そして僕は途方に暮れる 5

 

 

 

 雨が降り出した。
 僕はその雨音を聞かずにカーテンを閉めた。高層マンションの十数階ともなれば、覗けるのは部屋の明かりくらいだ。警戒する必要もない。が、何でもいいから行動を起こさなければ、テーブルに置かれている代物について、あきに質問しなければいけない。
 心の準備が出来ていなかった。
 心臓は小刻みに激しく鼓動を刻んでいる。
 体温が上がっている、ように感じられるのは、やはり、興奮しているのだろうか。
 僕は。
「しん?」
 どくん、と鳴る。
 背中に掛けられた声は、いつもあきが呼んでいる口調と変わりない。けれど、今の状況と、僕の高揚が、その声を際限なく卑猥に響かせる。
 いつまでも、カーテンとにらめっこをしているわけにもいかない。覚悟を決めて、僕はあきの方に向き直った。
「落ち着かない?」
「……ちょっと」
 そうだよね、と彼女は言った。意地悪そうに、でも少しだけ申し訳無さそうに、舌を出しながら。
 テーブルの端に腕を乗せ、ちょこんと座っているあきは、制服を身に纏ったままだった。
 その格好でよくコンドームが買えたものだ。勇気があるというより、考えなしとしか思えなかった。だが、ひどく彼女らしい。
 対面に座ると、あきは不意に立ち上がって僕の隣に腰を下ろした。ふわり、と漂ってくる女の子の香りは、僕が忘れようとしていた香りだった。折角、あきから身を離していたのに、ここまで近くに擦り寄られたら、匂いを感じずにはいられなくなる。
 そうすれば、昨日の夜のことも、思い出さずにはいられなくなるのに。
「ちょっと……」
「ん?」
「近い」
 身をよじらせ、彼女から――彼女の香りから逃れようとすると、彼女は眉間に皺を寄せた。
「近いっていうのは」
 床に付けていた手のひらを、僕の太ももに置く。肩が寄り、彼女の髪の毛が二の腕に絡みつく。
「これくらいだよ」
 体温がある。彼女の声が耳の裏側から木霊している。
 ポリエチレンの包装が蛍光灯の薄い光に照らされて、鈍い輝きを放っている。リモコンは明後日の方向を差し、ベッドのシーツはしわくちゃで、カーテンは既に閉ざされている。穏やかに刻むアナログの秒針が、重なり合う二人の影を嘲笑っているように見えた。
 陽は落ちた。
 雨は、何もかもを掻き消してくれるだろうか。
 息を呑む。
「あき」
「ん」
 瞳を覗き込む。
 潤んでいるように見えるのは、蛍光灯の加減だろうか。それとも、泣いているのだろうか。僕にはわからなかった。
「しん」
 あきの声は震えていない。僕があきを呼んだ時も、声は震えていなかった。緊張していない、わけでもない。動悸が激しいのは相変わらずで、視界がおぼろなのは泣いているからかもしれない。不安要素など、数え上げている暇もないくらいだ。
 太ももに感じるあきの重力を、手のひらの柔らかさを、重苦しいくらいの体温を――じわじわと広がってくる感覚を抱いたまま、僕は言った。
「するの?」
 少し、間が空いた。
 見詰め合い、近い位置でお互いの存在を感じ合っている。僕も、あきの肩に手を置くべきだろうか。それとも、背中、膝、頭、顎、お腹――あるいは、何も触れずにおくべきだろうか。
 ただ、あきの匂いだけが鼻筋を掠める。
 あきは、こくりと頷いた。
「……したい」
 あきは、確かにそう告げた。
 答えなど、何日も前に出ていたのに。
 その言葉があまりに意外すぎて、僕の頭の大半を占めていた常識や理性といったものが、ほんの一瞬、この世から消えてなくなってしまった。
 酔う。
 この部屋に、僕を酔わせるくらいの何かがあるとすれば、それは間違いなく、あきの身体から放たれる「匂い」なのだと。
 僕は理解して、あきの肩に、頼りない手のひらを乗せた。
「あ……」
 ぴくり、と怯えるように少しだけ震えた肩は、あきの体温が僕の身体に伝わる頃には、もう完全に止まっていた。
 委ねられている。
 頷くために項垂れていた顔は上がり、栗色の瞳は、どこか悲しそうに潤んで見えた。
「僕は」
 彼女が瞬きを繰り返すほどに、瞳は更に深く滲んでいく。人肌が近い。声も、吐息も、温度も、重ねた手のひらから全て感じることができる。そうすることで、胸に秘めた想いさえも余すところなく伝えられるのだとしたら、今更、言い訳めいた言葉は必要ないのかもしれない。
 けれど、わだかまりを抱えたまま、先に進むことはできなかった。
 どうしてもだ。
「僕には、まだ、よくわからない」
 彼女の潤んだ瞳が、僕の目の中でふわふわと揺れている。
 可愛いな、と、綺麗だな、と思う。
 けれど。
「あきのことが、どのくらい好きなのか」
 それすらわからない今の僕が、彼女を抱き締めることは許されるだろうか。
 あきは、寂しそうな目をしていた。
「わからないんだ」
 繰り返した。
 あきの肩から外そうとした手を、あきの右腕が掴む。風船の紐を握り締めるような頑なさで、僕の手首を締め上げる。あきに、僕の脈拍は聞こえているだろうか。女の子の匂いを感じながら、僕の心臓は穏やかな鼓動を刻んでいた。心が冷たくなっていく。これほどの好意を受けておきながら、やっぱり僕は、誰かを好きになることはできなかった。これから、好きになるかもしれない。けれど、これ以上ないくらい近い場所に誰かの存在を感じていたはずなのに、それでも、この期に及んで、何もわからなかったのだ。
 救われない。
「だから」
「私は、しんのことが好き」
 遮るようにして、あきは言った。
 眼差しは強く、僕が否定の声を上げても、全く聞きはしなかっただろうと思う。
 僕も、あきの気持ちを拒むことはなかったけれど。
「でも」
「でも、じゃないよ」
 ふと、あきの強張った表情が緩み、握り締めた僕の手首を、自分の膝元に下ろす。だらんと垂れ下がった僕の左手も、同じところに乗せられる。四つの手のひらが重なり合い、その部分だけ急速に熱が上がっていく。
 顔が火照った。
「どれくらい好きか、なんて関係ない。好きなら好きでいいよ。量とか、重さとか、そんなこと、いちいち考えなくてもいいの」
 優しい口調だった。
 出会った頃には一房だけ染められていた髪の毛は、いつの間にか、黒に塗り潰されようとしていた。それなりに、時間は経った。それなりに、かけがえないと思える思い出も出来た。
 その思い出の隣に、いつもあきがいたのなら。
 たとえ、言葉にならないぼんやりとした想いでしかなくても。
 僕は。
「あき」
「ん」
 名前を呼ぶ。
 大切な名前。
「僕は、あきのことが大切なんだ」
「……嬉しい」
「だから、簡単にそういうことをしていいのか、迷ってる」
「簡単に、じゃないよ」
 あきは、その手のひらを僕の胸に寄せた。
 鼓動は、いつしか速まっていた。
「しんに会うまで、たくさん、回り道したもん」
 だからね、と小さく前置きをして。
 あきは、立ち上がるような姿勢で、僕の唇にキスをした。
 ――これは、私へのご褒美。
 耳たぶに、そんな囁きが聞こえた。

 

 

 一秒、二秒、時間はそんなものだったと思う。
 小さな喘ぎと共に離れた唇と唇から、あきが少しずつ遠ざかる。歯や、鼻がぶつかることもない丁寧なキスは、感触を確かめる間も、味を堪能する間もなく、あっさりと終わりを告げた。
 あきが、照れたように笑っている。僕は、思い出すように唇の感触を確かめていた。
「初めて?」
 認めるのは少し恥ずかしかったけれど、素直に頷くしかなかった。
 柔らかかったけれど、どこか無機質で、アクリルの感触が思い出された。縦横に刻まれた皺も、どこか繊維のような作り物めいた趣があって、目を瞑っていれば唇と知ることは難しかったかもしれない。
 それでも、恍惚とした気持ちになる。
 きっと阿呆みたいにぽかんと口を開けている僕のことを、あきは、微笑ましく見守っていた。
「気持ちよかったんだ」
 そう、確信を持って尋ねられると、反応に困る。
 顔を見ているとわかるよ、とでも言いたげに、あきの手のひらが僕の頬を包む。
 髭のない滑らかな肌を撫でる、汚れのない指先を感じる。鍵盤を打つように触れられる頬から、ひとつひとつ、音のない震動が伝わってくる。
「知ってる?」
 その指が僕の顎に掛かり、短い爪の先が浅く皮膚を掻く。痛みより、むず痒さが先に走った。
「舌って、結構感じるの」
 やがて手のひらは僕の首筋に回り、引き寄せられるように、あきの唇が近くなる。
 僕は捕らえられた蝶のように成す術もなく彼女の領域に吸い寄せられ、柔らかく、温かいものを感じる。瞳を閉じるべきか、彼女の幸せそうな表情を目に焼き付けるべきか、一通り悩んだ後に、僕はあきの背中に手を回した。
 まぶたを閉じる。
 そして追いかけるように、唇がこじ開けられた。
 意味のある言葉はなかった。
 呻き、喘ぎ、吐息といった、温かくて、柔らかいものが唇から鼻筋に広がっている。
 湿った粘膜が絡み合う、ぴたぴたした音が舌に突き刺さり、耳ではなく、喉で音を感じる。雨漏りのような、ぴちゃぴちゃした水滴が、口の中を少しずつ満たしていく。
 ぬめぬめとして、捕らえどころのない舌が、いくら巻き込んでも舌から逃げてしまう。掴み切れない。彼女の咥内で呻いている僕の舌は、不意にあきの舌に絡め取られる。饒舌に、包み込むように舌を抱き締められる。
 ――気持ちいい?
 そう聞かれている気がして、唾を飲んだ。
 鼻息が荒い。
 いつまで唇を重ね合わせ、どれくらい舌を交え合えばいいのだろう。
 唾が唇から顎を伝い、二人の太ももに落ちる。拭うこともせず、お互いの体温を最も近い位置で感じ合い、雨の音も忘れ、それに等しい水滴を口の中で再現する。
 途中、不器用な抱擁の間隙を縫うように、乾いたチャイムが鳴り響いた。
 その正体を知っていた僕は、わざと聞こえない振りをして、あきの唇を貪った。
 せめて、今だけは、現実を告げる悲しい音は忘れていたい。僕にも、それを望むことはできるはずだ。逃げたかった。この快感とも言えない不確かな繋がりに没頭して、何もかも忘れて、涙が落ちるような雫の海に溺れていたい。
 許されるのなら。
 たとえ、許されないのだとしても。
 ――大丈夫だよ。
 くちゅ、とまた短い音を立てて、あきが、その唇を静かに離した。
 気が付けば、雨は鳴りやんでいた。

 

 

 

 



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2007年6月19日 藤村流

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