そして僕は途方に暮れる 3

 

 

 

 小清水明子と仁科進は優等生である。
 成績は勿論、周囲の評価も良い。口数は少ないが、誰の悪口も言わないから誰からも好かれる。その分、八方美人だと陰口を叩かれることもある。僕はクラスの女子が僕に黒い評価を付けている場面に出くわしたが、僕が通り過ぎると当たり障りのない顔で別の話題に切り替えていた。
 同じことが、小清水明子にも言えた。
 僕も彼女も、暇な休憩時間は自分の席に座っていて、ぼんやり景色を見たり机に突っ伏して眠ったりしている。彼女はたまに廊下に出て携帯電話を弄っているが、特定の誰かと親しく会話している姿を見たことがない。話しかけられたら答えは返すけれど、自分からアクションを起こすことは本当に稀だった。
 それは、おそらく僕にも言えることだ。
「……何」
 休憩時間、束の間の惰眠を貪っていると、ふと誰かの指が僕の背中に触れた。
 僕の後ろの席は男だが、こんなふうに僕の背中を突付く人間は一人しか知らない。だから若干ぶっきらぼうな口調になってしまうのは、彼女に対する友好の証だと解釈してもらえたら幸いなのだけど。
「ノート」
 単語だけで会話するのは、彼女が生粋の面倒臭がりだからである。僕も似たような性癖だから、つい、簡単な単語で意志の疎通を試みようとする。
「いたよね、授業」
「寝てた」
「僕も」
「うそだぁ」
「寝てたんだろ……」
「寝ないもん、しん」
 なかば意地になり、突っ伏したまま会話する。業を煮やした彼女が僕の耳たぶに爪を立てるが、退いたら負けだから意固地に構えていた。
「ん、ノート」
「しつこい」
「ヤクルト」
「ないよ」
 ノートの貸し借りは、初めの数回こそ新鮮味を感じながら行っていたけれど、その回数が両手両足で余るようになってからというもの、余程の緊急事態でない限りはレンタルを自粛することにした。ノートを貸し、彼女がそれを写すのも時間がかかる。その間、僕は無防備になる。それは御免被りたかった。
 ちぇ、と舌を打つ音が聞こえる。全く、我侭なお姫様だ。
 でも、このやり取りが心地よくもある。裏も表も曝け出した意味のない会話は、思い悩む隙間もないくらい単純で、純粋だった。
 続け様にがらがらと席に着く音が響き、一分ほど経った後、シャープペンシルの先のようなものがこめかみに突き刺さった。

 

 

 あきが初めて僕の部屋に泊まり、日が昇った朝。
 僕はあきに聞いた。
「どうして」
 その言葉を遮るように、彼女は寝惚けまなこを擦りながら言った。
「似てるから」
 しんは、私と。
 呆然とする僕をよそに、彼女は続けた。
「私は、私のことが好きだから……だから、私に似てるしんのことも、好きだよ」
 何の根拠もない告白を残し、彼女は適当に髪を整えた後、僕の部屋を後にした。
 テーブルの上に、夜食の残り香が残存していた。ベッドの上には、あきの匂いが漂っていた。
 女の子一人分の質量が僕の部屋から抜け落ちて、見えない穴がぽっかりと空いたようだった。
 その日、僕は身支度をして学校に行った。
 小清水明子はやっぱり当たり前のように出席していて、隣に僕が座ると、「おはよう」と言った。僕もまたぎこちなく「おはよう」と言い、それから、仁科進と小清水明子の関係は始まったのだ。
 けれども、僕は、あきのことが好きだと言ったことはない。
 彼女の論理に従えば、僕は僕のことがあまり好きじゃないから、そんな僕に似ている彼女のことを、僕はあんまり好きじゃないのかもしれないから。
 だから、僕は結論を先送りすることにした。
 それに、彼女が口にした「好き」という言葉にも、多くの意味が隠されているような気がしたから。

 

 

 放課後。チャイムが鳴り響いている。
 部活に急ぐ生徒の流れを横目で眺めながら、僕はあきが席を立つのを待っている。
「行かないの」
 聞いても、ちらりとこちらを見るだけだった。
 学校が終われば、どちらともなく家路に着く。一緒に帰ることはない。お互いに体面を気にする性格ではないけれど、噂の種を自分たちからばら撒くこともない。それぞれがそれぞれのタイミングで学校を出、僕が先に部屋に着くこともあれば、彼女が制服のまま僕の部屋に居ることもある。合鍵は、僕が渡した。
 無論、彼女にも自分の家があるから、僕の部屋に来ない日もある。事前に連絡することもないから、そんな日は肩透かしを食ったような気分になる。
 結局、今日は彼女が先に席を立ち、携帯電話を弄くりながら教室を後にした。ふう、と息を吐く。教室には何人かの生徒が残っている。こちらを興味深げに眺めているような、暇な人はいない。無理もない話だ。世間一般的に、僕たちは面白みのない人間で通っているから。
 僕も、目を擦りながら席を立つ。
 帰ろう。
「ふあ……」
 無気力に廊下を進み、下駄箱を行き過ぎ、正門を越え、見慣れた道路に辿り着く。
 さっきから欠伸が止まらないのは、きっと夜遅くまであきの相手をしていたからだ。
 とはいえそこに卑猥な意図はなく、僕にそこまでの甲斐性もないから、あきは僕とトランプをして遊んでいた。新型の機種を指差しても、最近のゲームは難しすぎる、と彼女は語る。ボタンが五種類以上あると操作が面倒臭くなるらしい。その点、ババ抜きはいいと彼女は語った。
 二人きりでやるババ抜きの面白さは、一瞬で勝敗が決する点だ。ポーカーフェイスは元より、言葉による駆け引きも重要な要素となる。が、僕たちは基本的に無言で勝負する。ただいつものように一言二言言葉を交わすことが戦略と言えば戦略で、いつも仏頂面をしているような彼女の表情が小刻みに変わるところも、収穫と言えば収穫だった。
 歩道には同じ制服を着た高校生がちらほらと見え、たまに自動車が行き過ぎ、空と同じ色の排気ガスをばら撒いていく。道幅は広いくせに、車も人も滅多に通らない。賑わうのは登校時と下校時くらいで、昼間は時折人や犬が散歩しに来る程度だ。
 田舎と市街地の境界付近にあるせいか、交通機関を利用するにしろ最低限の距離は歩かなければならない。幸か不幸か、僕が住んでいる部屋は学校から徒歩三十分の距離にあるマンションだから、考え事をする時間は十分に確保されていた。
 開発が進んでいる区画であるため、土地が剥き出しになっている場所やショベルカーが置き去りにされた場所がそこかしこに点在している。それらを横目にして家路を急ぐ。またマンションが建つのだろう。人が増えると、のんびり歩くことも出来なくなる。息を吸うのも、息苦しくなる。
 今のうちに、ため息だけは吐いておいた。
「……あ、そうだ」
 彼女のために、ヤクルトを買っておこう。
 物事の好き嫌いを滅多に語らない彼女も、ヤクルトは好きだと言う。だから冷蔵庫の野菜室には、常時二十以上のヤクルトが置かれている。
 そして今日も僕はヤクルトを買い、料理も出来ると豪語している彼女の腕を拝見するために、一玉のキャベツを買った。
 スーパーを出ると、灰色の厚い雲が頭上に広がっていた。日差しも遮られている。夜より先に、雨が来るかもしれない。傘も持っていないから、小走りに家路を急いだ。

 

 

 雨が降り始めたのは、僕がマンションの集合ポストで息を吐いている時だった。
 正面玄関の屋根を叩く雨粒の音が、意味もなく不安な気持ちを押し付ける。手に提げたビニール袋は、ヤクルトの重みを絶え間なく僕に伝えてくる。衝動のような、抗うことの出来ない不快感に立ち竦んでいると、不意に入り口の重いガラス扉が開いた。
 顔も、名前も知らないマンションの住民は、軽く僕を一瞥した後、すぐに通り過ぎドアロックの暗証番号を打ち込んでいた。程無くして、扉が開く。僕はその物々しい開閉音を聞いて、ようやく我に返った。
 雨足が強くなっている。急かされるように、慌しく暗証番号を打ち込んだ。
「急がなきゃ」
 あきは、もう部屋にいるかもしれない。いなかったら、それでも構わない。とにかく、早く部屋に帰らなければいけないと思った。理由はわからない。けれども、僕はよくわからない衝動に従った。
 エレベーターに乗ってすぐボタンを押しても、地上十数メートルに到達するまで相応の時間は掛かる。考え事をするには短く、焦燥感を忘れるには長い。嫌な時間だった。密室の壁に貼り付けられた鏡には、何の特徴も無い僕の全身像が映っている。少し目にかかる前髪の向こう側に、冷め切った虚ろな瞳があった。
 急がないと。
 筐が止まり、浮き上がるような錯覚を抱く。ゆったりと開く扉を強引に押し開けようかと思い悩んでいるうちに扉は開き切り、無駄に時間を浪費してしまったことを悔いる。
 ビニール袋が扉に当たり、ごぶん、と濁った音を立てた。
 共用の廊下は外に面している。雨は入らず、音もほとんど聞こえない。ただ、降りしきる雨と天井の見えない黒雲は、見るだけで心が重くなる。
 それら全てに背を向けて、僕は自分の部屋の扉を開けた。
 鍵は掛かっていなかった。
「ただいま」
 誰にも聞こえないように呟き、後ろ手に扉を閉める。部屋は薄暗く、蛍光灯を点けようか迷った。あきの靴が三和土に転がっている。リビングに続く扉は閉まっていた。
 眠っているのか、あきが活動しているらしい音は聞こえない。遠く、激しさを増した雨音が聞こえる。靴を脱いだ後、僕は何故か忍び足でリビングに歩み寄る。靴下は、フローリングを滑る足音さえも丁寧に殺してくれた。
 僕は、台所の冷蔵庫にヤクルトを突っ込むことも忘れて、リビングの扉に手を掛ける。
 音も無く、扉は開いた。
「……ただいま」
 もう一度、確かめるように言う。
 そう、カーペットに座り込んでいるあきの背中に告げても、彼女は振り向こうとしなかった。聞こえていなかったのかと、薄暗い部屋の中に一歩深く踏み入る。
「……あ」
 彼女はようやく僕の存在に気付き、とろんとした目をこちらに向ける。
 不思議な表情だった。
 酔っ払っているような、虚ろな瞳を懸命に僕の方へ合わせようとしている。
「おかえりなさい」
「うん」
 ようやく瞳の焦点が合ったあきは、僕の目の前で、ゴミ箱に手を突っ込んだ。
 その意味を瞬時に把握しようとして、やっぱり無理だったから素直に疑問を口に出した。
「な……なにを」
 強く言うことが出来なかったのは、明らかに失敗だったと思う。
「うん、これ」
 薄く笑みを浮かべ、あきはゴミ箱に突っ込んだ手を引き戻す。
 彼女が探り当てたのは、ティッシュの塊だった。
 一瞬、何が起こったのかわからなかった。理解が及ばない。鼻をかんだ記憶はある。でも、それよりももっと致命的な残滓があることを忘れていた。
 迂闊だった。
「ん……」
 呆然と立ち尽くしている僕を尻目に、彼女は、楽しむようにそのくしゃくしゃした塊を鼻に近付ける。つん、という刺激臭に顔を背けて、またすぐにおそるおそる鼻をすり寄せていく。
 くんくんと、興味深げに匂いを嗅いでいる彼女の姿勢は、不謹慎極まりないけれども、犬のそれにしか見えなかった。
「ん……男の子のにおい……」
 呟く。
 陶然と、かすれた声が耳に突き刺さる。僕は、何をすればいいのか、何を言えばいいのか全くわからなかった。ただ、彼女が凝り固まったティッシュの塊を再びゴミ箱に放り投げるまで、その様相をずっと瞳に刻み続けていた。
 あきは、指先に付いた液体の残り香を何度も嗅ぎ直しながら、僕を見た。
「ちゃんと、することはしてるんだね」
 安堵したような微笑みに、返す言葉も見付からない。
 部屋は薄暗く、彼女の服装さえ判然としない。それでも、彼女がどんな顔をしているのか、そんな知りたくもないことだけは漠然とわかってしまった。
 沈黙を保ち続ける僕に向けて、彼女はおもむろに行為の訳を語り始めた。
「不安だったの、あの夜、何もされなかったから」
 あの夜。
 多分、あきが僕の部屋に初めて泊まった日のことなのだと、何となく解った。
 不安げに顔を伏し、胸を押さえているのは、やっぱりあの日の彼女は僕に何をされても構わないと考えていたからなのだと――傲慢な結論を導き出してもいた。
「私は、女じゃないのかな、て思った」
 正確には、女として見られていないのか、と。
 でも、彼女は伏せた顔を上げて、どんな表情をしているかわからない僕の顔を見た。
「でも、よかった」
 再び、淫靡な笑みを浮かべて、彼女は言った。
「ちゃんと、私で感じてたみたいだから」
 にこやかに告げる彼女の表情が、蛍光灯の明かりに照らし出される。
 ライトを点けた彼女は、根城になって久しいベッドに座り込んだ。立ち竦み、言葉を失った僕ににじり寄って来たかと思えば、ビニール袋の中から目敏くヤクルトを引っこ抜いていた。先程と異なり、無邪気な子どもそのものの笑顔でベッドに寝転ぶ。
 ビニール袋にはキャベツが残され、明るさを増した部屋には僕が取り残されている。僕だけが、早すぎる現実に追い着いていない。早く、早く辿り着かないといけないのに、どうしても、彼女が言った言葉の意味を完全に飲み込むことが出来なかった。
「雨だね」
 雨だった。
 バケツを叩き潰すような轟音が、いつの間にか鳴り響いている。キャベツが重い。いい加減に、冷蔵庫にしまおう。あきが破いたヤクルトの包装は後で始末するとして、まずは冷蔵庫の整理から始めないといけない。やることは決まった。
 現実に追い着いた僕は、ゴミ箱を持ち上げると、逃げるようにリビングを後にした。
 当たり前のことなのだけど。
 僕の知らない彼女がいた。
 僕は初めて、あきのことが怖いと思った。
『男の子のにおい……』
 あきは、僕がまだ知らない何かを知っている。
 それが、無性に恐ろしかった。
 僕はまだ、何も知らない子どもなのだとわかっていたから。

 

 

 



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2007年3月30日 藤村流

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