと顔を寄せ、ディスプレイを覗き込む。
「このパーツは……また新しいギアか?」
「ええ、まあ、次期ゲブラー総司令の搭乗ギアということで」
「おいおい、誰が総司令かも決まっていないのに、気の早いことだ」
「まあ、そうなんですけどね、誰が総司令になろうが、基本やろうとすることは変わりませんからね。新しいアイディア、技術、盛り込める要素はすべて盛り込むつもりです。そういったことが許されるのは、総司令のギアくらいですからね。色々やりたいことがあって、いまからわくわくしています。だから、フライングでこんなことしているわけなんですけど。量産型だと、コストパフォーマンスが重要ですから、好き勝手できないし」
邪気なくにっこりと笑う後輩の顔を複雑な面持ちでジェサイアは見つめた。
そのギアが何のために存在しているのか、地上でどういった破壊活動をしていくのか、まるで関心などないようだった。制圧されるのは、彼の同胞であるかもしれないのに。
ヒュウガにしてみれば、玩具を与えられたくらいの意味しかない。この後輩が、こんなにも穏やかで幸せそうな表情を見せることは、めったにないことだ。そのうちの一つが、こんな破壊兵器を設計しているときだというのは、なんと皮肉なことかとジェサイアは思う。
「予算なんてあってないようなものだな、ここは。まったく使いたい放題だ。だが、なんで、兵器開発部に割り当てられる予算はこう無尽蔵なんだ? うらやましいぜ」
皮肉を込めてジェサイアは言った。
「無尽蔵っていうのは、大袈裟ですが、確かに予算で悩んだことはないですね。でも、今更、何故そんなことを?」
「いや、科学力も軍事力も他の追従を許さないソラリスでこの組織に何故これだけ莫大な軍備予算を割り当てているのか不思議だと思ってな」
ヒュウガはしれっと言う。
「ギアやミサイルなどの兵器類は開発し、有事の際に使用すればそれで良しというものではないからですよ。もしそうだったら、一度きちんとメンテナンスをして、使わないで温存しておけばいいでしょう? でも、兵器には、平常時であっても常に『オン』の状態でチェックしておかないと。いざという時に最高の状態で性能を発揮するためにね」
「性能か」
「そう、破壊力と殺傷力」
ジェサイアの顔が曇った。ヒュウガは意に介さず続ける。
「でも、『オン』の状態が続けば、精密機器でもあるギアの基盤に付加をかけるし、燃料だって劣化する。所詮兵器など消耗品にしか過ぎないんです。だから、後生大事にしまっておくより、適当に消費するほうが効率はいいんです」
「消費……」
「ええ、実戦にて兵器を使用することですよ。それに、消費すれば、より多くの予算を計上し、新しいギアや兵器を導入することが可能になりますし、どうせ新しいものをつくるのなら、新しい技術を盛り込みたくなるでしょう。そのための予算です」
ヒュウガは楽しそうににっこり笑う。
解っていたこととはいえ、この後輩の口からさらりと聞かされると、益々気が重くなる。つい、この場所へ寄ってしまったことは、失敗だったかもしれないとジェサイアは内心後悔した。
再び、ディスプレイとにらめっこをはじめたヒュウガにジェサイアは目をやる。
ディスプレイには、何本もの線と線を繋いだだけで描かれたおおまかな輪郭。じっと目を凝らせば、羽根に見えないことはない。おそらく、飛行ユニットのつもりか。まったく、たちの悪い冗談としか思えない。もっとも、この怖ろしく頭のいい後輩は、どのような冗談も、洒落も形にしてしまう。
ジェサイアは嘆息した。
「ヒュウガ、今夜もここに泊まるつもりか?」
「え? あ、それもいいかもしれない。帰るの面倒くさくなってきたし」
ヒュウガは両腕を上げ、伸びをした。
「おまえ、たまには誰かと飲みに行くとか、遊びに行くとか、デートをするとかないのか?」
「前はね、ちょこちょこカールと飲みに行ってたんだけど、最近、プライベートタイムはちっとも遊んでくれないんですよ。たまに顔を合わせても、さっきみたいな調子で、直ぐに帰っちゃうし」
「ミァンか……。妬いているのか?」
「そりゃそうですよ」
「ま、諦めろ。あの二人、付き合いはじめてからは、結構経つが、いわゆる男と女の関係になったのは最近だろう。今が一番盛り上がっている時期だし、一緒に過ごせる時間は二人きりでいたいさ」
「経験者は語るですか?」
「おまえも、他の友人とか恋人をつくるとか少しは努力してみたらどうだ? 見ていると、スタッフとは普通に楽しそうに仕事をしているじゃないか」
ヒュウガはくすりと笑う。
「先輩やカールは別格、というか、相当の変わり者。今、私に近づいてくる人たちって、私の能力も道具として割り切って使おうとする中流以上の人か、利用してのし上がってやろうという、下層階級出身者かのどちらかですよ。利害の絡まない友人や恋人なんかになりたがるもの好きなんていませんって」
「そんなもんかねぇ」
と言いながら、ばかなことを言ったとジェサイアは後悔した。ヒュウガの分析は間違っていない。
「そんなことより、もうこんなに遅いんですから、はやく帰ったらいかがです? ビリーくんが起きる前に、家を出て、眠ってから家に帰るなんて日が続いているんでしょう? いい加減顔を忘れられますよ」
「まったくだ。帰るぞ」
言いながら、ジェサイアは腰を上げた。
「では、お疲れさまでした」
顔も上げずにヒュウガはひらひらと手を振った。
「おまえもだ。今から俺の家へ行くぞ。どうせ、まだ何も食っていないんだろう。なんか食うもんくらい残っているだろう」
「こんな時間に後輩連れて帰ったりしたら、ラケル先輩迷惑でしょう」
「まあ、今から連絡を入れておけば、大丈夫だ。二人とも酔っぱらっているわけではないしな。たまにはおまえやカールを連れてこいと言われていたからちょうどいい」
ヒュウガは僅かに首を傾げ、少し思案しているようだった。結論が出たのか、にっこり笑って頷いた。
「では、お言葉に甘えさせていただきます。私はここを片づけてから行きますので、エントランスで待っていてくれませんか? それと、きちんとラケル先輩には連絡しておいてくださいね」
「ああ、そうする」
ジェサイアは、ゆっくりと降りていくエレベーターの壁面に背中を預け、腕を組み瞼を閉じた。
――いざというときに役立たずになってしまうでしょう?
ヒュウガの、言葉が頭の隅にひっかかっていた。
いざという時のための軍拡。そのために、兵器類を消費し続けなければならない。ならば、自分たちゲブラーも適当に消費させるための道具でしかない。そして、地上がその場となる。地上で行われる軍事介入や粛正にはそういった意味も含まれていたというわけだ。
いざというときに想定される敵は、もちろんシェバト以外は考えられないが、それほどまで脅威と見なす理由が今ひとつ納得いかない。前々から疑問だった。
敵〈シェバト〉に備えての軍拡か、軍拡のために仕立て上げられた敵〈シェバト〉か。
これでは、まるでニワトリとタマゴではないか。
カレルレンをはじめ上層部から散々聞かされてきた。
シェバトの科学力はソラリスに拮抗しつつあると。もし、地上人達を率いてゲートを破り、ソラリスに攻め入るようなことになれば、かなり憂慮すべき事態になると。
だから、地上人〈ラムズ〉たちがシェバトの下に組み込まれるような隙を与えてはならない。野蛮な地上人〈ラムズ〉はソラリスが管理統制すべきものだ。
地上支配プログラムはそのためにある。彼らを自分たちと同じ人間と思ってはいけない。
だが、どれだけ、「人間ではない」と言い聞かせようが、目の前に突き付けられる現実は残酷だ。
地上人達との接触は、基本的に必要最低限なこと以外は禁じられている。家畜をペットだと錯覚してしまえば、任務遂行に差し障る可能性があるというのが、その理由だった。過去、情が移りそのまま地上に亡命してしまった兵士もいたという。だが、追っ手から逃れることができた者はほとんどいない。
ジェサイアも地上人との接触は意識的に避けていた。
地上に降りたジェサイアのやるべきことは、地上人たちにとっては余りにも理不尽なことであって、決して歓迎されることではない。彼らと交流する資格などないのだ。
それでも、遠くから地上に住まう人々を眺めれば、その表情は生き生きとしていて、たくましい。
彼らの生命力は、ソラリスの管理下にはないのだ。
うらやまましかった。感動すらした。
エレベーターのドアが開く音に、ジェサイアは目を開けた。
彼は、エレベーターを降りながらハンドフォンを取り出し、妻へ簡単に連絡を入れる。
どうやら問題はなさそうだ。
エントランスのソファーに座り、ライターの火を煙草へ移し、ヒュウガを待つ。これを吸い終えるくらいまでには来るだろう。
エントランスの吹き抜け。ガラス張りのフロアから見る外はすっかり暗い。その闇はどこか人工的で、地上の闇とは色調が明らかに違っている。
煙草が半分ほど灰になったころ、人気のない静まり返ったエントランスに、またエレベーターのドアの開く音か小さく響いた。ジェサイアは顔を上げた。
エレベーターから降りてきたヒュウガは、ジェサイアを見つけると、手を振った。
黒い髪に黒い瞳。
見栄え的にあまりガゼルと差のないラムサスと違って、一目で下層階級出身者だと解る容姿。この後輩は、どれだけ能力を発揮しソラリスのために尽くし要職を得ようが、死ぬまでラムズでしかない。
ラムサスは、彼なりのやり方でそんなソラリスを変革しようとしていた。そんな彼に共感して、エレメンツを発足させたのは、何年前だったろうか。第三階級出身であるヒュウガの異例の出世を可能にしたのも、ラムサスの唱える能力主義と彼の力添えに拠るところが大きかった。
だが、シグルドのソラリス出奔から、エレメンツそのものは形骸化している。微妙に食い違ってしまった思想や理想は、お互い、共に歩むことを許さない。
それでも、彼は、新たな賛同者を得て理想国家を目指している。
ラケルは皮肉混じりに言った。
――私、あなたがうらやましくて仕方ないわ。何度も地上に降り、そこに暮らす人たちと直接触れ合う機会を持てることが。でも、あなた、一体あそこで何を見てきたというの? その目で直接見て、肌で感じることができるのにね。
「まったく、やな女だぜ。……だが、確かに俺は逃げていただけなのかもしれないな」
ジェサイアは、微かに自嘲の笑みを浮かべ立ち上がる。小走りに近づいてくる後輩に手を振り応えた。
了
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