そして僕は途方に暮れる 4
栗の花の匂いがする、と聞いて、すぐにその匂いだと理解することが出来なかったのは、僕の幼さからすれば仕方のないことだった。
けれども、あきはその匂いを知っていた。栗の花としてでなく、男が放つ、独特の臭気として。
夢に見るかもしれないと思い、床に就いた僕は、やはり夢を見てしまった。
夢精しているかもしれない、と半ば本気で信じていた僕は、翌朝、下半身が乾いていることに異常なほど安堵していた。
何故なら、同じ部屋に、夢に見た彼女が眠っているのだから。
――夢は、ひどく淡々と進んでいた。
音もなく、素っ気ない白黒の世界の中に、僕とあきがいる。
抱き合っているくせに、体温は感じない。きっと、誰かを抱き締めたことがないから、他人の身体がどれくらい温かいのか、再現することができないのだ。
繋がっているはずの下半身も、曖昧にぼやけている。どんな形をしているかわからない。見たことがないものは再現できない。ビデオで眺めていたそれはモザイクがかかっていた。漫画でみたそれは、誇張が酷くて現実味が乏しかった。
ただ、あきの顔だけは、欠けている場所を補うように、はっきりと夢の世界に映り込んでいた。
朝の匂いがする。
オムレツが綺麗に出来たと喜んでいる姿は、とてもあのような行為に及んだ女性には見えない。けれどもそのどちらが本当ということはなく、いただきますと無邪気に手を合わせているあきも、淫猥に笑っているあきも、教室で眠たそうに頬杖を突いているあきも、そのどれもが真実の姿なのだと思う。
そう、心の中では納得しているはずなのに、夢に見てしまうのはやはり仕方のないことなのだろう。
「食べないの?」
こめかみの髪の毛が跳ねていることも気に留めず、あきは僕のオムレツの脇に添えられたソーセージを鋭く突き刺そうとする。
僕が皿をずらすと、目標を失ったフォークがテーブルにかすめ、がぃんと硬い音を立てる。
あきが変な声を出していた。痛いらしい。
「食べるよ。考え事してただけ」
「冷めちゃう……」
「もうちょっと作ればよかったじゃない」
「三本しかなかったんだもん……」
寂しそうに言う。
道理で、彼女の皿にはソーセージが二本あったわけだ。今はもう、影も形もない。
味噌汁の量も、あきの方が若干多い。とはいえ、インスタントの味噌汁だから、水の量が多くても栄養素としては全く同じなのだけど。
それを知ってか知らずか、彼女は満足げに茶碗を傾ける。あきが味噌汁を飲み下すずるずるした音が、昨日の行為の延長線上に卑猥な妄想として浮かび上がり、僕の箸はしばし中空を漂った。
「食べないの」
「食べるって」
フォークが先程より速くソーセージを狙い、勢いのあまり、テーブルを掠めた凶器が空を舞った。
登校する際、僕とあきは部屋を出る時間をずらす。
大抵、あきが先で僕が後になる。その理由は、単にあきが鍵を掛け忘れることが多いからだ。料理の失敗は少ないのに、日常生活は些細なミスが多い。トイレやお風呂の鍵も締め忘れる。ドアそのものを閉め忘れることもざらだ。お風呂に入った後、半裸に近い姿で部屋をうろちょろするのは――おそらく、それが彼女のありのままの生活態度ということなのだろう。
今日もまた、あきが先に部屋を出ることになった。
普段なら、「行ってきます」の一言で簡単に別れられるはずなのに、あきは、靴を履いた後、しばらく何もせずに立ち尽くしていた。
「……あき?」
不安に思い、あきの名前を呼ぶ。うん、と小声で答えると、あきは弾かれたように振り返った。
驚いた。
目を丸くする僕の前には、多少赤らんだあきの笑顔がある。見慣れた、というにはまだ数が足りないけれど、それでも目を瞑れば彼女の顔が思い浮かぶ程度には見慣れたはずだ。
だから。
「今日、買ってくるね」
何を。
質問する前に、あきはドアノブに指を掛けた。艶かしい金属音に僕の声は掻き消されて、飲み下した言葉を再び肺からえぐり出す前に、彼女は開かれた扉から狭い廊下に躍り出てしまった。
躍るように、廊下を駆け抜ける足音が聞こえる。近く、遠く、冷蔵庫の駆動音に掻き消された足音に耳を傾けながら、僕は、数分前のあきのように、玄関に立ち尽くしていた。
そうしていれば、彼女が何を考えているのか、その一欠けらでも理解できるような気がしたから。
放課後。チャイムが鳴り響いている。
席を立つあきの背中から、昨日と今日の違いを見出すことは難しかった。いつものように、携帯電話を弄りながら廊下に消えてしまう。弄る、といっても、意味もなくフタを開けたり閉じたりしているだけなのだけれど。
五分後、僕もまぶたを擦りながら席を立つ。昨日と同じ。焼き増しされた映像が脳裏をよぎり、振り払うように首を振ろうとして、クラスにまだ人が残っていることを思い出した。立ち尽くし、逡巡している僕を、さして仲が良いわけでもないクラスメイトが遠巻きに眺めている。
教室を離れ、校舎から出る。親しい人とはすれ違わなかった。もとより、声を掛けられるほど親密な人はほとんど居ないのだけど。
昨日の空模様を引きずるように、外は曇っている。
いずれ、雷が鳴るかもしれない。気を引き締める。
そのくせ、足取りは遅々たるもので、僕の足は一向に自分の部屋に辿り着かない。遅い。家に着くことを嫌がっている。気が乗らない、というのは便利な表現で、気が乗らない理由については、何ひとつとしてわかっていない。
ただ、何か、良くないことが起こりそうな気がする。それだけだ。
思い過ごしであれば、それ以上のことはない。雷は鳴らないかもしれない。雨は降らないかもしれない。僕と彼女の関係に、一石が投じられ、波紋が生じることはないのかもしれない。
そも、僕は、どうしたいのだろう。
小清水明子を。
あき、という愛称を持つ彼女のことを、どう想い、どう接するべきなのだろう。
「……そんなこと」
わからない。
わからないから、結論を先延ばしにしている。
「あき」
呟く。名前を言うことにも随分と慣れた。一人でも、本人を前にしても、躊躇いを見せずに言うことができる。あき、と呼ぶと、彼女は喜ぶ。その顔が見たいから呼んでいるわけじゃない。でも、他に名前があるのに、わざわざ彼女が指定した名前を呼ぶ理由なんて、そう多くは思いつかなかった。
僕は、彼女のことが好きなのかもしれない。
「は……あ」
溜め息が漏れる。
だから、これからどう行動すればいいかなんて、わかるはずもなかった。
歩いていれば、そのうち部屋には着く。
帰る場所がひとつしかないなら、僕はそこに戻らなければならない。今は、待っていてくれる人もいる。一人で眠ることも少なくなった。プライベートな時間は減ったけれど、何か意味のあることをしていたわけでもない。
あきは、僕の生活に欠くことのできない存在になった。なってしまった。
何分か、見慣れた扉の前に佇み、部屋の中から彼女の気配がするかどうか確かめる。無論、そんなことはわかるはずもないのだけど、そうでもしなければ、とてもじゃないけど平静を保つことが出来なかった。
息を呑む。
扉を開く。鍵は掛けられていなかった。あきは居る。確かめてみると、靴はあった。如何にも高そうな臙脂色のブーツ。履き慣れていないのか、素足にはいくつかマメが出来ていた。
「確認するなよ、僕も……」
呟く。仕方ないと言い訳するには、いささか業が深かった。
リビングに続く扉は開かれている。あきの背中が見える。特にゴミ箱を漁っている様子もなく、眠っている様子もない。扉の開閉音に気付き、身体を後ろに反らしてこちらを伺う。途端、顔がぱあと明るくなったように見えたのは、僕の思い過ごしでないと信じていいのだろうか。
ともあれ、彼女は言った。
「あ、おかえり!」
「ただいま」
彼女の意気に気圧され、声が詰まる。何も恐れることはない。身を奮い立たせて、一歩ずつ彼女のもとに向かう。
雲が厚いから、夕日の色も判然としない。蛍光灯を点けると、うずくまっていたあきの姿がはっきりと見えるようになった。
「何してるの」
「んー」
質問には答えず、あきはがさごそと漁っていたビニール袋から何かを取り出し、僕に見せた。
「これ」
四角い紙の箱に収められたそれを手に取り、裏返してまじまじと確認する。本当は、表の表記だけでも何のために用いるものか明確にわかっていたのだけど、信じられないという想いと、昨日の夢が真正面から相克し、何度も何度も確認をする羽目になってしまった。
尋ねる。
「これ……」
「うん」
あきは頷いた。明るく、嬉しそうに。
それは、コンドームだった。
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