一日一東方
二〇一〇年 七月二十日
(星蓮船・多々良小傘)
『雨の日にはお気に入りの傘を』
捨てられた傘を、じっと見ている。
茄子みたいな色をした、あまり流行りそうにない柄の傘だった。約束を果たすための道の途中、塀に立て掛けられていたその傘から目を離せないでいた。
畳まれた傘は、当たり前だけれど何も喋らない。
けれど、しきりに何かを訴えている気もする。
疲れているのかもしれない。
「ううむ」
今のところまだ雨は降っていないが、雲の様子を見る限り、近いうちに降り出しそうな気配はある。持参した傘を振り上げ、ぽんぽんと手のひらを打つ。
ひとまず、身を翻して当面の目的地に足を向ける。
時間は限られている。特に私のは。
「……、あ」
ふと気になって、三歩ほど歩いたところで振り返る。茄子色の傘が視界の端にでもちょこんと映っていれば、何の問題もなく再び歩き出せたのだけれど。
そこに、茄子色の傘は影も形もなかった。
「うん……?」
見間違いかと踵を返すものの、やはり塀沿いに傘の姿はない。違和感。誰かの気配はなかったはず、とはいえ気配を殺されていればほぼ一般人の自分に身抜けるはずもない。
要するに、お手上げである。
諦めよう。
「――よし」
思い切って、十分な体重移動と共に勢いよく前を向く。
「うらめし――!」
――ごんッ。
撃沈。
私の頭頂部は、うらめし何ぞと吼えていた何者かの顔面を確実に捉え、そこそこの鈍痛と引き換えにして敵を撃退することに成功した。
……あたま超痛い。
「何か申し開きはありますか」
「口の中切った……」
自業自得である。
「確かに、人間を驚かすのが妖怪の本分ではありましょうが」
「くすん……」
彼女はしょんぼりとしている。
人の往来が少ない裏通り、石畳の上に正座させるのは如何に妖怪といえど酷な仕打ちと映るかもしれないが、私の頭蓋骨も結構痛いのだ。髪も乱れたし。
手櫛で適当に髪を整えながら、妖怪の本能に従って返り討ちにあった哀れな妖怪を観察する。
どちらが本体か不明だが、左右の瞳の色が異なる少女と、少女が握り締めている大きな唐傘とに分かれている。唐傘には、ひとつの目とひとつの口があり、べろんと大きな赤い舌がはみ出ている。
「ふうむ。唐傘お化けの手合いでしょうか」
「う、うらめしやー」
弱々しく、涙ぐんだ目で傘を振り上げる。危うく顎に当たりかけたが、攻撃する意図は無かったようなのでほっぺたを抓る程度で勘弁しておいた。
「ひゃ、ひゃめてー」
「……はあ。私が言うのも何ですが、もう少し妖怪としての威厳を持っては如何ですか。非力な人間に手玉に取られるようでは、あなたの未来は決して明るくありませんよ」
「う……お、おのれ人間め、かように卑劣な罠を仕掛けるとはなんともはや……だが私を捕えたところで、第二第三の唐傘お化けがですね」
最後の辺りが尻すぼみである。
せめて一文くらいは力強くあってほしいものだが、生まれつき力の弱い妖怪というのも確かに存在する。必ずしも人を傷付けるばかりの妖ばかりでないことは、私自身もよく解っていることだし。
「ええと、この、外道! ちんちくりん! 口の中いたい!」
「子どもの喧嘩ですか。あと誰がちんちくりんだこのやろう」
「びー! びー!」
傍目からすると一方的な虐待にしか見えないのが辛いところだが、これでも私の方が純粋な戦闘能力は低い。
あまり泣かし続けるのも良くないので、適当なところで涙を拭いてあげる。正座も中断させ、一人で帰れるくらいに彼女の体裁を整える。なんとなく察していたが、まっすぐ立ってみると私の方が明らかに背が低い。彼女が肩に寄せている唐傘も相まって、対峙したときの威圧感は尋常ではない。
幸い、主導権はこちらにあるから、何も恐れることはないのだが。
「まあ、意志は認めましょう。意志だけは、ね」
「べろーん」
舐められた。唐傘の舌で。
ぞくぞくッとする。
「あは、あはははは! おもしろいー!」
てめえ泣かす。ごめんなさいとしか言えなくなるまで泣かす。
決意を込めて運命の一歩を踏み出した瞬間、敵は戦闘の意志を断ってふわりと空に浮かび上がった。逃げに徹する気か、卑怯者め。
「じゃあねー。泣かされたお礼は、そのおもしろい顔で帳消しにしてあげるわー」
あほか私は全然おもしろくないわ。
「この、次に会ったら承知しませんからねーッ!」
「楽しみにしてるわー」
あはははと笑いながら、妖怪はどこか遠くに飛び去っていく。
「あーちくしょう……悔しいなあ」
名前も含めて、能力やら弱点やら根掘り葉掘り聞くの忘れていた。あんまり弱々しいものだから、後回しでいいかもしれないと油断したのが運の尽きだった。阿礼乙女の名が廃る。
果たして次まで覚えていられるかどうか不安だが、聡明な私のことだから、きっと覚えているに違いない。あの瞳。行動原理。稀代の弱々しさに隠された妖怪の本能。唐傘お化け。
舐められてべとべとになった頬を拭き、少女の影も形も見えなくなった曇り空を仰ぐ。
しかめっ面で佇んでいる私の頬に、ぽつりとひとつ小さな雨粒が落ちた。
夕立が近い。
遅刻したら怒られるだろうなと思いながらも、私は、なるべく小さな歩幅で歩き始めた。
道中、彼女への報復は何が相応しいだろうかと、邪な感情に心を乱しながら。
――――そうして。
置き去りにされた傘を、じっと見つめている。
茄子に近い色をした、あまり流行りそうもない柄の傘だった。知り合いの教師に会うための道中、涙雨が傘を打つ音に耳を澄ませ、私は塀に立て掛けられていた傘から目を離すことができないでいた。生真面目な彼女のこと、遅刻すればした分だけ説教を喰らうのは明白だったが。
丁寧に畳まれた傘は、当然だけれど何も喋らない。
けれど、しきりに何かを訴えているようにも見える。
気のせいかもしれない。
「うーん」
ぐるりを辺りを見回しても、持ち主らしき人物の姿は見当たらない。人通りの少ない裏通りであるから、捨て置かれたと考えるのが自然か。可哀想に、と手を差し伸べる優しさを持った私でもない。ましてや手持ちの傘があるのだから、余計な荷物が増えるのはあまり芳しくない。
それに。
「……いち」
一旦、茄子色の傘から目を離して、道の先を進まんとする。
再び、傘の行く末を気に掛けて振り向いてみると、想像した通り、そこに傘の姿は見当たらない。あちらこちらを見渡しても同じこと、雨音に掻き消されたのかもしれないが、足音らしきものも聞こえなかった。飛んでいれば話は別だが、だとしたら初めから太刀打ちしようがない。
けれど。
「に」
私は、ここからどう動くべきか。
阿礼乙女としての真価が問われる瞬間である。
何故、こんなときにそんなことを考えるのか、いまいち判然としないのだが。
「さん」
意を決して、私は振り向きざまに素早くしゃがみ込む。
――べろぉん。
私の頭上を、何か生温かいものが通り過ぎたようだが、その正体については深く考えない。生温かいし。
どうせ、後になれば全て知れる。
「――よんッ!」
見えた。
ちょうど私の背後に佇んでいた、女の子らしき何者かの向こう脛。
可哀想に、と同情する余地もあればこそ、私は容赦なく少女の脛を蹴りつけた。
――みぎゃあ、と言葉にならない悲鳴が飛ぶ。
勝利の瞬間であった。
「何か、申し開きはございますか」
「あの、雨降ってるし……正座は勘弁して……」
「だめです」
「くすん……」
しおらしいこの妖怪、外見からするとやはり唐傘お化けであるらしい。
にしても、初めて会った気がしないのはどうしてだろう。
まあ、なんとなく予想はつくが。
「して、あなたお名前は」
「……え? あ、うん、多々良小傘。うらめしやー!」
「そうですか。私は稗田阿求と申します、今後ともよろしく」
「え、と、あ、……うん、よろしく」
蹴られた痛みのせいか、小傘は半泣きである。流石に初っ端から向こう脛は辛かったかもしれない。が、私の中の野生が此処しかないと告げていたのだ。やむをえまい。
「おかしいなー……うまくいくはずだったんだけど……」
「何か」
「あ、なんでもない。あなたならこれで驚くはずだーなんて思ってないから」
「おかしなことを言いますね……まあ、いいでしょう。立ってもいいですよ」
膝から下をびちょびちょに濡らし、涙目の小傘は実に嗜虐心をそそる存在であった。が、如何に妖怪といえど、女の子ひとりを泣かせたまま放置するのは問題があるようにも思う。
ので、ここは思い切って提案してみる。
「どうでしょう」
「べろーん」
「その手は喰いません」
「いひゃひゃい!」
懲りずに唐傘の舌を仕掛ける小傘に、ほっぺた螺旋抓りをお見舞いする。唐傘を握っているから片手でしか抵抗できず、力無くぺたぺたと腕を叩く仕草が実に可愛らしい。
「……はあ。折角、着替えを用意しようと思っていたのに」
「えっ」
「あなたがそんな態度を取るというなら、このお話は無かったことに」
「え、えっ」
驚きふためく小傘を前に、私は何も言わずに佇んでいる。雨の音は弱く、耳を澄まさなければ聞こえないほどだ。けれど、その雫は知らぬ間に足元を濡らし、靴や着物を濡らして行き交う人を歯噛みさせる。
「……え、いいの?」
「最初から弁慶の泣き所を攻めるのは、あなたにはちょっと酷だったようですし」
「それは、私が弱いって言いたいの」
「もしお強いのでしたら、おひとりでも帰れますよね」
しっしっと手を振れば、除け者にされたような顔をする。
悔しさを滲ませ、傘を持つ手をかすかに震わせ、下唇を噛む。別に口の中を切ったわけではないから、喋るのには苦労しないだろうけど。
「……行く」
「はい。わかりました」
「……う、なんで笑うのよ! いいじゃない、阿求のせいで足が汚れたんだからさ!」
「そうですね。では参りましょうか、小傘さん」
「あ、ちょっとー!」
さっさと歩き出す私の後ろから、慌ただしい足音が聞こえてくる。ぴちぴちちゃぷちゃぷ、というほど可愛げのある足音ではないけれど、それに準ずる初々しさが隠されている。
飛べば簡単に私を追い越せるだろうに、彼女はそれをしない。
思うところがあるのは、私も彼女も同じということらしい。
不思議な縁だ。
でも。
「……ふふ」
「なんで笑うのよ」
「いえ、特に何も」
でも、それが心地よい。
その心地よさこそ、この世界の醍醐味なのだと。
「うらめしやー!」
「あなたも懲りませんね……」
稗田阿求は、ずっと前から知っているのだ。
ナズーリン 雲居一輪 雲山 村紗水蜜 寅丸星 聖白蓮 封獣ぬえ
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