一日一東方

二〇一〇年 七月十九日
(星蓮船・ナズーリン)

 


『ラピリラズリ』

 

 

 通常、彼女が首から下げているのは水晶か紫水晶のペンデュラムだが、ごくたまに、瑠璃のペンデュラムを下げていることがある。
 決まって夏の暑い時期に、青い宝石を下げて普段と変わりのない一日を過ごす。それを過ぎれば、また水晶のペンデュラムを下げる。何かの願掛けなのか、明確な効用があるのか定かでないが、仕事に影響があるわけでもなし、上司も部下もこれといって口を出すことはなかった。
 だから、その件に触れたのは、詳しい経緯を知らぬ第三者の、他愛もない世間話の一環に過ぎない。
「ところで」
「なんだい」
 ナズーリンは、不機嫌そうな顔を隠そうともせず、羽根ペンを振りかざす文をねめつけた。
 口が回ることから、命蓮寺の渉外担当に任命されてしまったナズーリンも、口だけでなく立ち回りも上手い天狗を相手にしていると、溜まる疲労も尋常ではない。
 星輦船事変、命蓮寺建立の経緯、聖白蓮の目的、等々、白蓮当人に聞くと要らないことまで喋ってしまいそうな、そうでなくても鴉が曲解しそうな情報を、ナズーリンは上手いこと相殺するように話していたのだ。最終的に、ブン屋が捏造するのだからあまり意味もない気はするが。
「そのペンダント、いつも掛けているものと異なりますね」
「あぁ、これか」
 深い青の輝きを秘めた宝石を、ナズーリンは惜しむ様子もなく文の前に差し出す。その面差しに感傷めいたものは感じられず、押し殺しているのか、それとも本当に何の感慨も抱いていないのか、長らく生きている文でも判然としなかった。
「たまに、だけどね。掛けたくなるときがあるんだよ。決まった日があるわけでもないのだけど」
「へえ、浪漫のあるお話ですね」
 無作為にばら撒いた餌に食いついた文を、ナズーリンは何も未練もなく竿ごと手放す。肩を竦め、憎たらしいくらい青い空を見やる。
「残念だけど、君が期待しているような物語を提供することはできないと思うよ。これは、ずっと昔に人間の子どもからもらったものだ。ちょっと西の方で仕事をしていたときに、一目惚れされたらしくてね。仕事の邪魔になるからと、適当に脅して遠ざけようとしたんだが、なかなか利かなくて困った覚えがある」
 今度は、文の鼻が引くつく番だった。
「それを浪漫ちっくじゃないなんて、聞くひとが聞いたらはっ倒されますよ」
「種族を越えた愛、といえば聞こえはいいけれどね。それはただ、耳ざわりが良いだけだよ」
 なおも、納得のいかない顔で文はナズーリンを睨んでいる。どちらが年上かは明確ではないが、浪漫を求めているのは文の方だった。でなければ、好き好んで新聞作りなどに手を染めはしないだろうが。
 浪漫を諦めない文と対するのも、もうすぐおしまいだ。世間話としても短すぎる思い出は、想起するまでもなく瞬く間に消費される。
「仕事が終わって、去り際に、これをもらった。明らかに、子どもの手には余る技術だが……まあ、有り難くもらっておいた。きれいだったからね」
「現金ですね……でも、たしかにきれいですよね。私が欲しいくらいです」
「あげないよ」
「では、じゃんけんでどうですか」
「だからあげないって」
「ははは」
 冗談ですよ、とでも続けば笑い話で済むのに、文の表情は真剣そのものだった。真っ向からぶつかれば、ナズーリンに勝ち目はない。摘まんでいた宝石の紐を離し、文の熱視線からわずかでも遠ざける。かすかに、だが確かに文の舌打ちが聞こえた。
「……全く、鴉天狗ともあろうものが。獣の本能を鎮めることもできないのかい」
「えぇ、まあ。あなたこそ、一途な想いを退けておきながら、いつまでこの宝石を胸に秘めているのですか」
 責めるような口調ではあった。が、答えはもう決まっている。感慨も感傷もないが、かといって、何も感じなかったわけではない。
「きれいだと思ったからだよ」
 瑠璃の輝きも、年若い人の子が抱いた一途な想いも。
「それ以上も、それ以下もない」
「へー」
 中途半端な笑みが癪に障る。だが、食ってかかれば相手の思う壺だろう。
 先に雑談の幕を引いたのは、にやけ面を解いた文の方だった。
「ナズーリンさん」
「なんだい」
 文は羽根ペンを翻し、慣れた仕草で胸ポケットに仕舞う。
「賢くなりすぎるのも考えものですよ。もしかすれば、その宝石は、捨てられた方が幸せだったのかもしれません」
 それが、誰の幸せを意味するのか。
 文が、その答えを口にすることはなかったけれど。
「瑠璃は、結構傷付きやすいんですよ。適度に力を掛ければ、簡単に割れてしまうものなんです。まあ、あなたにその勇気があれば、の話ですが」
「覚えておくよ」
「では、私はこれにて。またお会いしましょう、小さな、小さな賢将さん」
 最後まで、ひとの神経を逆撫でする鴉であった。
 黒い羽根を散らしながら飛び去り、草むらに落ちた羽根を見ようともせず、ナズーリンは澄み渡った青空を仰ぐ。
 麻の紐を摘まんで、青い宝石を目の前に持ち上げる。
 瑠璃の中には、架空の星が見える。過去に生きた人は、瑠璃を天空の破片と称した。だとすれば、瑠璃の青は真昼の空ではなく、夜天の藍を意味していることになる。ちょうど、ナズーリンが瑠璃のペンダントを譲り受けたのも、夜空に無数の星が散らばっていた頃合いだった。
 少年は、口数が多い方ではなく、ただ遠巻きにナズーリンを眺め、隙あらば近付いて声を掛けようとしては、失敗して逃げ去るのが通例だった。別れ際に、多数の人間に囲まれて、化け物めがと罵られながら矢を射られればああ成る程なと納得できたものを、結局は少年がただナズーリンに惚れていただけの話らしい。
 記憶を遡れば、人間に好かれたのは、その一度きりだった気がする。
 だから、最初で最後の贈り物を、少年の好意に報いることもできないくせに、受け取ったまま手放せないでいる。
「ばっかみたいだね……」
 それは、誰に向けて放たれた言葉だったか。
 文に言われた通り、宝石を割ってしまえば、何かわかるのかもしれない。その内側に、秘められたまま明かされずにいる言葉が何か刻まれているのかもしれない。
 知るべきだろうか。
 知らずにいるべきだろうか。
 そこに『大好きだ』と、『また会いましょう』と刻まれていても、ナズーリンには報い切ることなどできないのだから。
 ――あぁ、でも。
「……全く。賢しいな、私は」
 手のひらに収まる宝石を、ナズーリンは意を決して握り締める。
 まぶたを閉じ、少しずつ力を込め、時折吹く風に身を任せる。籠の中にいる子鼠は、いまだに眠り続けている。そんなふうに、深く考えずに生きられれば、こんな苦悩も味わわずに済んだものを。
 けれど。
 もしそうであったなら、手のうちにある輝きを知ることはなかった。
 ――ぱき。
「……痛」
 浅い痛みが走る。もとより力仕事は向いていないのだ、手のひらを開いてみると、割れた瑠璃が彼女の肌を軽く切り裂いていた。赤い血が流れている。青と、赤と、黄色がかった白色が重なる。
 宝石の中には、何か意味深な文章が刻まれているわけでもなければ、ナズーリンの封じられた過去が暴かれるわけでも、少年の幻影が出現するわけでもなかった。
 ただ。
「あ」
 ひとつ罅が入ると、瑠璃は連鎖的に割れ続け、どうにかしようと慌てて断面を押さえるナズーリンの手の中で、宝石は瞬く間に砕け散っていった。
「……あ」
 ぱらぱらと、青い破片が手のひらを擦り抜けて、丈の低い草むらに落ちる。
 取り返しの付かないことをしてしまった、と思った。ナズーリンの主人が宝塔を紛失したことに気付いた時はこんな思いだったのだろうかと、場違いなことを考えもした。
 これでよかったのか。
 ――いや。
「こうでもしなけりゃ、か」
 こうでもしなければ、ナズーリンはいつまで経ってもずるいままだ。
 きれいなものは無くならない。そう信じたい。
 ナズーリンは、大地に落ちた瑠璃の欠けらを余さず拾い上げ、決して無くさないよう薄い布に包んだ。これをどうするべきか、答えは半分くらい出ているが、まだ決定はしていない。
 手のひらはまだ痛む。
 初めから痛んでいなかった心は、やはり今でも痛むことはない。
「……君は、いつ忘れたのかな。私も、もう忘れることにするよ」
 遠い国にいた、生きてはいないであろう少年に告げて、ナズーリンはもう一度、粉々に砕けた瑠璃を握り締めた。これ以上、瑠璃は割れることもなく、ナズーリンの肌を傷付けることもない。
 子鼠が目を覚まして、お腹が空いたと言わんばかりに鼻を鳴らし、ナズーリンは静かに笑った。

 

 

 

 



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2010年7月19日 藤村流

 



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