岸壁の天使 3
私が涙を収めるまで、ラファエルさまはずっと私を抱いて、背中を撫ぜてくださいました。
泣いている私に、少しづつ語りながら。
「ミュック、泣かなくてもいい。君はもう、ちゃんとわかったから」
その最初のひとことの上に、積み重ねられる言葉。
「大丈夫、今の君は、ちゃんとあの子のことを考えているから」
「・・・だって、私はあの子を、あんなに・・・傷つけたのに」
「よく聞いて。私は絶対に手を上げちゃいけないって言ってるのではないよ」
「え?でも」
「考えなさい、どこで、何を間違えたのか。確かに君は間違えたけど、何を間違えたかは教えてあげない」
きっぱりしたお言葉。どうしたらよかったのか私にはまだわかりませんでしたけれど、考えたい、とは思いました。
「・・・・・。」
「そう、いい子だ。よく考えて。ほんとにあの子のことを考えてたら、君にはちゃんとわかる」
「・・・わかり、ますか?・・・また間違えたら・・・」
実際私は、怖かったのです。自分があの子に手を上げたことそのもの、それがあんなに痛かったことが。つい先刻二度とそんなことはしないようにと思ったのに、いま話されるラファエルさまのお言葉は、そうであれというものではありません。
「逃げちゃだめ。間違えてもいけないけど、逃げてはいけない」
どきん。
心のうちを見透かされるような一言が、重く響きました。
「大丈夫。ミュック、君は逃げたりしない。ほんとにあの子のことを考えてたら、君は逃げない」
きっぱりと言い切ってくださるほどに、私は私を信用できてはいないのですが。
「あの子はとても、苦しんでいたよね」
そのお言葉に私は頷きました。ええ、とても。見ていられないほどに。
「ね、大丈夫でしょう?君はあの子を見捨てたりしない」
・・・確かに、そうかもしれません。あんなに苦しんでいたあの子に、何もしない、手を出さないでそこから逃げたら、私は後悔で凍り付いてしまいそうです。
でも、それなら何ができるのでしょう。さっき私は、ほかの途を知らずに間違えたのですから。
「だから、考えなさい。大丈夫、ミュニック、ほんとにあの子のことを考えてるから、君は考えたいと望んでいるから」
「だから今度はきっと大丈夫。やり直しておいで」
いつの間にか涙の引いていた私を床に降ろすと、ラファエルさまはとん、と私の肩を押されました。
ふと気がつくと、私は再び岸壁にたたずんで、じっと海を見つめていました。日は中天を少し過ぎたあたり、そう、先程の時刻です。海はざわざわと静かで、暗く、けれど広く広く、水底にはすべてを溶かしているような、そこから鈍く光が零れてくるような大きさでした。
そうして私は静かに待ちました。
ぱき、と小枝の折れる音がして振り向くと、小さな男の子が大きな目を見開いていました。
この子は、やっぱりとてもとてもいい子で。そして、とても苦しんでいて。
ざわざわと揺れている心が哀しくて、先程の私の愚かな振る舞いも悲しくて。
男の子を振り返る私の瞳からは涙が一粒零れ落ちました。
男の子はおどろいた眼で私を見ていましたけれど、私が微笑んで「おいで」と声を掛けると、私の隣までやってきました。
やっぱり微笑みたくなるほどに、この子はいい子で。
そしてさっきよりもずっとずっと強く、私はこの子の苦しみを感じたのです。
私の隣に立つ子に向かって左腕を広げると、男の子・・・エフェはおずおずと体を寄せてきました。そのまま私はエフェを腕の中に包み込んでしまいました。
そうして彼をしっかり抱いたまま、ふたりで海を見つめます。エフェはきゅうっと私の腕にしがみついていました。
エフェの体は、とってもほんわり温かくて。私は、私の腕がこの子にとっても温かいものであるように願いました。どうか私が、このしがみついてくる子を、支えてあげられますように。
そう祈りながら私たちはくっついて、ふたりで海を眺めました。
男の子の心は、ときに穏やかで、ときにざわざわ波立って、泡立って。
穏やかな一瞬に、すぐまた風が吹くようなやるせなさ。
悲しい、でも悔しい、でも言い表せていない荒れた波を、エフェはじっと抱え込んでいました。
エフェ。
どんなにあなたの心が荒れていても、あなたはいい子だと、とてもとてもいい子だと、私は知っているから。だからどうか、そんなに苦しまないで。
あなたがいい子だからこそ、だからこそあなたの心はざわめいているのだから。
私はそう伝えたくて、そして伝えたい祈りの矛盾を知ります。
この子はいい子だ、それは少しも揺らがないのに。
あなたはいい子だから、苦しんでいる。あなたはいい子だから、苦しまないで。
私はエフェに、何を望んでいるのでしょう?
エフェ、あなたはいい子だ。
絶対に私の中で揺らがないそこまでを、私は声にして。
そうしたら、男の子は腕の中でうなだれて、首を振りました。
どうして。
私は、じっとじっと耳を済ませます。
・・・母さんに、あんなこと言っちゃったし。
・・・結局手伝いも、しなかったしさ。
波の音の合間に聞こえる後悔の呟きは、それこそこの子がいい子であることの証のように思われたのですけれど。
・・・悪かったと思っているのでしょう?
それを伝えたくて、私は問いを返しました。
エフェは目を伏せて答えをためらっていましたが。
・・・うん、でも・・・。帰るのも謝るのも、怖いよ。
ぱしん、と。エフェの答えに私は打たれました。
いまここで、叱ってくれたらいいのに。それは確かに、この子の望みの一部ではありました。けれどそれ以上に、エフェは自分が何をしないといけないか、ちゃんと知っていたのです。
お母さんのいる家に、帰る。お母さんに、謝る。
いまだこの子は、帰ることができるほどに意思を固めてはいませんでしたけれど、
でも、そうしなければいけないことを間違えたりはしませんでした。
私は、もっとぎゅうっとエフェを抱きしめました。
そこまでちゃんとわかってるこのいい子が、だけどできないで苦しんでいるこの子が、愛おしくてならなかったので。
・・・怖いよ、ね。
ついさっき、体験したばかりですから。叱られるとわかっていて身を差し出すのは、怖いですよ。怖いと思うことはきっと、おかしくない。けれどこの子がさっきそうしたように、怖いと思っても一歩踏み出すことも、この子はきっとできるのです。
私の言葉に、エフェはぴくん、と身を震わせて。さらにきゅっと身を寄せてきました。
そして囁きます。
・・・怖い。でも、
でも、ほかにどうしようもないことを、この子はよくよく承知していました。
・・・大丈夫。あなたはいい子だから。
・・・だから、きっとできる。
私はそれを知っていました。そして、それをこの子に伝えたいと思いました。さっきラファエルさまはいったい何度私に「大丈夫」とおっしゃったのだろうと頭の片隅で考えてみたりしながら。
大丈夫。あなたはきっと大丈夫。
だから、待っているから。
急かしてはいけないし、急かす必要もないことをいまの私は承知していました。
そりゃあ、早く謝ったら、早く楽になるのにとは思いますけれど、無理を強いることではなくて。いまこの子は逃げているのでもうつむいているのでもなくて、進むべき方向をちゃんと見ているのですから。
怖いよね。だから、ゆっくりで構わないから。
ほんとに逃げちゃいたくなったら、・・・叱って引き止めてあげるから。
・・・だから、きっと大丈夫。
・・・ゆっくり、待っているから。
とくん、と男の子の胸が鳴って、私の腕の中で彼は私の手を探りました。
エフェの小さな手が私の掌にすうっと入ってきて、少しくすぐったく思いながら、私たちはきゅっと手を握り合いました。
そのままエフェは立ち上がろうと試みて、やっぱり、怖い、とためらったのがわかりました。
手の震えが伝わってきます。
何か、してあげたいのに。
私に何ができるのかわからずに、私はきゅっと手を握りました。
何ができるのかな。
この可愛いいい子のために、何か。
と、きゅうっと握った私の手はあれよあれよと縮んでいって。
丁度エフェと同じくらいの手の大きさになりました。
気がついたら私の背格好も、エフェと同じくらいになっていました。
手をつないだら同じ肩の高さ、同じ視線の高さで並んで。
エフェと私は目を見交わして、ちょっと笑いました。
お互いにお互いを引っ張って、よいしょ、と立ち上がります。
「行く?」
それは私の声でした。人の子どものような、私の声。
ラファエルさまのなさったことなのか、どうか。確かにはわかりませんが、私は神様に感謝します。手伝ってあげられる途が、目の前にあるのですから。
エフェは照れたような眼差しで、けれどしっかり頷きました。
私たちは岩場を降りて、ふたりで手をつないで歩きます。
握った手の向こうの胸がどきどきどきどきしているのは感じられましたけれど、それでもエフェは自分の足で、まっすぐ歩いて行くのでした。
2006.12.24 up
まだあとすこし。