青々とした畑や水田が広がるこの穀倉地帯を戦火に巻き込まなかったのは、ソラリスが食料生産地としての重要牲を認識していたからに他ならない。さほど離れていない地域でゲリラ戦が繰り広げられていたというのに、この村は妙な活気に溢れていた。人々の表情にも悲壮感などなく食料も物資も豊富だ。
そろそろ一日の仕事を終えた人々が、家路に向かうか居酒屋で一杯引っ掛けるかのどちらかだ。
村に到着したジェサイアは、さっそく雑貨屋に飛び込み、着替えや薬剤、銃弾等一通りの物資を補給する。あとは、宿に落ち着くだけだ。
一階にフロントと食堂兼酒場。二階より上が宿泊施設となっている。
泥だらけの男を見て、怪訝そうに頭のてっぺんからつま先までじろりと値踏みした女将に、宿泊料は前金で払うよ、森でぬかるみはまっちまってねとジェサイアは先手を打つ。女将は、慌てて愛想笑いを作り、そりゃあ災難だったねと、使用人だろう少年に部屋へ案内するようにいいつけた。
「服は、袋に入れて、ドア前においておいてくれれば洗濯してやるよ。なあに、サービスさ」と、背中から女将の声がした。
典型的な安宿ではあったが、水の豊富な土地らしくシャワーの出が極めて良好なことはありがたかった。いくら、場末の酒場でもこの恰好では入れてくれないだろう。
はやいところ、泥だらけの服と身体を洗濯してしまいたかった。
二週間ぶりのシャワーと着替えを済ませ食事にしようと階下に降る。
「誰かと思ったら。見違えちまったね。なかなか、いい男じゃないか」さっきの女将が気安く声をかけてきた。
「いらっしゃい、一人なの?」
好きな席に座っていいよと、給仕の少年は愛想よく笑顔で言った。取りあえずビールを持ってくるように言い、一番奥の席を陣取ることするた。背中に壁が無いと落ち着かないというのは末期症状だという自覚がある。
椅子をひき腰掛けると同時に、給仕の少年が白い泡が溢れるジョッキをおいた。
なんか、適当にみつくろってくれと言えば、
「川魚が名物だけど料理法を選べるよ。ソテーがおすすめ。あとはヌードルでも持ってくる?」
おすすめに従って注文をする。
空腹感はあるのに食欲はあまりない。それだけ身体が参っているということだろう。
ぐるりと薄暗い店内を見渡してみる。半分ほどの席が埋まっている程度だ。特に不審な客はいなかった。のどかな村ではあるのだが、それでも教会に深く組み込まれていることには変わりない。目立った行動はできない。
冷えたビールを喉に流し込み、ふうーと息を吐き目を閉じる。
そして、それは唐突に訪れた。
「ここ、いいですか?」
いきなり頭上から降ってきた聞き覚えのある声。過度の疲労による幻聴だと思った。
その懐かしい声が自分の鼓膜を通して聞こえてきたのだと認識するのに数秒を要した。
ゆっくりと頭を起こす。
黒い双眸がジェサイアを見下ろしていた。
薄暗いレストランのテーブルの上で蝋燭の炎が静かに揺らめいた。仄かな光に照らされの口元がゆっくりと動いた。思わず目をこらす。
「目の前に立たれるまで気づかないなんて、らしくないな。ね、先輩?」
「ヒュウガ……か?」
ヒュウガは椅子を引きテーブルを挟んだ真向かいの席に腰をおろした。頬杖をつき、くすくすと楽しそうに笑った。
気温、摂氏二十五度、湿度六〇パーセント。
開け放たれた窓からの風は肌寒さすら感じさせ、急速に外気温と湿度が下がってきたことを知る。
当たり前のようにジェサイアの部屋に上がり込んできたヒュウガは、まっすぐ窓に近づき窓枠に腰掛けた。
部屋の明かりを点けようかとソケットに触れ、背中を向けたままのヒュウガをちらりと見る。夜空でも眺めているのだろう。月の光を逆光に輪郭が銀色に縁取られている。
今夜は満月だった。たぶんやつの闇色の瞳はその光を映している。
その姿に、ジェサイアはふと妻ラケルの姿を重ねた。
満月が明るく地上を照らす夜、あるいは星が空一面にきらめく新月の夜、ラケルは部屋の明かりを消して夜空を眺めていた。
明かりをつけようとするジェサイアの腕を掴んで首を横に振った。
明かりを点けてはもったいない。
何がもったいないのだと怪訝な顔をするジェサイアに呆れ顔で言った。あなたはソラリスにいたころもちょくちょく地上に降りていたのに何も感じなかったのかと。任務で降りていたのであって景色を愛でるためではない。喉まで出かかった反論を飲み込んだ。任務だろうが観光だろうがラケルはそんな情景に心惹かれ、自分は気づくこともない。たぶん、そういうことだ。
ジェサイアは触れていたソケットから指を離し椅子に座った。
この後輩は一人で自分に会いに来たのだ。
今のヒュウガが持つ権限はどの程度のものなのだろうか。行使可能範囲がわからない。
ヒュウガが第三次シェバト侵攻作戦時の総司令の任に就いたという情報はわりとはやく手に入れていた。
しかし、それ以前に守護天使というわけのわからない肩書きまで持たされているのだ。もっとも、守護天使などソラリス上層部の連中に対してですら明確な情報開示はなされていない、でたらめなポストだ。
ヒュウガが天帝直轄の守護天使に就任するという情報を得たのはソラリスを脱出する直前のことだった。
その情報を得たラケルは、敵にまわったら自業自得ねと意味深に笑いやがった。
あれから二年。あっという間だった。
窓枠に腰を掛けていたヒュウガが不意に振り向いた。目と目が合い、ジェサイアはヒュウガにこっちへ来いというように、かるく顎をしゃくった。
ヒュウガはジェサイアの座る一人掛けの椅子とベッドを交互に見てから、ベッドに歩み寄り腰をおろした。
土産だとヒュウガに手渡された布袋から、酒のボトルを取り出した。ラベルを見て思わずにやりとした。懐かしい酒だ。地上で生産されているというのに、むしろ地上に降りてから口にする機会はなかった。
「珍しく気の利いた酒を持ってきたな」
透明な液体を二つのグラスに注ぎ、一つをヒュウガに手渡した。
「手ぶらじゃ何を言われるかわかりませんからね。喜んでいただけましたか?」
「ああ、上出来だ」
「一応悩んだんですよ。再会にふさわしい酒をって」
酒を口に含んだ。ふわりと広がる甘い香りに「変わらないな」と低くつぶやいた。
「先輩も変わっていませんね」
ああ、自分は変わらない。なさけないほど変わらないのだ。
「おまえは偉くなったよなぁ」
ヒュウガは軽く肩をすくめてグラスに口をつけた。
「皮肉な物言いだなぁ」
「そんなつもりはないがな。にしても、いつからここにいる?」
「昨晩から」
「偶然か?」
「もちろん」
見え透いた嘘。
確かに再会の約束など交わしてはいなかった。
それでも偶然のはずはない。この後輩ならばジェサイアが辿るだろうルートを調べ上げ、先回りすることなど容易くやってのけるだろう。またその逆もしかりだ。絶対に遭遇しないだろうルートを選ぶことも簡単なことだ。つまり、ここでこうして会っているということは、積極的に再会を望む意志があったということだ。その狙いは別にしても。
それだけ自由が利く立場にあるのだろう。
なんとなく予感はあった。心のどこかでそれを望んでいたのかもしれない。
「そんなに夜空が珍しかったか?」
話題を変える。
「ええ、夜空だけではなく、地上の風景はすべて見ていて飽きませんね。あの国《ソラリス》で、巨大なスクリーンに描かれるパノラマは、終点の見えない世界だと錯覚させる。そして、望めば何度でも同じ景観を眺めることができます。でも、地上では同じ情景を見ることは二度とできない。再現性がありません。興味深いことです」
少しの間をおいて、あのかたが言っていたとおりだと、つぶやくような声が漏れた。うっかりすると聞き逃してしまいそうな小さな声。ジェサイアは顔を上げる。
あのかた?
そう声にして聞き返そうとしたけれど思いとどまった。自分がソラリスから離れてから二年間、ヒュウガのことは何も知らない。どのような人間と出会いどのような付き合いをしてきたか。訊いて何になるというのだろうか。
ジェサイアは無言で二つのグラスに酒を注ぎ足した。その手元をヒュウガは見つめていた。
「何も訊かないんですね」
ぽつりと言って小首を傾げたヒュウガの――ジェサイアの記憶よりもだいぶ長くなった――黒髪がさらりと揺れた。部屋に漂う僅かな光を反射させ黒く煌めく瞳。その深い闇色は記憶のまま。
「訊いて欲しいのか?」
「いえ、拍子抜けしただけです。質問攻めにあうと覚悟していましたから。相手がシェバト侵攻作戦の総司令なんですから、訊き出したいことなど山のようにあると思うんだけど」
やや不満げな声にジェサイアは喉の奥で笑った。
「なるほど。締め上げてくださいと、自ら飛び込んできてくれたわけだ。先輩思いの後輩だなぁ、良い後輩を持ってうれしいぜ。……と言いたいところだが」片側の口角だけを上げる。
「一応、終息したとはいえ、ちょっと前までは、俺とおまえはドンパチやっていたんだよな。今でも敵同士であるには違いない。まあ、まともな神経の持ち主ならば用心するわな」
「あの……」
「それに、おまえのことだ。覚悟してきたってことは、俺の質問を予想し、それに対する回答を用意してきたんだろう。しかも、何パターンも」
ちらりと、ヒュウガの顔を見る。その表情から察するに、どうやら図星だったらしい。
「だいたい、めんどくせぇんだよ」
「は?」
「おまえはよく嘘をつくからな。しかも、全部嘘ならばまだ良心的だ。でも、たまに本当のことを言うから始末におえねぇ。おまえの口から出た言葉がどこまで本当でどこからが嘘かを見極めねばならないと思うと気が重くなる。だったら初めっから訊かない方が気が楽だ」
「酷い言いようだな、それは」
ジェサイアはヒュウガの座るベッドに移動し、隣に座るとがしっと頭を掴んだ。頭を固定し至近距離でのぞき込めば居心地悪そうに黒い瞳がきょろきょろと動いた。その慌てた様子になぜかほっとする。
そんな無粋な話で酒を不味くすることはない。今は、懐かしい後輩の元気な姿を確認できたことで、よしとしよう。
ジェサイアはヒュウガの頭を掴んでいた手をどけた。
「よく来たな」
ヒュウガはほっとした笑みを浮かべた。
酒を飲みながらの雑談。他愛もない世間話。
「あれから、あまり大きくなった様子はないな」
「あの時いくつだったと思っているんですか。にょきにょき背が伸びたらおばけですって。でも、少したくましくなったと思うんだけど」
「どうだか。剣客としては鍛え方が足りねえだろう」
「遺伝的因子が大きいのですから鍛えるといっても限界があると思うんだけど。カールを見ているとね、コンプレックスを感じます。同じように肉体の鍛錬をしていても差が開くばかりで」
端正な顔立ちの後輩がジェサイアの脳裏に浮かんだ。ヒュウガやシグルドと同じもう一人のエレメンツ。かつての同志カーラン・ラムサス。ソラリスそのものを理想国家へと導こうとしていたプライドの高い後輩。彼に近しい人達は親愛の情を込めて「カール」と呼んでいた。
「あいつは元気か?」
空になったグラスに酒を注ぎ足す。
「ええ、ゲブラー総司令殿は高邁な理想に向かって邁進しています」
「そうか」
「実はですね、先輩が離反したとき、カールは不気味なほど静かでしたよ。シグルドの時と違って。ミァンが彼を支えていたというのが大きかったかな」
ジェサイアがゲブラー総司令の座を蹴り、ソラリスから離反したあとラムサスが総司令の椅子に座った。そして、現在に至る。
「まあ、急遽ゲブラー総司令の地位が転がり込んできたんだ。悩んでいる余裕もなかっただろう。で、お前は、相変わらずカールを補佐しているのか?」
「いえ、彼の右腕の座はミァンに奪われましまって。まあ、彼女なら安心してカールを任せられますから」
お互いの立場を考えればこんなふうに談笑しているなど非常識もいいところだ。
取り留めのない昔話と当たり障りのない近況報告。そんな言葉のやりとりにさほど意味はない。適当に相づちを打ちながら二年ぶりに再会した後輩の顔をぼんやりと眺めていた。
離れていた時間は残酷なほど相手に対する記憶も感情も薄れさせる。実際、第三次シェバト侵攻作戦の総司令がヒュウガであるという情報を得て久々にその面影が浮かんだくらいだった。
それなのにこうして会えば、共に過ごした時間が、かつて相手に抱いた感情の記憶が蘇える。
薄闇の中揺らめく瞳、口元に浮かぶ曖昧な微笑、顎に指をあて小首を傾げる仕草、耳に心地よく響く声、すっとぼけた口調。すべて記憶のままだった。目の前にいる青年は間違いなくあの後輩なのだ。
変わっていないと思う。でも、それと同時に、あの頃とはひどく違っているようにも見えた。
ふっと意識が遠のいた瞬間、呼ばれる。
「先輩?」
はっとして顔を上げれば覗き込むヒュウガと目が合った。気が緩んだのか眠気に負けていたらしい。
「……寝ていたらしい」
「お疲れでしたよね。気が利かなくてすみません。もう休んだほうが……」
「そうだな、悪いがそうさせてもらう」
「一応、私が見張っていますので安心して休んでください」
「かえって不安だな。おまえは眠らないのか?」
「私は追われる立場にありませんので、ご心配なく。適当な時間に起こしますので」
お節介なやつだ。
ジェサイアはヒュウガが話し終える前に、ごそごそとベッドに潜り込み目を閉じた。
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