ヨーロッパとカドー
ローマ人も、ほかのインド・ヨーロッパ語族(印欧語族)と同じく、先史時代から神話を語り継いできたと考えられている。しかし、ローマ人たちは、彼らの神話を巧妙に「歴史」や「祭儀」へと転換していったとしてこの過程をあきらかにしたのが、ジョルジュ・デュメジルである。彼はローマ初期の歴史や祭儀などとほかの印欧神話を比較検討し、ローマ人のあいだにも他の印欧語族と共通する神話があることを立証し、三機能体系の適用や、やる気のない曙の女神の神話、水の神の神話などいくつかの比較神話学的再構を主張した。デュメジルの主張のなかでとくに論争を呼んだのは、ロムルスもレムスもヌマも、そしてサビニ人でさえ、純粋な歴史上の存在ではなく、神話の中の存在が歴史に読み替えられたか、または歴史的な存在に当てはめられたという説である。デュメジルは膨大な著作を著し、自説を裏付けるべく精力的に活動した。しかし、近年の研究の成果によって、伝説とされていたことの一部が史実と証明されており、そのため「神話の歴史化」説が疑問視されるのは不可避である。古代史研究者のあいだでは、デュメジルの説を無視するか、否定する者が多い。ただし、ギリシア神話の輸入以前からローマに独自の神話があったことは間違いない。"ローマ人は、紀元前6世紀から ギリシアの影響を受けて、ローマ古来の神々をギリシア神話の神々と同一視する、いわゆる「ギリシア語への翻訳」が行われた。その結果、下記の「主な神々」の欄に記したように、ローマ固有の神に対応するギリシアの神が決まっていったのである。"アエネアス神話は、紀元前4世紀にラティヌス神話をそっくり模倣したものであると考えられている。ラティヌスは、ラテン人が毎年アルバーノ山(現カーヴォ山)でユピテル・ラティアリス神に犠牲を捧げるとき、神話上の父祖たる王を呼ぶとき使った名前である。現に、ラティヌスの名が記された紀元前6世紀の碑文が出土しているし、ローマ西方の海岸のラウィニウム(現プラティカ・ディ・マーレ)で発掘された墳墓はラティヌスに奉献されたものである、と考える研究者もいる。アエネアス神話においては、ラティヌスは、アエネアスが地中海を彷徨した挙句、ラウィニウムに上陸したとき提携した土着民の王として出現する。
北欧神話を解釈する上で重要なのは、キリスト教徒の手により「キリスト教と接触していない」時代について書かれた記述が含まれているという点である。『散文のエッダ』や『ヘイムスクリングラ』は、アイスランドがキリスト教化されてから200年以上たった13世紀に、スノッリ・ストゥルルソンによって書かれている。これにより、スノッリの作品に多くのエウヘメリズム思想が含まれる結果となった。事実上、すべてのサガ文学は比較的小さく遠い島々のアイスランドから来たものであり、宗教的に寛容な風土ではあったものの、スノッリの思想は基本的にキリスト教の観点によって導かれている。ヘイムスクリングラはこの論点に興味深い見識を備える作品である。スノッリはオーディンを、魔法の力を得、スウェーデンに住む、不死ではないアジア大陸の指導者とし、死んで半神となる人物として登場させた。オーディンの神性を弱めて描いたスノッリはその後、スウェーデン王のアウンが自身の寿命を延ばすために、オーディンと協定を結ぶ話を創る。後にヘイムスクリングラにおいてスノッリは、作品中のオーラヴ2世がスカンディナヴィアの人々を容赦なくキリスト教へ改宗させたように、どのようにしてキリスト教へ改宗するかについて詳述した。市民戦争を避けるため、アイスランド議会はキリスト教に票を投じるが、キリスト教から見ての異教崇拝を、幾年もの間自宅での隠遁の信仰で耐え忍んだ。一方スウェーデンは、11世紀に一連の市民戦争が勃発し、ウプサラの神殿の炎上で終結する。イギリスでは、キリスト教化がより早く散発的に行われ、稀に軍隊も用いられた。弾圧による改宗は、北欧の神々が崇拝されていた地域全体でばらばらに起っている。しかし、改宗は急に起こりはしなかった。キリスト教の聖職者達は、北欧の神々が悪魔であると全力を挙げて大衆に教え込んだのだが、その成功は限られたものとなり、ほとんどのスカンディナヴィアにおける国民精神の中では、そうした神々が悪魔に変わることは決してなかった。
このうち、昔話には、発端句(「むかし」を含むものが多い)と結句(「どっとはらい」など)に代表される決まり文句がある。また、固有名詞を示さず、描写も最小限度にとどめ、話の信憑性に関する責任を回避した形で語られる。時代や場所をはっきり示さず、登場人物の名前も「爺」「婆」や、出生・身体の特徴をもとにした普通名詞的である。「桃太郎」は、「桃から生まれた長男」の意味しか持たない。"伝説は、同じ昔の話であっても、一定の土地の地名や年代など、その所在や時代背景が的確に示され、登場人物も歴史上の有名な人物やその土地の何と言う人物など、好んで詳細に示そうとし、定義において昔話との大きな相違点とされる。 これらの事から、伝説には伝記風の態度と要素があるが、昔話はフィクション(創作)として語られている。しかし一部の土地では「炭焼き長者」や「子育て幽霊」などといった昔話が伝説化し、定着している例も挙げられる。"世間話は体験談や実話として語られる民話である。
また、アドラストスを総帥とする「テーバイ攻めの七将」の神話やその後日談でもある、七将の息子たちの活躍も、英雄たちが結集した物語である。メレアグロスの猪退治の伝承が潤色され、拡大した規模で語られるようになった「カリュドーンの猪狩り」の神話もまた、メレアグロスを中心に、カストールとポリュデウケースの兄弟、テーセウス、イアーソーン、ペーレウスとテラモーン、そしてアタランテーなども参加した英雄の結集物語である。ギリシア神話上で、もっとも古く、もっとも重層的に伝承や神話や物語が蓄積されているのは、「トロイア戦争」をめぐる物語である。古典ギリシアの文学史にあって、紀元前9世紀ないし8世紀に、突如として完成された形で、ホメーロスの二大叙事詩、すなわち『イーリアス』と『オデュッセイア』が出現する。詳細な研究の結果、これらの物語は突如出現したのではなく、その前史ともいうべき過程が存在したことが分かっている[86]。トロイア戦争をめぐっては、その前提となったパリスの審判の物語や、ギリシアとトロイエのあいだの交渉、アカイア軍の出陣、そして長期に渡る戦争の経過などが知られている。『イーリアス』は十年に及ぶ戦争のなかのある時点を切り出し、劇的に、アキレウスの怒りと、代理で出陣したパトロクロスの戦死、ヘクトールとの闘い、そして彼の死と、その葬送のための厳粛な静けさで物語が閉じる。他方、『オデュッセイア』では、戦争の終結後、帰国しようとしたオデュッセウスが嵐に出会い、様々な苦難を経て故郷へと帰る物語が記されている。