そして僕は途方に暮れる 1

 

 

 

 振り仰ぐように見上げた空はとても暗く、己の無力さに嫌気が差した。
 点々と浮かぶ星に救いを求めようとしても、それらの光はやはり遠く、手を伸ばしても、届かない。
 思春期のような、あるいは稚児のような、死にゆく末期の老人のような他愛もない仕草は、窓ガラス越しに聞こえてくる気だるい忠告に遮られた。
 外、寒いよ。
 うん、知ってる。
 実際、十五階のテラスから見る空は、平面に過ぎる大地からすればかなり近い。それでも僕は、神話のように、今は見えない灼熱の太陽に憧れた。
 月に雲がかかり、夜の空気が身体を冷やす。
 潮時だった。
 閉め切られた窓を開け、部屋に帰る。そこには暇を持て余している友人がいて、用もないのに、僕の生活空間を侵している。
「帰った方が、いいと思うけど」
 ベッドに寝転んだまま漫画を読み耽っている彼女は、あまり楽しそうに見えなかった。狭い部屋に二人、男と女が揃っている。それぞれ、思うところはあっても、それを改めて口に出すことはない。
 僕の忠告に、彼女は本を閉じ、眠たそうに起き上がる。彼女は髪を染めているけれど、途中で面倒になったのか、茶色がかっている部分は前髪の一部に過ぎない。
 制服のまま、ベッドを占領している彼女は適度に可愛らしかった。仏頂面でも、退屈そうでも、そこにいるだけで女らしい魅力を解き放っているように見える。
「家、誰もいないから」
 明後日の方向を眺めながら、彼女はぼそぼそと呟く。
 空調が効き過ぎている。少し、暑いくらいだ。窓を開けようとして、そういえばさっき彼女は寒いと言っていたなと思い直す。
 加湿器に注がれていた水は、とっくの昔に尽きていた。試しに咳をしてみると、喉が擦り切れるような痛みを覚える。
「何か飲む?」
 尋ねる。
 再び寝転んだ彼女は、漫画に飽きて眠りに入ろうとしていた。ん、とくぐもった言葉を背中で聞き、ヤクルト、と聞き慣れた答えが返って来る前に、冷蔵庫の扉を開けた。

 

 

 彼女も僕もありきたりな高校生で、クラスも同じで、だけれどもあまり話すことはなかった。半年くらいは、顔と名前が一致しなかった。今でも、名前を間違えることがある。それは彼女も一緒だった。
 初めて言葉を交わしたのは、彼女が何かの理由で学校を休んだ次の日、彼女から昨日のノートを見せて欲しい、と言われた時だった。断る理由もないから直ちに了承し、彼女は昨日の範囲を懇切丁寧に自分のノートに書き写していた。
 字がとても綺麗だった。
 それと、付け足すようで気が引けるけれど、顔も。
 初めて彼女が僕の部屋にやってきたのは、その一週間後のことだった。
 僕が棲んでいる場所なんて、後ろから尾けていれば簡単にわかる。僕は幸いにも鈍感な性質だったから、彼女に尾行されていることも、彼女が先回りしてマンションの入口に待っていたことにも、何ひとつ気付けなかった。
「家、ここなんだ」
 集合ポストに寄りかかって、彼女は暇そうに踵を鳴らしていた。僕の質問に素っ気なく首を振り、僕の瞳を覗き込む。傷ひとつない滑らかな彼女の肌が、ぼんやりと光る橙色の照明に照らされ、深く陰影を刻んでいた。
 僕は彼女が何を求めているのかわからなかった。彼女のことは何も知らなかった。幸い、顔と名前は一致するようになったけれど。
 まばらに染められた茶色の髪は、照明のせいで色の境界が曖昧になっていた。
「にしな、すすむ」
 彼女が、僕の名前を口にする。しなやかな指先は、ちょうど僕の名が記されたポストをなぞっていた。
「しん、て呼んでいい?」
 飼い始めた仔犬の名前を決めるような気軽さで、彼女は僕の新しい名前を告げた。断る理由がなかったから、僕も頷いた。
「小清水、明子」
 彼女に倣い、僕も彼女の名前を言う。
 満足げに微笑む彼女の仕草が、やけに嬉しかった。
「あき、でいいよ」
 あんまり、明るくもないんだけどね。
 それを言うなら、僕も同じだ。
 お世辞にも、僕は先に進んでいるとは思えなかったから。
 ただ、席が隣り合っていただけなのに、彼女は僕の部屋に訪れた。深読みすることは出来る。疑うことも容易かった。
 それでも僕が何もしなかったのは、本当に何の根拠もないのだけど、彼女が他人を傷付けるような人間には見えなかったからだ。
 本当に、頼りない保証だったのだ。
「ノート、ありがとう」
 一週間前のお礼を、今頃になって彼女は言う。思えば、ノートを貸した時はお礼の言葉を聞いていなかった。もしかしたら、彼女は不意にそのことを思い出したのかもしれない。そんな気がした。
「次があったら、その時はよろしくね」
「あ、うん。わかった」
 面白味のない受け答えだな、と言った後に後悔する。
 僕はあまり特徴のない性格をしていた。だから、彼女が僕に興味を持ったらしい理由も、よくわからなかった。裏を返せば、あまりにも凡人すぎる凡人に見えたから、害がないと思って話しかけたのかもしれないけれど。
 マンションの扉が開く。会社帰りの男性が、集合ポストにたむろしている高校生を訝しげに眺めている。彼女は、どうぞ、と言うふうに身を引いた。男性は、こちらを見ずに部屋の暗証番号を押していた。
「ここだと、邪魔になるね」
 外は暗く、家に帰る人たちが大挙を成して押し寄せて来る。彼女はそれを知りながら、僕の部屋のポストにその人差し指を突き入れた。ラベルが歪み、内側からかたんと硬い音が聞こえる。
「部屋、入ってもいい?」

 

 

 僕の部屋には居間がひとつしかないけれど、二人でも窮屈にならないように空間そのものは広く取られている。だがそれも、大きめのベッドが配置されているためか、あまり余裕があるようには見えない。
「うわぁ……広いんだね、お金持ち?」
 僕は首を振った。
 彼女は残念そうに指を鳴らし、またすぐに部屋の中をくるくると漁り始めた。僕は止めなかった。根拠はないけど、こうなるような気がしていた。ベッドの脇に鞄を置き、ネクタイとベルトを緩める。その後で、彼女に誤解を与えたかもしれないと後悔した。
 だが、彼女は窓の向こう側に映る階下の街灯に目を奪われていた。
 地上十五階にあるこの部屋から見える景色は、人の影や、ざわめき、生ぬるい風も何もかも、丁寧に遮断してくれる。それはとても楽なことのように思えた。虫も鳥も来ない。相変わらず太陽だけは部屋の中を橙に染めるけれど、空に近付いたことは嬉しかった。
「気に入った?」
 後ろから尋ねると、窓ガラスに触れていた彼女の指が、微かにきりきりと爪を立てた。
「うん……とっても、素敵だよ」
 興奮を隠し切れずに、彼女は呟いた。
 彼女のために用意した部屋でもないのに、僕はどこか誇らしげな気持ちで一杯だった。つまらない虚栄心であると知っていても、僕はやっぱりつまらない高校生だから、誰かの前で良いところを見せたかった。
 この景色は、僕が手に入れたものじゃない。それは、ずっと前から承知していたことなのだけれど。
 彼女はくるりとスカートを翻しながら、タンス、本棚、テレビ、ベッド、カレンダーなどを物色していた。動くたびにふわりと漂う女の子の空気が、丁寧に、僕の部屋を犯していく。
 でも、それは心地の良い感覚だった。
 変態かもしれない。
「結構、物が少ないんだ。意外」
「あんまり、お金がないから」
「でも、いい部屋だよね」
 CDのケースを何度も開閉しながら、何でもないことのように告げる。開ける音、閉じる音、どちらにしても空気が逃げる乾いた音が響き、じりじりと揺らめく蛍光灯の音色だけ聞こえる部屋に溶けた。
「実は、親戚の人のマンションなんだ」
「やっぱりお金持ちじゃん」
「その人はね」
 彼女はケースを戻し、ねずみ色のくすんだカーペットにぺたんと座り込んだかと思うと、すぐさま靴下を脱ぎ放った。放り投げられた生温かい靴下が、冷たいベッドの柵に引っかかる。
 唐突に、何を話しているんだろう、と己を省みる。けれども、今更引き返せるはずもなかった。もう既に終わったことだから、これから何を話すのか、いちいち思い悩む必要もないのだ。
 楽でいい。
「僕は、違うよ」
 違うんだ。
 繰り返した言葉は、彼女にも、僕にも聞こえなかった。
 彼女は、座り込んだまま、眠たそうに欠伸をしていた。
 あまり、面白い話じゃなかったみたいだ。実際、僕も大して面白いと思えなかったから、ちょうどよかった。
「ねえ、しん」
「……ん、ああ」
 その名前が僕に与えられたものだと気付いた頃には、彼女はもう立ち上がっていた。太ももから露になった生身の足が、青白く光り輝いている。
 まぶたを擦りながら、ふらふらとベッドに向かって歩き出す。僕の横を通り過ぎ、受け身も取らず、ベッドに転がり込む。仰向けになった彼女は、苦しげにため息を吐いた。一日分の疲れと、僕には見えない重責のようなものを吐き出しながら、彼女はぼそぼそと呟く。
「ごめん、もう寝るわ……ベッド、借りるね」
 最後にもう一度「ごめん」と謝罪して、彼女――小清水明子、僕にとっての『あき』――は、初めて僕の部屋で眠りに就いた。
 数分としないうちに、すうすうとか細い寝息が部屋に流れる。
 制服のまま、靴下だけ脱ぎ、彼女は静かに他人の男の家で眠る。
 制服越しから、小刻みに上下する彼女の胸が見える。無防備だった。これが僕に対する信頼だと言うのなら、彼女は人を見る目がないと言わざるを得ない。その夜、僕は彼女に触れなかったから、一応は信頼に応えたと言えるのだろうけど。
 後にして思えば、あの日、彼女は何をされてもいいと考えていたような気がする。
 だとしたら、彼女の頬を流れていた涙の理由が、こじつけだとしても強引に付けられるんじゃないかと思ったのだ。

 

 

 



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2007年2月5日 藤村流

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