一日一東方
二〇一〇年 七月二十一日
(星蓮船・雲居一輪)
『車輪の唄』
一輪が中庭の掃除から戻ってくると、ナズーリンが小さな車輪を一緒くたに纏めて、柄にもなく齷齪と磨いていた。できるネズミとして名高いナズーリンだが、とても勤勉であるとは言い難いため、汗水垂らして働いている姿は貴重である。
「精が出るわね」
「……ああ、君か。ちょうどよかった」
一輪の声に、ナズーリンは安堵の息と共に立ち上がる。折り曲げていた腰を叩き、額に浮かんだ汗をハンカチで拭う。
「にしても、こんなにたくさんどうしたのよ。一輪車」
「……聖がね、といえば解ってもらえるかな」
「なんとなく」
疲弊と諦観がない交ぜになった顔をしているナズーリンは、斜に構えた笑みがよく似合う。
「どこぞの組合が余興のために大量に作ったものを、役目が終わった途端寺子屋に寄贈した。子どもたちの遊具になれば、と組合の爺さんは言っていたようだが。一輪車の乗り方が難しいこともあって、生徒の利用率は伸び悩んでいるらしい」
「まあ、無理もないでしょうね」
「そこに、聖のテコ入れが入ったわけだ」
おおむね、一輪が予想した通りである。おそらく、その先も似たような展開が続くと思われる。
「というと、一輪車の教室でも開くのかしら」
「そんなところだ。聖も奮起しているようだが、なにぶん無理はさせられない年頃だからね。一輪車に乗りながら説法を始められた日には、大道芸と勘違いされかねない」
どこに耳があるか知れないのに、ナズーリンも言いたい放題である。
「じゃあ、誰がやる予定なの」
「ん」
ダウジングロッドがないためか、鼠は人差し指で一輪を指す。
一輪は後ろを向いたが、特に誰もいなかった。
「誰もいないわよ」
「ボケか素かわからんと対処に困るんだが。まあ、ともあれ」
困惑する一輪をよそに、ナズーリンは事務的に説明を続ける。
「雲居一輪。君に、一輪車教室講師のご指名が掛かっている」
「……え、わたし?」
「おそらく、名前からの類推だろうね。『一輪車に乗れない一輪なぞただの雲山だ!』という」
「むちゃくちゃ的外れな上に、雲山の手前あんまりおおっぴらに落ち込めないんだけど……」
「それは落ち込んでるのと同じことだ」
雲山は人知れず泣いた。
彼を慰めるのは後回しにして、一輪はナズーリンに詰め寄る。襟首を掴むのは失敗したが、手首を押さえて拘束するのには成功した。
「おいやめたまえ」
「え、何、私が一輪車に乗らなくちゃいけない、とでも?」
「乗れないのかい」
「のっ……れ、なくも、ない……けど、うん」
「乗れないのか」
「い……いいじゃない、封印されてた期間が長かったせいで、こんな転ぶことを前提とした遊具なんて見たことも聞いたこともなかったのよ。私は悪くない」
わたしはわるくない、と繰り返す一輪。
過去の失敗が想起されるのだろうか、しかしナズーリンは容赦をしない。
「聖、がっかりするだろうな」
「う……でも、姐さんも解ってくれるでしょうし……」
「初心者にも等しい一輪に、名前だけで一輪車の達人と決めつけてしまった己の傲慢さを、聖は深く反省し、涙に暮れることだろう。そうだな、彼女の悔悛から察するに、食を断ったり滝に打たれたり、すっぴんを晒したりすることもやぶさかではあるまい」
「うぅ……」
「特に最後のはやめてほしい」
白蓮に恨みでもあるかのような大胆発言。
ナズーリンの未来や如何に。
「……やる、しかないのね。もう」
「決めるのは君だ」
一輪の悲愴な決意を、ナズーリンは冷たく突き放す。突き付けられた一方的な選択肢を、戸惑いながらも、どちらかひとつ選んでいかなければいけない。それらとは異なる、最善の選択もまたどこかに存在するのだろうが、多くは逼迫した時間の中でそれを見付けることができないでいる。
一輪は、手のひらに拳を合わせる。
「いいわ。その挑戦、受けて立ちましょう」
「結構」
ナズーリンは不敵に笑い、磨いていた一輪車の中でもとびきり輝かしいものを提供する。唾を飲み込み、一輪は座席の感触を確かめる。意外に柔らかい。
「情熱の赤、と言いたいところだがね。君には、空の青が似合う」
青く彩られたフレームに、一輪はそっと指を這わす。磨いたばかりのフレームはやや水気があり、夏の日に降り注ぐ夕立を彷彿とさせた。
「……不思議ね。初めて乗った時は、恐怖しか浮かばなかったのに。今は、期待に胸が膨らんでいる……」
「いいかげん前置き長いぞ。怖じ気づいてるのか」
「ばっ……なめンじゃないわよ! 一輪車くらい乗りこなせなくて、何が雲居一輪か!」
「よし、ならがんばれ。私は何もしない」
「くっ……このネズミ……」
ペダルに足を掛け、体重移動のタイミングを計る。背後では、底意地の悪い鼠がほくそ笑んでいるのがわかる。雲山をけしかけても構わないのだが、一輪が一輪車を制覇できなければ、状況は何も変わらない。
踏み出すのだ。はじめの一歩を。
「ふぅ……」
深呼吸をひとつ。大仰に空を仰ぎ、視点は前方に。座席をまっすぐに立たせ、傾かないうちに座り、もう一方の足をペダルに乗せれば、あとは漕ぐだけだ。
行ける。
この車輪と共に、どこまでも遠くまで。
「はっ――!」
力強く、一輪は石畳を蹴った。
――ぐるん。
「へうッ!?」
こけた。
一部始終を目撃していたナズーリンは、一輪に配慮してか口元を押さえて笑いを堪えていたが、笑っている時点で配慮も何もなかった。
どれだけ鼠に笑われようとも、一度や二度の転倒でめげる一輪ではない。早々に投げ出した前回と違い、今回は達成しなければならない理由がある。
白蓮のため、命蓮寺のため、虚仮にしてくれた鼠を見返すため、弱い自分を克服するため。
一輪は諦めない。
たとえ何度転がろうとも、砂まみれになろうとも、押し殺した鼠の笑い声に心が乱されようとも。
この胸に、確かな希望がある限り。
「必ず……やり遂げてみせるんだから……」
頭から外れたフードを、もう一度深く被り直す。
日没まで、まだ時間はある。少しずつ上達しているような気はするのだ、あとはコツさえ掴めれば、一気に乗りこなせるようになるはず。
「よっ!」
――ぐるんばたんべしゃ。
かれこれ五十回目の転倒であった。
「いや、やっぱり向いてないよ君。一輪車の神に見放されている」
かくいうナズーリンは、ダウジングロッドというバランス制御装置がなくても、何も問題なく一輪車を乗りこなしている。鼻歌交じりに一輪の周囲を旋回する鼠を始末しようと心に決めてはいたが、一輪車の境地に辿り着くまではと制裁の手を控えているのだ。
「ふむ、乗ってみると意外に快適なものだ。見世物になるのは勘弁してもらいたいが、気分転換にはちょうどいい遊具だと感心するよ」
「……ネズミはさー、籠の中で車輪ぐるぐる回してるからさー。そういうの好きなんですものねー」
「おいなんだその言い草は。君にネズミの何がわかる。あのぐるぐるを回している時にのみ感じられる疾走感と永遠性は、回したものにしか解らない甘美な達成感に満ち満ちていてだね」
変なスイッチが入ってしまった。放っておくことにする。
しかし、これほど一輪車が苦手だとは思わなかった。自転車も雲山も意のままに操れるというのに、己の名が冠せられた遊具ひとつ満足に扱えないとは。
「……いや、違う」
同じ名であればこそ、一輪車を制御することは、己を制御すること。
簡単に操れると思っていた己こそ、最も御しがたい存在だったのだ。
不覚。なんたる浅ましさ。
そして、その真意を一輪車に隠していた白蓮の思慮深さ。
「さすが、姐さん……」
「よくわからんが、たぶんそれは違うと思うぞ」
「うるさいわね。少しくらい浸らせなさいよ」
完全に、一輪車を我が物としたナズーリンに対し、石畳に這いつくばって立ち上がる気力もない一輪。この無様な姿を白蓮に見られたらと思うと、羞恥で顔から火が出てしまいそうだ。
「あらあら。楽しそうね」
「ああ、聖か」
出火した。
「ね、ね、姐さん……!」
「あら、どうしたの一輪」
「これには深い事情がございまして」
「どうやら、一輪は一輪車があまり得意ではないようだよ」
ナズーリンは基本的に容赦をしない。
討ち死にした一輪に向けて、それでもやはり白蓮は慈愛に満ちた声を掛ける。
「ごめんなさいね、苦手なものを押し付けてしまったみたいで……もう少し、あなたの趣味を把握していればよかったのだけど」
「い、いいえ! もとはといえば、私が一輪なんて名前だったのが原因ですし」
「自分の名前を軽んじていけませんよ。何者にも、その名が付けられた意味があるのです。軽重の違いはあれど、無碍に扱っていい理由はないのですから」
「は、はい!」
一輪の目はきらきらしている。
若干、煙に巻かれた印象はあるが、白蓮もさほど気にしていないようだし、一輪が思い詰めていると白蓮の表情も曇る。できないものはできないとした上で、また新たな方策を考えるよりほかない。
「よくわからんが、丸く収まりそうだね」
一輪車から降り、ナズーリンはやれやれと肩を竦めた。
日も落ちることだし、一輪車も片付けなければいけない。正直面倒くささは拭えないが、与えられた仕事はきちんと全うするのがナズーリンの矜持。寄せ集められた一輪車のひとつに手を掛けると、ふわふわ説法が終わったらしい白蓮がナズーリンを呼びとめた。
「折角ですから、私もちょっと」
「もう日が暮れるよ」
「ちょっとだけですから」
「仕方ないな……」
ほれ、と比較的頑丈な一輪車を渡す。
瞳を輝かせ、サドルやフレームを撫でる仕草が一輪と被る。これは受け身用のマットか雲山でも用意すべきかな、とナズーリンも一輪も然るべき事態に身構えていた。
「安心してください、これでも、バランス感覚はいい方なんですよ」
自信たっぷりの笑みに、ナズーリンは「へえ」と気のない返事をした。
「むっ。信用してませんね」
「前例が前例だけにね」
「うっ」
一輪のダメージは根深い。
「わかりました。私の実力、とくとご覧にいれましょう――!」
聖白蓮の目に、確かな情熱の火が灯る。
ペダルに足を掛け、よっこいしょ、と期待を裏切らない掛け声に併せて、サドルに跨る。
そして。
――めきっ。
「……」
「……」
「……」
サドルが折れた。
『
告知
命蓮寺主催の一輪車教室は、無期限の延期となりました
お察しください
』
ナズーリン 多々良小傘 雲山 村紗水蜜 寅丸星 聖白蓮 封獣ぬえ
SS
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