岸壁の天使 1

ざわわ、と海が鳴っていました。
高い岩場の上までも、いえ、海辺の村から僅かばかり離れた人気のない岩場だからこそ、岩に波の当たる音、ただ水の寄せて返す音、風が灌木を渡る音、海鳥の羽の風を切る音、どれもこれもがはっきりと響いていました。
海はざわざわと静かで、暗く、けれど広く広く、水底にはすべてを溶かしているような、そこから鈍く光が零れてくるような大きさでした。

私は岸壁にたたずんで、じっと海を見つめていました。その海のうねりから、目が離せなかったのです。夏の終わり、日は中天を少し過ぎたあたりでした。辺りに満ちるここ北国の鈍い光は暑くはなく、かといって吹き付ける風も寒くはなく、私は岩に腰掛け、ただただ海の広さに神様の偉大さを感じていたのでした。

そんなとき。

ぱき、と小枝の折れる音がしたので、私はそちらへ振り向きました。
年のころはおそらく十に届かない小さな男の子が、大きな目を見開いていました。

岩の凸凹に手をかけたまま、その可愛い子はしばらく固まっていました。私を見て、びっくりしたのでしょう。それは驚きますよね、誰もいないと思って登ってきた岩場に、見たこともない人がいたら。・・・いえ、見たこともない「人」ならまだ良かったのでしょうけれど、おそらく私は人には見えなかったでしょう。
私は天界に属する存在、地上の方々には天使と呼ばれることもあるようです。私たちを見ることができたなら、そのとき人の目には人より一回り大きくて、真っ白で、翼を持った人に似た形で見えるらしいことを、私はちゃんと知っていました。天使って、生まれて日が浅くてもいろいろなことを知っているものなんですよ。

男の子に向かって私はふわりと微笑みました。
その子を安心させてあげたかったのと、いえ、その子は私が思わず微笑みたくなるくらいにいい子だったのです。あなたがどこかで見かけた天使が笑っていたら、それは目の前のあなたが綺麗だからなんですよ。愛おしいものの前では、私たちはどうしても笑みがこぼれるのです。きっとさっき海を見ていたときの私も、微笑んでいたのだと思いますが。
でも、子どものこころは格別です。

男の子はそれを見て少し頬を緩めてくれたので、私の笑みはもっと大きくなりました。
そうして「おいで」と声にならない声を掛けたのです。
男の子は頷いて、また岩を登りはじめます。少し上ればもう天辺。私の隣に男の子は腰を下ろしました。

近づけば近づくほど、私たちは人の心を深く強く感じます。私のような若輩者でなければ、距離に関わらず思うとおりに心を感じることができるのがほんとうなんですけれどね。その男の子は、とてもとてもいい子なんですけれど、その心はざわざわと揺れていました。
この子は、だからこの誰もいないはずの岩場に上ってきたのでした。

私は、ふたたび海を眺めました。いいえ、今度はわたしたちふたりで。
隣同士で座っていると、男の子はすこしづつ体を寄せてきます。大丈夫ですよ、別に私たちの体はくっつこうとしたら通り抜けてしまったなんてくらいに透けてるわけじゃありません。ちゃんと男の子ひとりくらい支えてあげられます。男の子の体は、とってもほんわり温かいものでした。私の体もそうだといいんですけれど、どうなのでしょう。
なにも伝わらないのか、ひんやり冷たいのか、ほわっと暖かいのか。暖かいといいのだけれど、と願いながら私は男の子とくっついて、ふたりで海を眺めました。

男の子の心は、ときに穏やかで、ときにざわざわ波立って、泡立って。
穏やかな一瞬に、すぐまた風が吹くようなやるせなさ。
悲しい、でも悔しい、でも言い表せていない荒れた波を、男の子はじっと抱え込んでいました。

海が凪いだら、男の子の心も凪いでくれたでしょうか。
ざわわと鳴る海は、男の子の内の波も運び去ってくれたでしょうか。
わかりません。もっとずっとふたりで海を眺めていたら、そうなったかもしれませんが。
痛々しくて、私は黙って見ていられなかったのです。

私は、その子を抱き寄せました。
たぷん、とその子の心が私の心に寄せてきます。男の子が抱え込んで、けれど抱えきれないでいる光景が、流れ込んできました。

「エフェ!」
この子は首をすくめています。これがこの男の子の名前のようですね。
「何度言わせるんだい、水汲みと草むしり、朝のうちにって頼んだろう?」
ずきん、と胸が痛みます。だけど、ちいさな怒りの炎も確かに熱く灯っているのです。
「うるさいな!何で僕がそんなことやらなきゃいけないんだよ」
怒鳴り返してももちろん気が晴れるわけでもないのに。ずきん、ずきんと痛みはひどくなるばかりなのに。
「エフェ!」
「うるさいってば!」
まずい、って思ったのに。走って、逃げてきてしまった。 ひとりになりたかったから、この岸壁に登ってきた。
ひとりで身を固くしていても、何の解決にもならないなんてわかっているけど、でも、ほかにどうすることもできなかったのです。

胸の奥が苦しいって、何かが体の中で暴れている。
どうしていいかなんて、知らない。
私はとても哀しくて、きゅうっと抱き寄せる手に力を込めました。
この子がこんなに苦しんでいるのが悲しくて、何かできることはないかと思ったのです。

そのとき、ある映像が見えました。
私はそれにすこしためらいを覚えましたが、思い直して男の子を抱いていた手を離しました。

「おいで」

やっぱり声にはならない声で(私はまだうまく地上のひとと話すことができないのです)男の子を膝に招くと、その子は不安そうな顔を見せながら、けれどぱちぱちと瞬きをしてそれを紛らわせ、きゅっと一瞬目をつぶって私の膝に体を預けました。

その髪の毛や背中をゆっくり撫ぜてあげてから。
ぱちん!
ほんとはおそるおそるだったのですけどそれは隠して、私は男の子のお尻を叩きました。
ぱちん!
見よう見真似というのでしょうか、いま見た印象のままに私は男の子に手を上げます。
ぱちん!
痛いでしょうに。男の子は拳を握り締めてじっと我慢をしています。
ぱちん!・・・ぱちん!
勇敢な男の子は声ひとつ上げませんでした。

泣いてくれた方が、いいのだけれど。そうすれば、この子ももう少し楽になれるような気がします。さっき見えたイメージの中では、男の子は泣いていたのでしたから。
ぱちん!ぱちん!
この子は暴れることもなく、泣くこともなく、じっとぎゅうっと縮こまって。
ぱちん!
私の衣の裾をぎゅうっと握って涙をこらえている子は、やっぱり、とてもとてもいい子だったのでした。(・・・お母さんに何を言ったのだとしても、自分の投げつけたその言葉にこんなに傷ついている子どもは、やっぱりいい子でしょう?)

ぱちん!ぱちん!・・・ぱちん!

男の子のお尻が真っ赤になってしまったので、私は手を止めてその子を抱き上げました。
男の子は私にしがみついて、ようやく涙を零しすすり泣いていました。
そしてか細い、・・・ごめんなさい、という呟きが私の耳に届きました。
私はこの子を抱き締めすぎて潰してしまうんじゃないかと思うくらいに抱いて、この子がもう苦しまなくていいようにと祈ったのでした。

男の子は泣き止んだとき、私を見上げて照れたように笑いました。
その笑い顔は透き通っていてきれいで。
細波の立つ海のような美しさだと思ったのでした。
2006.12.9 up
ちょっと違ったお話を。続きます。
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