薔薇姫の棘 13

・・・・・いまのうち、よね。
朝食後に自分のお部屋に戻ったエリザは、くるりと辺りを見回しました。
さっきまで一緒にいた教師もリリィも、いまこの瞬間はここにいない。
グラスランドはいったん自室に戻っているはずでしたし、リリィは隣の寝室を片付けている。
次の行動をエリザは朝起きたときから心に決めていました。

きいぃ、と重い扉を開けて、そっと外に滑り出る。
無事に扉を閉めて、エリザはふふっと笑いました。
言われたままに授業を受けるなんて、しないんだもの。
グラスランドが来る前も、彼女はしばしば授業を抜け出して来ましたし、 そうして逃げ出したり悪戯を仕掛けたりして、いろんな教師を追い出してきていたのでした。

見つからなかった、よね?
部屋を出て辺りを見回すと、エリザはお気に入りの隠れ家のひとつに駆けて行きます。広い西の庭の東屋のさらに奥。クヌギに囲まれた梅の林。そろそろ小さな実を付けはじめるころですが、コンフリーが手を入れるのはもう数日先のことであるはずでした。

ここまで来たら、一安心。
お庭のいちばん外れだから、グラスランドが探しに来るとしても相当時間がかかるでしょう。
それに、あたしを探しながらここまで来る間には、あの人も疲れていらいらしてるに違いないわ。
それならたぶん、逃げ切れる。
この庭のことならエリザは教師よりもはるかに詳しく知っていましたし、 自分は教師よりも小回りが効くということも、それを生かす逃げ道も知っていました。

まあ、いいわ。
探しに来たら、その時考える。
そうして彼女はクヌギの木の下でわっ、と去年の落ち葉をかき上げました。
からりと乾いてひらひら舞い散る葉っぱにふふっと笑います。

かたちの綺麗な葉っぱとどんぐりを集めながら、たまにちょっと梅林の入り口を気にして。
まあ、でもまだ大丈夫よね。
洋服のちいさなポケットがいっぱいになるまで実を拾い、気に入ったいろかたちの葉っぱを三枚見つけて。そして彼女は一番太い木に背中を預け、とてっと座り込みました。

いいお天気。ツピィ、ピイピィとどこかで小鳥も鳴いています。
風が木立を渡る葉擦れの音がさわさわさわと辺りを包んでいます。
エリザの髪の毛を、時折ふぁさっと揺らすそよ風。
髪をかき上げて空を仰ぎ木もれ日に目を細めたエリザは、不意にかさっという足音を聞きました。

来た。
エリザは梅林の入り口からは見えない側に座っていました。
この木はエリザをすっぽり隠してくれるはずでしたから、すぐに見つかるわけじゃないはずです。
そおっと四つんばいに向きを変えて太い幹の向こう側を窺うと、グラスランドが辺りを見回しながら梅林の奥へと歩いてくるところでした。

逃げようっと。
そう思って顔を引っ込めかけたとき、運悪く教師の目はエリザを捉えてしまいました。
やだ、逃げなきゃ。
ぱっと立ち上がって走り出せば、きっとまだ逃げられたでしょう。
そう思ったのに、そうするつもりでいっぱいだったのに、それなのに。

なぜかエリザにできたことは、もう一度その太いクヌギの後ろに引っ込んで。
そうして膝を抱えて小さくなっていることでしかなかったのでした。


***


「エリザ、おはよう」

グラスランドの足音は、かさっ、かさっと落ち着いたリズムを奏でて。
近づいてきて、そして止まって、それからこの木を回り込んできました。

・・・・・。
この人が走ってきたら、逃げてたのかな。
エリザはつんと教師の反対方向に視線をやりながらそんなことを考えていました。
場違いにのどかな声で挨拶されるのも、居心地が悪い。
だけど、どうしてかその声に絡め取られる気がして動けない。

そう、さっき逃げ出せなかったのは、自分でも分からないけど、きっと。
眼の合った教師が不機嫌な顔、怒っている顔ではなくって、
自分を見つけてすごく・・・嬉しそうに。そんなふうに笑ったからだったのでした。

エリザの反応には構わないかのように、グラスランドはエリザの隣に座りました。
彼女がさっきまでしていたように、この太い幹に背中を預けて耳を澄まし、空を見上げます。
「眩しいね」
木もれ日にやっぱり目を細めた教師。エリザは当然黙っていましたが、
その言葉には内心頷いていたのでした。

ふわっとさわやかな風が流れ、ツピィ、ツピィとさえずりが混じる。
何を言われるんだろうと警戒しつつも、ふたりで黙って過ごす時間が流れていく。
木蔭に優しく零れる陽射しは温かくて、エリザはいまこうしていることが嫌じゃないと、 うっかり思ってしまいそうでした。

わからなくていいと思うのに、分かってしまう。
この人が怒っているか、怒ってないかなんて、絶対にわかる。
どうして怒っていないのかはわからないけど、グラスランドは怒っていなくて、
まるで最初からふたりでお散歩にでも来たかのような穏やかな時間に、
エリザは落ち着かないくせにほっとしているのでした。

ツピィ、ピィ。
ひときわ大きな声が響いて、エリザはそちらに視線を向けました。
「ああ、綺麗に鳴いているね」
教師の声が同じところを向いています。
「なんていう鳥か、知ってる?」
エリザは、ちいさく頭を振りました。

エリザが黙ってでも答えてくれたことに、グラスランドは微笑みました。
「シジュウカラだよ。黒い頭に白い胸。背中に少し黄緑が入る・・・見られるかな?」
彼らが声の方に目を凝らしたちょうどそのとき、ぱたぱたと飛び去る小鳥がいて。
でもそれがシジュウカラだったかどうかは、エリザにはもちろん、グラスランドにも分かりませんでした。

思わず教師を振り返ったエリザの「あれがそうなの?」と問いたげな視線に、
「ごめん、僕にも分からなかったよ」と彼は困り顔で笑い。
そして落ち着いた声で問いかけました。

「エリザ、僕が来るまでは、何をしてたの?」

やっぱり怒ってはいないらしい、でも、もちろん言いたいことはあるらしい声音。
さっきより遠くで、ツイツイと違う鳥が鳴いていました。


2011.10.4 up
のどかでいいのかどうかは問題ですが、のどかな初夏の朝。
二つに切るのはまたも迷ったのですが、今回は分割です。
とはいえ次回のスパは、ささやかです(笑)。週末にでも。
あ、ツイツイ鳴くのはツグミです。
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