一日一東方

二〇一〇年 七月二十六日
(星蓮船・封獣ぬえ)

 


『正体不明』

 

 

「おまえは誰だ」
「わたしは私さ」
 そんなやり取りを、千年前から続けている。

 

 物心が憑いた頃には、人間をからかうことを生き甲斐にしていた。それしか知らなかったから、そうすることで心を満たした。
 普段は遠目から正体不明の種を操って、人間が扱う日常品を化かして虚仮にして遊ぶのだが、暇を持て余すようになると、正体不明の種を身に付けて人里に下りることもあった。
 正体不明の種は、それを見る者の都合のよい形に姿を変える。
 すなわち、恋人がいる者ならば恋人に、親がいる者ならば親に。
 すがりたい者、忘れがたき者、憧憬を、憎悪を抱いている者に。
 ぬえは、無慈悲に、無差別に容姿を転じ、束の間の幸いを、贖いがたい絶望を、何の変哲もない人間に与えて、姿を消す。
 亡くなった恋人の代わりになって、何日か同じ時間を過ごしたあと、最後に少しだけ種の位置をずらす。わずかに声色を変える。右腕を虎に、左足を猿に。おまけに尻尾も生やしてみる。
「おまえは、だれだ」
 恐怖と、絶望に顔を引き攣らせた男に向けて、ぬえは偽物の唇を歪めて笑う。
「わたしは、わたしさ」
 答えにならない答え。真実をはぐらかし、正体不明の幸福を終わらせる。
 去り際に、男が恋人の名を呼んだけれど、ぬえは決して振り返らない。何せ、そんな人間はどこにもいない。ここにあるのは、ただ曖昧な正体不明。
 返す言葉など、あろうはずがない。

 

 趣味が悪いと嘆く者など、周りには誰もいなかった。ぬえよりえげつない真似をしている妖怪はいくらでもいる。人間をからかって遊んでいるだけ、平和な存在だという自覚はあった。
 そんなことを繰り返していると、時たま痛い目を見ることがある。
 相手は、親の仇をずっと探し続けている人間で、ぬえが視界に入った途端、なりふり構わず斬りつけてきた。豪胆な一撃はぬえの髪を浅く斬り飛ばし、柄でもないと思いながらゆえは自身の心が震えるのを感じた。
 鉤爪を模した羽を広げても全く動じず、やはり化生の類か、とほくそ笑むばかり。親の仇であるはずなのに、憎しみよりか出会えた喜びの方が勝っているように見える。不思議なものだ。人間という生き物は。
 何度目かの接触の後、ぬえは男を軽くいなし、適当に転ばせてその腹に跨った。それでも刀を離さない男を見下ろし、剥き出しの手のひらで刀身を握る。
「殺せるものなら、殺してみるがいい」
 切っ先を喉に向け、血だらけになった手で強引に刀を引き寄せる。
 酔狂な真似をしている自覚はあった。だが、見てみたいと思ってしまった。
 殺したいほど憎い相手を殺したはずなのに、その正体が、どこの誰とも知らないただの少女だと知ってしまった時の人間の顔を。
 この悪癖が、いつか自身を真に殺すことになろうとも、ぬえは本望だと口の端を歪めるだろう。
 そして、凶刃は男の手によってぬえの喉に突き立てられた。
「――――、――っ」
 男は、悦楽とも失望とも言いがたい不気味な微笑を浮かべ、はっきりと声を挙げて笑った。それもまた、涙が入り混じった得体の知れない哄笑であった。
 ……ああ、やはり。
 得体が知れないのは、何も自分ばかりではないのだ。
「まこと、人の心根も度し難い」
 刺し貫かれた喉を震わせながら、ぬえは傷付いた手のひらで刀身を握り、男が振り絞った以上の膂力で喉から刀を抜き放った。
 ぷぴゅる、と血が溢れ出し、頭がくらくらして少しよろめく。血が足りないからといって、人間の血を吸って楽になるのは吸血鬼だけである。
「あー……痛い、痛いねえ」
 鉤爪の羽、右腕に巻き付かせた蛇。真っ黒な服は赤黒く染まり、宵闇に暮れなずむ太陽を彷彿とさせた。
 妖の少女を目の当たりにして、男は不意に刀を取り落とす。
 憎んだ相手は勘違い、殺した少女は筋違い。幸か不幸か、妖は死なず、男も死なず、暇潰しの生贄になって笑われるだけだ。
 男の憎しみは晴れないが、ぬえは随分気が晴れた。もう、男の憎悪に付き合う道理はない。踵を返し、ふらふらと歩き始めたぬえの背中に、憔悴し切った男の声が投げかけられる。
「おまえは、だれだ」
 返す台詞は決まっているが、今回は少し勿体ぶって。
 唇の端を伝い、顎に溜まった血の滴を親指で拭い、たまには妖怪らしくけたけたと面白可笑しく笑ってみせて。
「わたしは、わたしさ」
 正体不明の皮を被って、逢魔ヶ刻に姿を隠す。
 男が何かを叫んでいたが、耳を塞いで嵐が過ぎるのを待つ。慟哭の意味は知りたくない。心の震えを聞くだけでいい。泣いているのか。嘆いているのか。
 病んだ心を喰っているから、己の心も病んでいるのか。
 ともすれば、他人の絶望を哂うのも道理である。
「く、かか」
 笑え。笑え。
 どうせ、そういうふうにしか生きられまい。
 理解しがたい人の心を、正体不明の身でもって、噛み砕くように、擦り潰すように食べるのだ。

 ああ、実に、意味不明だなあ。と。

 

 

 

 



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2010年7月26日 藤村流

 



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