そして僕は途方に暮れる 6

 

 

 

 雨音が消えてから、何分が経ったのかわからない。
 一定の間隔で響いていたチャイムは、いつしか鳴りを潜めていた。僕は意図的に無視していたのだけど、もしかしたら、あきの耳に邪魔な音は一切聞こえなかったのかもしれない。目の前で、栗色のつぶらな瞳が訴えかけているものは、チャイムを鳴らした人物の正体ではなくて、ただ、仁科進と小清水明子のこれからであるように思えた。
 恥ずかしい言い方をするなら、未来、のようなものだ。
 ぼくと、あきの未来。
 それはとても魅力的であり、蠱惑的でもある言葉だった。
「ね」
 彼女は器用に、左の眼でテーブルの上の避妊用具を見、右の目で、陶然としているであろう僕の顔を覗き込んでいた。悪戯っぽい瞳が小悪魔のそれに思えてしまうのは、先程、僕のファーストキスを奪い去ったことを考えれば、どうしても仕方のない話だった。
「シャワー、浴びて来てもいい?」
 僕は壁の時計を見た。六時前。残念ながら、夕食には少し早かった。
 あきが頻繁に僕の部屋に泊まっている以上、どうあってもシャワーを浴びる必要は生まれる。特に何も考えず、考えようとせず、あきにお風呂を貸しているのだけど、わざわざこのタイミングでその台詞を言う意味が解らないほど、僕は鈍感でもないつもりだった。
 あるいは鈍感であった方が、少しは救われたのかもしれないけれど。
「あ、……うん」
 僕は了承した。
 躊躇や逡巡の時間がなかったといえば嘘になるけれど、それよりも僕は、ぼくらの未来の行く末を見てみたいと思った。唇だけに留まらない、これからのこと。
 自然と、僕の眼もテーブルの上にある器具に移っていた。
 あきがくすりと笑う。
「じゃ、ちょっと待っててね」
 濡れた唇を制服の袖に浸し、あきは赤らんだ膝を立たせた。
 あきの替えの下着や寝巻きも、僕の部屋にある箪笥に収納されている。そこからお気に入りらしいものを見繕い、最後に僕の方を振り返って目配せしてから、お行儀よくドアを閉めた。低くこもった足音がフローリングを滑り、程無くして、お風呂の扉を開閉する音が聞こえた。そこでようやく、僕は安堵の息を吐くことが出来た。
 ――ちょっと待っててね。
 反芻する。
 穏やかな胸の鼓動が、再び忙しなく動き始める。何を待てばいいのだろう、その意味など解りすぎるくらい解っているくせに、わざと考えないようにしている。姑息だった。キスと、コンドームと、小清水明子、だ。役者は揃っている。事態は、僕が思う以上に切迫していた。
 雨が降っていないから、とても静かだ。耳鳴りがするくらい静かな部屋の中に、僕だけが取り残されている。汗ばんだ額をワイシャツの袖で拭って、ようやくまだ着替えもしていないことに気付いた。そしておそらく、このまま行けばすぐさま寝巻きに着替えることになる。
 いくらか、裸でいなければいけない時間を挟むだろうけど。
「……わ」
 赤面する。
 あきは、したい、と言った。ぼくと。そういうことをしたいと望んだ。
 キスもしていなかった僕に、そういう経験はない。どうすればいいのかも全く解らない。ただ曖昧な知識と情報を頼りに、あきの身体に触れることになる。
 好き合っていれば、愛があれば、というけれど、やっぱり、ちゃんとしたいとは思った。
 ちゃんと。
 状況に流されているのでなく、僕たちが、そうしたいからする、ということを示すために。
 誰に示すでもなく、ただ、僕たち自身の言い訳のために。
「恥ずかしいな……」
 ぽつり、と呟いた。
 恥ずかしい。照れる。
 それはどうしようもないくらいの真理で、拭うことも捨てることも出来ない概念だった。そういうことを何とも感じられなくなったら終わりだ、と思わなければ、気が狂いそうなくらいの羞恥心を、僕はあと数時間も続けなければならない。
 情けなくて、恥ずかしくて、それでいて、嬉しかった。
 お腹の底から、笑いが込み上げる。
「……はは」
 おかしな感情だと、自分でも思った。
 これが誰かを好きになるということなら、確かに、悪くはないと思った。こんなことなら、もうすこし早く、誰かを好きになればよかった、と。過ぎ去って見えなくなってしまった日々を想い、後悔にも似た憧憬を抱く。
 耳を澄ませば、あきの鼻歌が聞こえるようだった。
 陽が落ちた空は物の見事に暗転し、それでもカーテンの隙間から綺麗な星空を拝むことは出来ない。夜の空はいまだに暗黒で、星の光も、月の瞬きも全て分厚い雲に吸い込まれている。
 きっと、月から見たら、僕たちの部屋から漏れているちっぽけな明かりも、ぼんやりとした輝きでしかないんだろうな、と。場違いなことを考えた。
 インターホンが鳴る。
 繰り返し、繰り返し、部屋の明かりは扉の外に漏れないから、居留守をすればやり過ごすことは出来る。けれども、扉越しに声は伝わる。
「進君」
 男の声だった。聞き覚えがあって、あまり思い出したくはない声だ。
 切羽詰っているわけでもなく、脅迫めいたものでもなく、声はただ僕の名前を呼んでいた。「しん」と呼ばれる前の、何でもない、何も知らなかった僕の名前を、何度も、何度も。
「進君、いるんだろう」
 シャワーの音が混ざっている。あきに、その声は届いているのか。わからない。わからないけれど、確かめようもなかったから、僕はその声の主を追い払うことを優先した。
 靴下は足音を消し去り、あきにも来訪者にも悟られずに玄関に行ける。玄関の脇にあるバスルームからシャワー音が漏れ聞こえる。鼻歌のような低くこもった声が、遥かに大きくてうるさいはずのシャワーより強く耳に残った。
 三和土の上から、レンズを覗く。
「進君」
 名前を呼ばれているのに、何処か他人行儀に聞こえる。
 僕は、これから行われるやり取りがあきに聞こえないよう、ゆっくりと扉を開けた。
「はい」
 押し殺し、感情を潰した自分の声は、数分前の自分のものと思えないくらい穏やかで、生気が感じられなかった。
「ああ、やっぱりいたのか」
 安堵の息を吐き、表情を緩めたのは、背の高い壮年の男性だった。顔立ちは、何処となく僕に似ている。叔父なのだから、それも仕方のないことだ。仕事帰りなのか、それともこれから会社に顔を出すのか、夏も近いのにきちんとスーツを着込んでいた。少し疲れたような顔をしているのは、重要なポストに就いているからか、僕と顔を突き合わせているせいか。あるいは、僕の存在そのものが叔父の足枷になっているのか。
 面と向かって、それらの疑問を追求することは出来ないけれど。
「どうして、来たんですか」
「ああ、いや」
 口ごもる。髭のない顎を撫で、語弊のない言葉を探している。
 叔父である仁科博仁は、僕の保護者に該当する。叔父には僕の監督義務があり、だからこうして部屋を宛がってくれる。生活費も、少しぐらい贅沢しても余りあるくらいは振り込まれている。叔父は裕福だが、諸々の都合上、僕と一緒に住むことは出来なかったようだ。
 仕方ない。
 僕も、叔父と一緒に住む気にはなれなかったのだし。
「お金は、振り込まれてます」
「うん。それは解っているけど、ほら、しばらく顔を会わせてなかったじゃないか。どうしてるのかなと思って」
「元気に、やってますよ」
 苦笑する。苦々しく笑う気はなかったけれど、何故だか必死に喋っている叔父を見ていると、自然に顔が引き攣ってしまう。良くないことだ、叔父は、本当に僕に良くしてくれているのに。僕がそれを無碍にするのは良くないことだ。
 そう、解ってはいるのだけど。
「そうか、なら、いいんだけど」
「はい。叔父さんも、元気そうでよかったです」
「そうかい。そう見えるなら、いいんだ」
 叔父は、自分を納得させるように呟く。
 それから、扉の隙間から漏れ聞こえるシャワーの音と、一足余分にある、女物の靴に目を向けた。叔父は顔をしかめるでも厭らしくにやけるでもなく、ただ「うん」と呟いただけだった。
「じゃあ、またね」
「はい。お疲れ様です」
 優等生らしく、丁重に頭を下げる。叔父も何処か不自然に笑い、薄暗い廊下を引き返して行った。そのピンと伸びた背中を見送り、エレベーターに入る前に、扉を閉める。扉は安全上の理由からとても重く、それが今の僕にはやけに頼もしかった。背中を預けても、滅多なことではびくともしない。
 少し、昔のことを思い出した。
 額を押さえる。
「……は、あ」
 重苦しく、ため息を吐く。シャワーの音はやんでいたから、呼吸の音がよく聞こえた。下手をすれば、心臓の音まで聞こえてくるようで、ほんのちょっと忌々しかった。
 バスルームのドアが開く。
「しん」
 おそらく、バスタオルを巻いただけの彼女は、いつものように可愛くて、本当に綺麗だったのだけど。
 その時の僕は、どうしても、彼女の魅力に取り乱すことが出来なかったのだ。
「ねえ、しん……」
 心を占めるのは、何年か前、突然いなくなってしまった大切な人のことで、僕は、あきの姿を見れなかった。
 僕の目は、もう二度と見ることが出来ないくせに、少しずつぼやけ始めている母の姿を、ぼんやりと映し出していた。

 

 

 数年前の話だ。
 その事故は、素人目に見ても何処か腑に落ちない事件だった。
 十五階建ての高層ビルの屋上から、一人の中年女性が落下した。即死だった。屋上は開放されていたものの、貯水タンクやアンテナが混在しており、好き好んで入るような人はほとんどいなかった。
 警察は自殺と事故の両面から捜査したが、屋上のフェンスが数年前から破損していた件、遺書や精神疾患の類が見られなかった件などから、不慮の事故という結論に落ち着いた。女性が何故屋上に訪れたのか、その疑問は、女性が清掃員だったという証言によってあっさりと氷解した。
 普段、屋上に続く階段しか掃除していなかったのに、何故その日だけ屋上に入ったのか。
 その謎は、最後まで問われることはなかった。
 女性の名前は、仁科千秋。
 彼女と雇用契約を結んでいた清掃会社の役員は、仁科博仁。
 その屋上は、今では完全にフェンスが塞がれ、関係者以外立ち入り禁止になっている。

 

 

 

 



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2007年9月15日 藤村流

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