そして僕は途方に暮れる 2

 

 

 

 彼女が眠りに就いている間、僕は起きていることが多い。それは些細なプライドであり、単に眠りが浅いという性質上の問題でもある。
 彼女は隣で寝ても構わないと言うのだけど、今の僕にそんな度胸はなかったから、大抵は部屋の片隅に布団を寝言にしている。たまに、彼女がそっちで眠っている時もあり、その時は僕がベッドで眠ることを余儀なくされる。ベッドには、彼女の匂いが染み付いている。おそらく、彼女はそれを見越しているのだろうと思うけれど、指摘は出来なかった。
 今日もまた、彼女は僕のベッドで眠っている。その寝顔を覗き込んでも、たとえ頬に何か悪戯をしたとしても、彼女は決して目覚めないに違いない。その確信はあった。
 喉が渇いた。彼女が好きな、ヤクルトでも飲もう。数が減ったら彼女は怒るけど、僕が供給しているのだから強くは言えないはずだ。
「あき……」
 名前を口ずさむ。本人を目の前にしては、あまり口に出来ないけれど。
 一方、彼女は僕のことを早いうちから「しん」と呼び続けている。愛想もなく、時には冷淡にすら聞こえる調子だけれど、それが彼女の普通なのだと気付くまで、そう長い時間はかからなかった。
 小清水明子は、人生に退屈している。
 ありふれた言い方だけど、学のない自分には、そんな表現しか出来なかった。
 ヤクルトを開けて、立ったまま飲み干す。喉越しの悪さが心地よい。わざわざ彼女の目の前でヤクルトのケースをちらつかせ、何の反応もないとわかると、近場にあるゴミ箱に軽く放り投げた。
 空のポリエチレン容器は、丸いゴミ箱の縁にぶつかって、カーペットの上に不時着した。

 

 

 初めて、あきが僕の部屋で眠りに就いた夜。
 僕は気を紛らわすために、テーブルの隅でパソコンのキーボードを叩いていた。適当にテキストを開き、題名も付けずにつらつらと意味のない言葉を書き連ねる。それは暇潰し以上でもそれ以下でもない、僕が今まで送っていたような退屈な生き様のようだった。
 ひとつだけ違うことがあるとすれば、女の子が僕のベッドで眠っているということだ。
 考えてみて、想像が追い着かないくらいとんでもないことだと気付く。頬を抓るような幼稚な真似はついにしなかったけれど、自分の呼吸を止めて、仰向けに転がっている彼女の呼吸を確かめていた。息苦しくなり、慌しく呼吸する音が邪魔で彼女の寝息が聞こえなかったから、落ち着いてからはじっと彼女の寝息を聞き続けていた。
 薄らぼんやりとしたディスプレイが、ちりちりと輝いている。付き合いが古いものだから、たまに明度がぼやけることがある。買い換える必要はまだ無いが、いずれ考えなければいけない。
 そんな瑣末なことを考えているうちに、時間は怠惰に過ぎる。
「腹……減った」
 呟く。口に出すと余計にお腹が空くものだ。
 僕は開け放たされたカーテンを静かに閉め、起きる気配のない彼女を置いて台所に向かう。丈の短いスカートから見える彼女の膝が、蛍光灯の青い明かりに照らされて青白く輝いていた。
 頭がぼんやりする。着替えも風呂も済ませていない。考えなければならないことが多すぎた。
 独り暮らしには大きすぎる冷蔵庫の前に屈み込んでも、その扉を開けることも出来ず、重くこもった駆動音を聞き続けている。平静を保つことは難しい。ぼんやりと生きて来たから、余計に。
「あぁ……駄目だな、こんなんじゃ」
 首を振る。しっかりしないと。次から次へ、処理すべき課題が山積みされていても、ひとつひとつ解決しないことには何も始まらない。そう思っても、結局は夏休みの宿題のように後回し。永遠に休みが終わらない僕には、その山を崩しきることは永久に叶わないのではないかとさえ思う。
 一言で表現すれば、僕が無気力だということなのだろうけど。
 冷蔵庫を開ける。
 調味料、冷たい卵、冷えた乳製品。食べられるものはあれど、調理をしなければ栄養になりにくいものばかりだ。だが、フライパンをセットするのも億劫だった。確か、棚に食パンがあったはずだ。僕は冷蔵庫からマーガリンとチーズを出すに留まり、振り返り際に棚に手を伸ばした。
「ねえ」
「うわあ!」
 そこに、あきがいた。
 叫び、腰を抜かす僕をきょとんとした目で見下ろし、数秒後に唇から息を漏らす。しばらく経って、それが不意を突かれて笑った時の仕草だということに気付いた。
 彼女の髪は、何の手入れもしないまま眠りに就いたせいで、あちこちが乱れて暴れていた。一瞬、梳いてあげようか、とブラシもないくせに助け舟を出そうとする。
「変なの。そんなにびっくりした?」
「したよ……だって、君、幽霊みたいだから」
 彼女は、まだきょとんとした顔をしている。
 幽霊と言われたことに納得がいかないのか、それとも、「あき」でなくて「君」と言われたことに納得がいかないのか、結局はっきりしないまま彼女は先を続けた。
「おなかがすいた」
「う、うん。そうだね」
「何か作るつもりだったんでしょ」
「そうだけど……でも、大したものは作れないよ。独り暮らしだから」
 ふうん、と冷蔵庫の中を覗き込む。
 ふわりと僕の傍らを流れる黒髪が、女の子の匂いをしていることに気付き、僕は目を逸らした。見てはいけないと思った。
 毛先が僕の頬を撫で、酷く痒い。
「うわ……ほんとに、何もないんだね」
 冷蔵庫から離れ、彼女が渋面を晒す。寝ぼけまなこを擦りながら、まだ立ち上がることも出来ない僕に何かを提案しようとしている。
 予測することは簡単で、拒むこともきっと容易かった。でも、僕はそれをしなかった。
 腕組みをして、悩む彼女の仕草がとても可愛らしかった。
 手の届く距離に居てさえも、僕は、彼女がそこにいるということを信じられなかったから。
「私が作るよ」
 僕は、拒むことも、受け入れることにも、前向きではなかったのだと思う。
 だから、僕はこのまま流されることを選ぶ。今までのように、これからもまた、変わらない。
 彼女は、僕の返答を待っているようだった。既に提案の意味は咀嚼していたから、言葉を返すこと自体は簡単だった。
「作るって……料理を?」
「うん」
 頷く。跳ねた髪を手櫛で直そうとするけれど、やっぱり上手くはいかない。
 冷蔵庫の重低音のみが台所を包む。彼女の呼吸は生きている人間のそれで、僕の呼吸も彼女とそう大きな違いはないのだろうけど、それではやっぱり僕は死んだ人間のような呼吸をしている気がした。
「でも、いいの?」
「不満?」
「そんな……そんなことは、ないけど」
 首を振る。
 一瞬、渋面を晒していた彼女の顔が、また次の一瞬にはぱっと明るくなる。
「うん、良くはないけど、悪くない答え」
 彼女は満足した様子で、IHヒーターの後ろに突っ込んでおいたフライパンを拾い上げた。決して軽くないフライパンを軽々と持ち上げる仕草は、彼女の調理技術を裏付ける証拠とも言えそうだった。
 実際、お腹が空いていた僕は、深く考えることもないまま、彼女の提案を受け入れた。
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「当然」
 小さく、胸を反らす。
 明後日の方角に跳ねた髪が、彼女の誇らしげな仕草と相まって、とても可愛らしく見えた。

 

 

 結果――過程を鑑みなければ、料理は成功していると言えた。
 野菜が無いから、フライパンに油と卵を落としてフレンチトーストを二人分。
 味噌が無いから、インスタントの味噌汁を二人分。
 冷蔵庫の奥に突っ込んでいたキムチを取り出し、多彩な料理が深夜の食卓に並べられる。
 いただきます、と律儀に手を合わせる彼女に倣い、僕もまたわざとらしく手を合わせた。
 一人でいる時は、いただきますと言うこともなかった。
 言わなくてもいい言葉を発することの煩わしさは、確かにあるけれど。
「食べないの?」
 美味しいよ、と口を付ける前から彼女が僕の顔を覗き込む。
 真正面にある彼女の顔は、不機嫌にさえ見える寝起きの表情よりは随分と和らぎ、集合ポストで待ち構えていた時と同じ柔らかさを取り戻していた。
 そうして、彼女の素顔をじろじろ眺めていることに気付き、咄嗟に目を逸らす。
「うん。まあまあ、かな」
 箸で摘まんだトーストを口に運び、あきが幸せそうに頷く。跳ねた前髪がぴくりと揺れる。
 蠢き、歪む彼女の口元を見続けていたら、彼女の箸が僕のトーストを突いた。
「あっ」
「食べないと、冷めちゃうよ」
 言って、箸で丁寧にトーストを捌いていく。八枚切りのパンの一枚を丁寧に四分割し、そのうちの一つを自分の皿に持ち帰った。
 僕はその動きを瞳に焼き付けている。
 彼女がトーストを咀嚼し、嚥下し、喉を鳴らす瞬間さえも刻み付けて、変態ぽいな、と思った。
「……美味しいのに」
 ぼそりと口にして、彼女は味噌汁に口を付ける。
「うわ濃い!」
「調節したんじゃないの、あきが……」
 呟いた言葉に、彼女がぴくりと反応する。
 何故こちらを見ているのかその理由を考えて、答えが出る前に彼女は意地悪そうに笑っていた。
「呼んでくれたね、名前」
「……あ」
 僕が呆けている隙に彼女はトーストの一切れを奪い、また味噌汁に啜り、やっぱり濃いなあと手元のグラスから水を注ぎ込んでいた。
 頭の中にあるのは、名前を呼んだこと、名前を呼ばれたことの違和感だった。
 久しぶりのようにも思えるこの感覚が、違和感のまま潰えるか、それとも別の何かに昇華するのか、今は漠然としすぎていて知りようがない。
 でも、幸せそうに夜食を頬張る彼女――あきの顔を見ていると、このまま終わりそうにないこともわかっている。
 ずるずると引きずられながら続いて行く遊戯の果てにあるものが、凄惨な結末でないと断じることも出来ないけれど。
「……」
 僕はトーストを手で摘まみ、油のぬるぬるした感触を確かめながら口に運ぶ。
 ちょっと冷めてしまったトーストの味は、どこか生暖かく、それでいて、酷く柔らかい味がした。
 恥ずかしいことを言うなら。
「やっと、食べてくれた」
 ちょうど、目の前にいる女の子のような。

 

 

 



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2007年3月28日 藤村流

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