──この山林を越えた向こう側、この季節は高温多湿だよ。一応、温帯域ということにはなっているがね。不快指数の高さは保証するよ。
そう教えてくれた男がいた。
夜の地上駐屯地で月明かりにのもと息抜きにと煙草を薫らせ他愛もない世間話をしたシェバトゲリラ兵。最期まで行動を共にしたあの男は、もう生きてはいない。ちぎれた腕から指輪を抜くのは難儀だった。
いつか形見を家族にとどけてやれれば……などとは、またまた感傷的なことだと自嘲した。
モンスターが徘徊する深く暗い森。
昨夕、雷を伴いながら降り出した大粒の雨は夜更けまで断続的に降り続いた。夜が明け陽が高くなるに従い気温だけではなく湿度が上がっていく。気温はさほど高いわけではないのにまとわりつく湿気が鬱陶しい。
あの男の言葉が思い起こされた。こういうのを不快指数が高いというのだろう。ソラリス市民にとって、不快指数などという言葉は一般的ではなかった。あの国の外気温は、常に快適にコントロールされていた。もっとも、あの閉ざされた世界にある空気を外気と表現することが適切なのかという疑問はある。
起伏のある山林の道は昨晩の雨の影響で滑りやすく、何度も掌を地面につけ身体をささえた。膝から下は泥だらけだった。梢を隙間無く覆う濃い緑の葉が強い日差しを遮ってくれた。ところどころに木漏れ日を落としながら。
腕を伸ばし、泥で汚れた指を掌に強く握りこみ、ゆっくりと開く。そんな動作を何度か繰り返し指先にまだ感覚が残っていることを確認する。
ジェサイアは、敵から奪取した人型戦闘兵器であるギア──バントライン──を人目につかぬ場所に隠し徒歩で森林を抜けようとしていた。肺まで水浸しにしてしまいそうな湿気に喘ぐような呼吸を繰り返しながら歩を進める。
この森を抜ければ、戦火に巻き込まれることがなかった小さな町がある。そこで酷使した身体を癒し物資を補給することにした。情報を集めながら今後ののことを考えるのが得策だろう。
そして、一端、家に帰ろう。ラケルは元気だろうか。ビリーと小さなプリムは大きくなっただろう。わずか数ヶ月、離れていただけでも幼い子供の成長は目を見張るものがある。その程度のささやかな一家団欒、休息くらい許されてもいいはずだ。
耳を澄ませば、せせらぎの音が聞こえてくる。近くに川がある。川沿いに下流へと進めば森を抜け人里にでることができる。方向は間違っていなかった。
河原に降りて小休止にする。泥だらけの手と顔を洗う。
口を濯ごうと水を口に含んだ瞬間、水面にゆらゆらと浮かぶ疲れ切った顔の男と目が合った。老けたなと思わず口にする。まったく情けない。
自分が所属していた小隊への連絡手段を失ったジェサイアは現時点で完全に孤立していた。共に戦ってきたガスパールやシェバトゲリラ兵たちとはぐれてしまってから久しい。連中の生死すら知れなかった。
やっとの思いで、用心深いシェバト人たちから得た信頼は、すべて水泡に帰すかもしれない。
自分の間抜けさを罵る気力もなかった。
地を這い蹲っての戦いが、これほどまでに過酷なものだったとは。
そもそもシェバトゲリラ軍など、ソラリスの正規軍とまともにやりあって勝てるはずなどない。やることといったら攪乱か、せいぜい戦いの間隙をぬって物資を強奪するくらいだ。バントラインはそんな戦利品のうちの一つだった。
戦いの中で死が日常となった。激しい疲労に思考することが苦痛となる。極限状態の中、全身を焼き尽くすような憎悪に兵士たちは本来の目的を忘れかけていた。
地上部隊の大将であるガスパールは何度も戦う意味を思い出させようとする。
シェバトを守らねばならない。シェバトが陥落すれば地上の人々がソラリスの支配から解放されることは永遠にかなわない。真理に近づく道は完全に塞がれる。
しかし、それが詭弁であることなどガスパールもジェサイアもよく自覚していた。
ソラリス敵将の名はヒュウガ・リクドウ。
浅からぬ付き合いだったユーゲントの後輩。第三次シェバト侵攻作戦の総司令がその後輩だという情報を得たとき特別な感慨は湧かなかった。いずれ敵同士として対峙するだろうことは納得していた。ソラリスを去る間際、あの約束を交わしたあの瞬間から。
自分が育てたようなものだ。手の内はある程度読めた。もっとも、それがお互い様である以上、そのことが有利にはたらいたのは、どちらにとってだったのか。わからない。今は考えたくもなかった。
ただ、少なくても、自分もヒュウガも最小限の犠牲にて片をつけようとすることは間違いなかった。もっとも、ヤツの場合、人道的な配慮からそうしているわけはないだろう。ただの効率の問題として結果的にそうなっている可能性の方が高かった。
シェバト侵攻の主目的はシェバト所有のギアバーラーだという。ソラリスはそのギアバーラーの正統な所有権を主張する。ソラリス軍属時代、ジェサイアはそう聞かされていた。ならば、ここまで追いつめて軍を退かせるなど考えにくい。
少々手こずったとしても、ゲートを破りシェバトそのものを堕とさない限りギアバーラーは手に入らないのだから。事実、シェバト陥落は時間の問題だった。
徐々に追い詰められていくシェバト軍。
ガスパールの表情に苦渋の色が混ざりはじめる。
決着をつけてくると一言部下に告げ、姿を消したという。そのことを知ったジェサイアは、もう一人の男を伴いガスパールの後を追った。しかし、追いつくことはかなわずガスパールの足取りを完全に見失う。
その直後、不意に全ての攻撃が止まった。ソラリスのギア部隊も何かを思い出すように慌ただしく撤退していった。
シェバトの陥落は免れた。
今回の戦いは、痛み分けで終わったようにも受け取れる。しかし、実際はどうだたのだろうか。
確かにシェバト軍はよく粘った。質、量共に圧倒的優位を誇るソラリスの猛攻をかわし、時にはソラリス軍を追い詰めもした。
それでも、シェバトが受けた打撃以上のものを敵に与えることはできなかった。ギアを含む兵器類を次々に失いシェバトの地上軍備施設は壊滅したと断言してもいい。物資補給基地も永久に機能することはない。シェバトはソラリスに対抗できる力すべてを失った。
シェバトに残された道はゲートの守りを強化していくこと。自らの国家形態を保つことにすべてのエネルギーを費やすことになる。
その結果、よそ者がシェバトと接触しようとすることは前以上に困難となるだろう。
ゲートだけを唯一の命綱に中空の都市国家は永遠の守りに入る。
シェバトへ至る道は再び閉ざされてしまった。
それにしても、とジェサイアは思う。ここまで追いつめての撤退。腑に落ちなかった。
ガスパールの身に何かあったのだろうか。
ヒュウガ……おまえ、いったい何を考えている?
ジェサイアは立ち上がり、再び川沿いに歩を進めた。人里まであと少しだ。
小一時間ほど歩いたところで視界が開け、集落へとつながる広い道へ出た。どうやら森を抜けられたらしい。
ほっと息をつく。
いつの間にか陽は地平に隠れ、西空がオレンジ色に染まっていた。東の空はすでに濃紺の闇に浸食されていた。もう少し早く到着する予定だったのだが、慣れない山道に思いの外もたついてしまった。それでも、危険な時間帯に山道を通り抜けるという愚行はなんとか避けることができたようだ。
すっかり暗くなった夜空を仰いだジェサイアは降り注ぐ銀色の光のまぶしさに目を眇めた。
今夜は満月だ。
ズボンのポケットに手を突っ込めば、金の輪っかの硬く冷たい質感がひやりと指先から伝わってきた。
──娘がいるんだ。まだ四つになったばかりのな。
ジェサイアが差し出したシガレットケースから煙草を一本抜き取り穏やかに笑う、月明かりに照らされたあの男の顔が脳裏に浮かび、消えた。
了
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