岸壁の天使 2
ばささ、ばさ、と翼を鳴らして私はふわりと天上の門に降り立ちました。
私たちは毎日地上へと降り、そしてここに帰ってきます。ここは私たちが生まれ、属し、憩う場所、たくさんの仲間と先達がいらっしゃる、晴れやかで穏やかで正しい天上の世界です。
帰りついた私を、一人の大天使がお待ちでいらっしゃいました。
ラファエルさまは私の師であり、上司であり、兄のようでもあるおかたです。
ラファエルさまに迎えていただくのはとてもめずらしいことというほどでもありませんけれどいつものことでもなく、何のご用だろうと私は首を傾げました。
「お帰り、ミュニック。すこし話があるんだけど、いいかな?」
ラファエルさまのお部屋に招かれて腰を下ろしたときもまだ私はお話に心当たりがありませんでしたから、ラファエルさまの質問に、いえ、その質問に対して感じた私自身の心の動きにとてもびっくりしてしまったのです。ラファエルさまは、こうご質問になられました。
「ミュック、きょう海辺で、男の子と話をしたよね?」
お答えは、「はい」という以外にありえません。だってそれが事実ですから。
ところが私はとっさに「いいえ」と答えたくなったのです。どうしてなんでしょう。
もちろん天使が嘘をついてよいわけもなく、またラファエルさまに嘘がつき通せるはずもなく、一拍おいて私は「はい」と答えました。
そう答えられたことには少しほっとしながら、私は自分の心を掴みかねていたのです。私は嘘をつきたいと願った?それは思うだけでも天使としてはありうべからざることで、私の胸はざわわ、と揺れました。
それでも、そんな私に向かってラファエルさまはふわりと微笑んでくださいました。
私を安心させてくださろうとなさったのか、やっぱり胸が痛くなるくらいにお優しい笑みでした。けれどまた、哀しみもすこし混じっていらっしゃるように思ったのは、たぶん間違ってはいなかったでしょう。
ラファエルさまは静かに私を咎められました。
「ああいう叱り方はよくないよ、ミュック」
叱った、のでしょうか。私は、あの男の子を。
そうなのかもしれません。でも、それなら、あの子は。ほかにどうしてあげたらよかったのでしょう。
「でも、ラファエルさま。あの子は叱られたがっていたのです」
思わず私はそのように言葉を返しました。
ラファエルさまは私を見て頷かれました。
同時にその表情を曇らせて、おっしゃいました。
「その通りだよ。かわいそうにあのいい子は、とても苦しんでいたよね。
・・・でも、ミュック。正しい言葉でも、よく考えて話しなさい。
君はどんな気持ちでその言葉を発するのかな」
ラファエルさまにあの子をいい子だとおっしゃっていただいて、私はすこし安堵しました。
そして次には、どうしたらよいかわからなくなって、うろたえました。
叱られたがっていたあの子を、叱ってはいけなかったのでしょうか。
それならどうしてあげたらよかったのでしょう。・・・・・わかりません。
と、そこまで考えて私は恥ずかしさに顔を赤らめました。
わからなかったら、わからないとお伺いすれば足りるのです。
でも、と言い返した私の言葉は、私は間違っていなかったと思いたい高慢な気持ちの現れでした。
ラファエルさまが無用な叱責をなさることなどありえないとちゃんと知っていたはずですのに。私は我が身を省みるより先に、ラファエルさまを責めたのです。
おそるおそるラファエルさまのお顔を見ると、ラファエルさまはじっと穏やかに私を見つめておられました。厳しいようでも優しいようでもあるその視線に励まされて、私はもっと赤くなりながら口にしました。
「あ、あの、・・・ラファエルさま・・・ごめんなさい」
言った私はもう顔を上げていられずに下を向いてしまいましたけれど、ラファエルさまが頷いてくださったのはわかりました。ラファエルさまは私の巻き毛をくしゃくしゃと撫でて、そっとおっしゃいました。
「ミュック、君はいい子だ。あの子のためを思ったことも知ってる。
でも、あの子にとっていちばんいい途でなければ叱ってはいけない、あんなふうには」
おっしゃられることはわかります。けれど、どうしたらいいのかはわかりません。
だって、見ていられなかったのです。
ラファエルさまがこうおっしゃるからには、あれは「いちばんいい途」ではなかったのでしょうけれど、それでは何がいちばんいい途だったのか。いえ、いちばんいい途でないにせよ手を貸さないよりは何かひとつでもして上げられるならその方がよいのじゃないでしょうか。
たくさんの「わからない」を胸に抱えながら、私は注意して口を開きました。油断するとすぐ、私は間違ってない、と思ってしまいそうなのです。間違っているのかもしれない、それならそれはなぜでどうしたらいい?謙虚さを失ったらどのようなお答えにも耳を塞いでしまいかねないことが、このちょっとの間の私の心の動きだけでもよくわかりました。
「どうしたら、よかったのでしょう。何もしないではいたくなかったのです」
お答えは、きっぱりと厳しいものでした。
「君にはわかるはずだよ、ミュニック。
あの子のことをほんとうに考えたら、君はきっとあんなことはできなかった」
「そんな、だって」
だって私はあの子のことを、それだけを考えたつもりでしたから。
思わず開いた私の唇にラファエルさまはその優美な指を当て、先の言葉を押し留められました。
あ。
たぶんそのまま続けていればそれは醜い言葉だったでしょうから。私はラファエルさまに感謝しながらも、身を固くして掛けられる言葉を待ちました。つい先刻と同じ過ちを繰り返したことには気がつきましたけれど、私から口を切ることはできませんでした。
だってだって、わからないのですから。
謝罪もできず、もっと荒れた言葉を零すのも避けたかったら、黙っているよりほかにありません。
空白の瞬間のあと、ラファエルさまはふうっと長い息を吐かれました。
続くお声は悲しげでもあり、私は自分がラファエルさまを悲しませているのを申し訳ないと思いましたけれど、黙ってお伺いする以外になかったのです。
「ミュック、君はあんなふうにひとを叱るということが、どういうことかをわかってはいないようだね」
言葉にされたのは、それだけでした。そして。
「おいで」
ラファエルさまは私を膝に招かれました。
それが何を意味するのかはよくわかりましたけれど、恥ずかしくもあり怖くもあり、立ち上がるにはたいそう勇気が必要なのでした。でも、今日あの子を叩いた私が嫌だというのは許されることではないでしょう。
私はゆっくり立ち上がり、あの子がしたようにぱちぱちと瞬きをして不安を紛らわせ、きゅっと一瞬目をつぶってラファエルさまの膝に体を預けました。
ラファエルさまは私の髪を撫ぜてくださいました。(こんなにいい子なのに。どうか、わかって)声にならない呟きが、けれど何故か私にはっきりと聞こえました。つきん、と胸が痛みます。私のために、祈ってくださっている。
それにしても、待つ間は怖くて。ラファエルさまが腕を振り上げる気配を感じたときは却ってほっとしたくらいだったのですが。その思いは、すぐに訂正を余儀なくされました。
ぱちん!
「痛っ!」
私は思わず、悲鳴を上げました。お尻がじんじんとして、とても熱いのです。
慌てて口を塞ぎます。だってあの子は、あんなに我慢していたのに。
ぱちん!
打ち重ねられると、さらに痛みは増していきます。足をばたばたさせて暴れたいのですけれど、脳裏に浮かんだ男の子の姿が、それを止めます。
ぱちん!
(痛い!)それでも、涙を留めることはできなかったので、男の子のことを思えば思うほどできなかったので、私はくしゃくしゃの顔を両手で覆ってしまいました。その手で涙を拭いながら、私は、私があの男の子にこんなにも痛みを与えたことに慄いていました。
ぱちん!
確かにラファエルさまのおっしゃるとおり、私はあの子のことをちゃんとは考えていなかったのです。
・・・ぱちん!
こんなに痛いなんて知らなかったし。そして男の子がどんなに勇敢で・・・?
どうしてあの子は、声ひとつ上げずに我慢していたのでしょう。
ぱちん!ぱちん!
こんなに痛いのに。あの子は暴れることもなく、泣くこともなく、じっとぎゅうっと縮こまって。それほどにあの子は、自分を責めていたのですよね。
ぱちん!
そんなに傷ついている子に、どうして手を上げることなんてできたのでしょう。
もとよりあの子はこんなに後悔していたのに。
ぱちん!
確かにあの子は叱られたがっていたのですけれど、でも、私に、こんなふうに?
少なくともいまラファエルさまがそうしてくださっているよりも私は、叱るということも男の子のこともわかってはいなかったのです。
ぱちん!・・・ぱちん!
いつの間にお仕置きは終わったのか、ラファエルさまは手を止めて、私を抱き上げられました。
ラファエルさまの大きな腕の中に包まれながらも、私は顔を隠しラファエルさまを見られないまま、ぽたぽたと指の間から大粒の涙を零し続けていました。
「ミュック、泣かなくてもいい。君はもう、ちゃんとわかったから」
「だって、ラファエルさま、私は」
私はあんなに考えなしに、男の子を傷つけたのに。
泣かなくてもいいって言葉はおかしなことに私により一層の涙を溢れさせ、ラファエルさまはそんな私をじっと抱きしめてくださっていたのでした。
2006.12.16 up
子ども<<大人=天使<大天使ってサイズ。