そして僕は途方に暮れる 7

 

 

 

 翌日、あきは学校を休んだ。

 

 背中に視線を感じることもないまま、ただ安穏と時間が過ぎていく。新品のノートをなぞる、シャープペンシルの硬い感触が手のひらの中に帰る。僕の目線は、絶え間なく引っかかれる黒板と、手元の教科書、ノートに注がれていて、それ以外のものに気を取られることはなかった。
 昨夜、叔父が帰った後、僕はあきに母親のことを話した。隠し通せるとは思っていなかったし、いつか話さなければならないとも思っていた。でも、もう少し後でもいいと、先延ばしにしていたのも確かだった。
 昔のことは、あまり思い出したくない。それは、母親でも同じだった。父親は、僕の物心が付く前に亡くなっていたから、思い出そうにも記憶の引き出しの中は空っぽなのだけど。
 涙ながらに語れるほど、優しい性格はしていない。淡々と、事実のみを説明し終えると、僕は何だか酷く疲れてしまって、あきに背中を撫でられながら眠りに就いてしまった。目が覚めたら、ベッドの中にいた気がする。テーブルの上には、あきが書き残したらしい紙切れが置いてあった。
『今日は休むね。ごめんなさい』
 大人じみた綺麗な筆跡に、あきの新しい特徴を見る。僕が詰まらない顔をして話している時、あきは一体どんな顔をしていたのだろう。情けないことに、僕はほとんど覚えていなかった。自分の感情を排するのに忙しくて、目の前にいる女の子の感情に気を払っている余裕が全くなかった。
 情けないと思う。不甲斐ないとも思う。
 ノートに連ねる無機質な数字の列が、何故だかとても冷たく感じられた。少し丸まった僕の背中には、誰の指も刺さらない。シャープペンシルの先端の鋭利さも、ノートの切れ端が首筋を撫でる不快感も、それが罰であるかのように何も与えられなかった。
 そのまま、授業は滞りなく進んでいく。その内容が僕の頭にも理解できるものであることが、ただひとつの幸いだった。

 

「仁科」
 放課後。帰り支度をしている最中、担任の高山先生に声を掛けられた。
「職員室、ちょっといいか」
 断る理由もないから、僕は頷いた。踵を返して教室を退出する先生に続き、僕も鞄の中に荷物を詰め込んで職員室に向かう。振り返っても誰もいないことは知っているのに、一度、後ろの席に誰かいないか確かめる。
 やはり、誰もいない。
 ひとり、生徒で溢れている廊下を進む。途中、見知った顔と幾つかすれ違っても、特に話し込むこともない。
 開け放たれたままの職員室の扉を潜り、やや奥まったところにある高山先生の机にやってくる。先生は席に着いていて、僕の姿を見咎めると、少し言い辛そうに口を開いた。普段、明朗に話すことを心掛けているらしい先生にすれば珍しい。
「仁科。今日、小清水が休んだろ」
「そうですね」
 無難な返事を返しておく。
「仁科、何か知らないか」
 一瞬、どう返答すべきか迷い、結局僕だって何も知らないわけだから、どうあっても素直に応えるしかなかった。
「いえ……僕も、何も聞かされてないので」
「そうか。いや、小清水と仲良いみたいだから、一応な。悪い」
 純粋にそう思っているのか、カマをかけているのか、判断に困る。高山先生は生徒の評判も良く、締めるとこは締め、抜くところは抜く性格だ。だから、生徒の男女交際にもある程度は理解がある、とされている。あくまで憶測だけれど。
「連絡、ないんですか」
「あぁ、家に電話しても反応が無くてな。いつも連絡だけは必ず入ってたから、気になったんだ」
「そうなんですか」
「大丈夫だとは思うんだが、念には念を、な。何かあってからじゃ遅い」
 道理だと思う。眉間に皺を寄せる仕草も、生徒のことを心配しての表情なのだろう。
 連絡もせず、学校を休んだあき。
 僕が昨日、あんな話をしたことと、何か関係があるのだろうか。
「それから、三者面談の件な」
 先生の言葉に、少し身体が震えた。
「誰か、来てくれないのか」
「……叔父は、忙しいみたいで」
 実際、叔父は忙しかった。こちらから連絡を入れても、返って来るのは稀だ。先生は、残念そうに肩を落とした。
「そうか。なるべく、その叔父さんとも話がしたいから、都合の良い日を聞いておいてくれないか。いつまでも先延ばしにはできないし」
「わかりました」
 一応、そう答えておく。僕が乗り気でないことは、恐らく先生にも伝わっている。僕と叔父の関係が複雑であることを、朧気ながら理解している。理解はしても、踏み込んでは来ない。そう線を引くことは、決して間違いではないと思うけれど。
 誰からも踏み込まれないなら、僕が何とかするしかないのだ。
「それじゃ、引き留めて悪かった。また明日な」
「はい。失礼します」
「小清水に会ったら、気を掛けてやってくれ。どうしても、先生じゃ目の届かないところがあるから」
 頼む、と付け加える先生に対して、どう返答すべきか悩む。わかりました、とも、そうですね、とも言いづらい。結局、僕は曖昧に頷いておいて、その場から逃げるように職員室を後にした。

 

 部屋に帰っても、あきはいない気がした。確証はないけれど、僕に気取られないよう部屋を出たのなら、僕に隠しておきたい用事があるのだろう。それも、見過ごせないほど重要な何か。
 僕は、あきの家がどこにあるか知らない。家族構成も知らない。話したくなければ、話さない方が楽だ。僕もそうだし、あきもそうだと思った。今回にしても、僕には打ち明けられない何かのために、あきは部屋からいなくなった。
 もしかしたら、これが今生の別れかもしれない。
 そんなろくでもない想像を抱いて、予想以上に、その結末は僕の胸を締めつけてきた。
「……晩ごはん、どうしよう」
 冷蔵庫に、何が残っているだろう。道端に立ち止まって、しばし考える。工事現場の物々しいシャッターの横で、制服姿の高校生が独り言を言いながら佇んでいるというのも、少し気持ち悪いものがあるけれど。
 考えあぐねた結果、コンビニで弁当を買うことにした。野菜があれば適当に炒めて、キムチを開けて、インスタントの味噌汁を告げばそれなりに豪華な食卓になる。テーブルの向かい側にあきがいれば、本当に申し分ないのだけど。あまり、贅沢も言っていられない。
 あきのことが気にならないといえば嘘になる。でも、どこを捜せばいいのか、それさえもわからない。携帯電話は、何度か掛けたけれど繋がらなかった。メールにも返信はない。八方ふさがりだ。
 先生に住所を聞けば早かったのかもしれない。個人情報の保護うんぬんで濁される可能性はあるけれど、わずかでも望みがあるのならやってみる価値はある。
 問題は、その勇気があるかないか、だ。
 先生に聞いて、住所がわかったとして。
 僕は、あきの家に行き、事情を聞き出すことができるだろうか。
 あきが隠していた事情を聞く権利が、この僕にあるのだろうか。
「……何なんだよ、もう」
 こめかみを掻く。口に溜まった唾を呑み込んで、固まっていた身体を動かす。なるようにしかならない、流されるまま、流れていくだけなのだと諦めていても、どうしても心に引っ掛かった棘が抜けない。
 真っすぐ歩き続けて、左手にあるコンビニに入ろうとする。敷地内の駐車場にに足を踏み入れた直後、一人の女の子が慌ただしげに自動ドアを潜って走り去って行った。
 その、見覚えのある背中に声を掛けようとして、喉から先に息が飛んで行かない。
「あき」
 今は言い慣れた名前を呟いた時には、もう彼女は先の角を曲がって見えなくなっていた。あき、ともう一度、その愛称を口にする。薄手のセーターに、紺のロングスカートを履いた私服姿の彼女は、初めて見る女の子のようだった。雰囲気もかなり違うけれど、見間違えることはない。
 僕があきと過ごした時間は、そんなに短いものじゃない。
「……嫌、だなぁ」
 心臓の鼓動が酷い。立ち止まっていると、駐車場から出て行く車にクラクションを鳴らされて、小走りに歩道へと移動する。コンビニに行く気分にはなれなかった。今更あきを追っても、彼女はとっくにいなくなっているだろう。時間の無駄だと、どうにもならないと、頭の方々から役立たずたちの声がする。
 うるさい。
 黙れ。
 誰が、おまえらの言うことなんて聞くものか。
「……僕は」
 小さく握った拳で、やかましい心臓を叩く。強制的に吐き出された息が、呻き声と一緒に口から漏れる。自分で殴っておいて、馬鹿みたいに痛い。加減も出来ないほど、人を殴った経験に乏しい。人に触れた経験が乏しい。
 泣きそうな眼を先に擦って、僕はあきが消えた角に向かって歩き出す。
 案の定、その角を曲がっても、彼女の姿はどこにもなかったけれど。
 我慢が出来なくなった僕は、それから日が落ちるまでの間、ずっと小清水明子の行方を捜し続けていた。
 そうして、完全に街が闇に落ちた頃、重い足取りで部屋に帰った。
 テーブルに置かれた紙はそのままで、電話には何のメッセージも残されておらず、ただひたすらに暗い部屋が僕を待っていた。
 何となく気になって、コンドームの在り処を探してみたら、その箱はベッドの中に放り込まれていた。雑な仕舞い方が如何にも彼女らしくて、少し笑った。

 

 それから一週間、あきは学校を休んだ。
 僕は、その間ずっと一人だった。

 

 

 

 



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2010年3月29日 藤村流

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