薔薇姫の棘 11

「君がどんな子でも。君は僕の大切な子だよ」

教師はエリザを抱き締めて、ゆっくりゆっくり身体を揺らしました。
ゆっくり。
小さな娘をしっかり抱いて、だけど柔らかく、ふんわりと。
この間みたいに、痛い、なんて言わせなくていいようにね。

君は自分のこと、どう思っているのかな。
君は自分について、何を知ってる?
痛いときには痛いって言える、それが君だよね。
山吹を抱えて綺麗だって思う、人に言われるままにするのは嫌だって思う、 ちゃんと自分を持っている。
僕が知ってる君はそういう子だ。

君には、違う君が見えているかな。
もちろん、それでいいんだよ。君は、僕の知っている君よりももっとたくさんの君を知っているだろう。君の知らない、明日の君もある。間違えることだってあるし、正しい選択肢だって選べる。
それが君だよ。
僕の大切な君だ。

胸の中の小さな娘にグラスランドは言葉をゆっくり探して囁きます。
だけど一番伝えたいことは、ひとつひとつの言葉よりももっと奥の、ささやかであたたかい願い。

君をふんわり包めますように。
僕の胸に、君が悲しむことなく身を預けられますように。

それは実はささやかどころでない願いであるのかも知れませんが。
エリザにとってもこの願いが温かいものであるようにと祈りつつ、グラスランドは静かに言いました。

「いまの君を、僕は好きだよ」
明日の君も、きっと。

やっぱり、エリザは首を振りました。
グラスランドは困ったように微笑んで、彼女の目から黙ってあふれる涙をそっとそっと拭いました。

しばしの沈黙。
君は何を悲しんで、何を嬉しいと思うのかな。
悲しいこと、言われたくないことは、そう言っていい。僕はそれを知りたい。
傷つけたいわけじゃないんだ、その必要もないときにね。

けれど教師は、それらの思いを心の底に抱きながらもしばらく時を見計らって、
そして別の言葉だけを口にしました。


「どんな子だって、間違ったことをしたら叱られる。わかるね?」

エリザはそれを聞いてきゅうっと身を固くしました。
「や、やだ・・・」
抱かれていた胸の中から離されるのに抗って思わずグラスランドにしがみついた彼女に、教師は小さく笑ってもう一度エリザを抱いてあげました。今度はさっきより少し強く。

「嫌なことを嫌だったて言えるのは、それも怒鳴ったりしないで言えるのは、いいことだよ、エリザ」
そう言って、それからひと呼吸、しっかりと彼女を抱きしめて。
それから今度こそ、エリザを膝の上に倒してしまいました。

「人に物を投げては、いけないよ」
「・・・・・」
「当たったら危ないからね。お父様に当たらなくてよかったね?」
「・・・・・」

なんにも言わないエリザの髪を撫でながら、グラスランドは問いました。
「何か言える、エリザ?」
「・・・・・」
ぐっと奥歯をかみ締めているエリザ。
それでも、今日はそっぽを向いたりはしていないよね。
君は多分、もういろんなことを分かってる。

言ってごらん、エリザ。グラスランドはそう内心で呟くと、そのまま右手を振り上げました。

ぱしぃん!
「・・・!」
ぱしぃん!

ぱしぃん!
エリザはしばらく口をつぐんでいましたが、 お尻で弾ける鋭い痛みにじきに音を上げました。
「もう、やだぁ・・痛いのに・・!」

ぱしぃん!
「そう、痛いんだね」
淡々と返す教師の言葉は、彼女を苛立たせます。
ぱしぃん!
「当たり前でしょ!もういい!」

ぱしぃん!
「うん、もういい?それから?」
ぱしぃん!
「それから、って何よ!・・・やめてよ、もう・・」
言い返す勢いと、やめて、っていう言葉の中の躊躇い。
止めてあげられないことを、君は知っているよね。
そんなふうに、それからもうちょっと、君が知っていることを僕に伝えてよ。

「言ってごらん。言わなきゃいけないことを、君は知ってるはずだ」
ぱしぃん!

あたしが知ってるはずだ、なんて。
エリザは、確かにグラスランドが求めている言葉を知っていましたけれど。
教師の言い方は癪にさわりましたし、求められるままに言って”いい子”になるのはやはりどうしても嫌なのでした。

「うるさいわよ!知らないったら!止めればいいのよ!」
そんな風に言ったって、やめてくれるわけなんてないってわかっているけど。
ごめんなさいって言わなきゃ終わらないって、わかるけど。
ぱしぃぃん!

「止められないよ。言ってごらん、ごめんなさいって。
それから約束してよ、スプーンを人に向かって投げたりしないって」

思ったとおりの答えが返ってきて、そんなの当たり前なんだけど、だけど。
「やだぁ!・・・だってそんなの、絶対やだ・・・」
ぱしぃん!

「嫌でも。君が嫌だって思っても、約束したくないって思っても。
それでも、それは君がしなきゃいけないことだ」
ぱしぃん!

「・・・・・。やだよぉ・・・」
ぱしぃぃん!

グラスランドの態度は、エリザの知っている答えからぶれることはなくって。
それは分かっていても、エリザはやっぱりそのとおりにすることはできなくて。
だってあたしはいい子じゃない。いい子になんかなりたくない。
お父様にスプーンが当たらなくてよかったとは、思うのに、ね。
そう、エリザは決してさっきご領主や教師を傷つけたいと思ったわけではありませんでした。

ぱしぃん!
「エリザ、」
やだぁ、と泣き続ける少女の言えない苦しさは、グラスランドにも胸を切るように感じられました。
どうしたら言わせてあげられるのかと彼は問い、それから、はっとその問いを心の中で打ち消しました。

僕が言わせるんじゃない。君が言うんだ。


グラスランドは静かに深呼吸をして、言うべき言葉を探し直しました。
「もう一度言うよ、エリザ。君がどんな子でも、君は僕の大切な子だ」

だから何?
もう一度言うよ、の次に続くのはごめんなさいって言いなさいってことだと思ったから。
エリザは一瞬虚を衝かれましたが、グラスランドがここでそう言い出した意味は分かりません。
どう言い返したらいいのかを彼女が判断する前に、教師は次の言葉を続けました。

「そして君が何をしたって、君は君だ。いいことも、悪いことも」

わかるかな。
だから君は叱られてるし、君は謝らなきゃいけない。
食卓でスプーンを投げたのは、ほかの誰でもなくって君だ。
そしてもうしないってことができるのも君だ。
ごめんなさいって言ったからって、君じゃなくなるわけじゃない。
そして君がどんな子でも。そんなことには関係なく、間違ったことをしたら直さなきゃ。

言い終えて、グラスランドはエリザのお尻を優しく撫でました。
痛いのも君だし、言いたくないのも君。だけど、最後には言うのも君だ。
それからもう一度、ゆっくりと手を振り上げます。
ぱしぃぃん!

「痛っ・・!」

ぱしぃぃん!
さっきより、少し間遠な間隔で。だけどやっぱりとっても痛くて。
ぱしぃぃん!
「痛くって。それで僕に言わせられたって思う方が楽ならそれでもいいよ。言えれば十分。
だって言うのは君だから。明日の君も、三分後の君も、やっぱり君だ」
ぱしぃぃん!

「・・・・・。」

ぱしぃぃん!
「お父様を、それから僕を。傷つけずにすんでよかったね。
傷つけたときに苦しむのも、ほかの誰でもなくて君」
ぱしぃぃん!

グラスランドが譲らないのはよくよくわかるから。
お尻が痛くて、だから言うんだって彼の論法に乗せられるのはありかもしれない。
でも。
「・・・・・。」
ぱしぃぃん!
ぱしぃぃん!

「・・・・・。」
ぱしぃぃん!
エリザは、声を絞り出しました。

「・・・・・ちょっと、待ってよ・・・。か、考えるから」

グラスランドは即座に手を止めて、エリザをぎゅうっと抱き締めました。
思わず、加減も忘れて。
エリザは痛い、って思いながらも口にせず、ただ余計に涙が溢れたのを見られないように 顔をグラスランドの服に押し付けました。
このひとは、あたしが考えるって言ったのを喜んでる。・・・・・変なの。

変なの。落ち着かない。でも、わからないでもない。わかりたいわけじゃないけどさ。
さっきグラスランドに謝られて、ふんわり抱かれたときの気持ちとどこかが少し、重なりました。
傷つけたくないって言った。いい子だって、言うのをやめた。
それは、そうよ、ごめんなさいって言ったんだもの。
・・・・・。

「・・・・・。」
お尻は痛い。だけど、だから言うってのは悔しい。だって。
うん、だって、この人がそう言ったから。そんなふうに乗せられるのって嫌、そうじゃなくて。

「・・・・・。・・・う〜・・・」
言いたくないけど。
言いたいんじゃないけど、言わされるのなんてやっぱり絶対嫌なんだけど。

だから言わされるんじゃない、あたしの話。

「・・・・・。・・・」
当たらなくってよかった、とは思うから。投げてよかったなんて思ってないから。
・・・・・。叱られるのはわかる、嫌だけど。

「・・・・・。」

言ったって、いい子になるってわけじゃない。

「・・・・・。・・・・・も、・・もうしない・・・」
それから。
グラスランドの腕の力はまたちょっと強くなってそれからふんわり包まれて。
教師も黙って待っているってことが、エリザベスにはわかりました。

「・・・・・。」
目をつぶって、息を吸って、吐いて。
いままでだって言わされたことあるんだからさ、だからって何が変わるってわけじゃないのよ。

「ごめんなさい!」

はい、おしまい!
そして間髪いれず、エリザはそう言いはしましたが、グラスランドも
「そうだね、お仕置きはお終い、よく言えたね」
と言いはしましたが。

グラスランドは優しくエリザを抱き上げて、きゅうっと包んだ腕の中で、
「よく言えたね」と「好きだよ、僕の愛しい子」と繰り返し囁きました。
いい子だね、って言いたいけど言わなかったってこと、エリザはようく分かってて。

ごめんなさいって言えばお終いじゃないってことに気付かない振りをするのって、難しい。

そりゃ別に、わざわざスプーン投げるつもりなんてないし、「おしまいじゃないでしょ」なんて言われたわけでもないんだから、構うことではないのだけれど。
・・・。
いい子になんかならないってやっぱり強く思いながら、もう一方でそう思ってもいるエリザを。
グラスランドはどこまで気がついているのか分からないけれど、優しい笑顔で眺めるのでした。


2009.7.28 up
思いの外長くなりました。軽くなかった・・・。
そしてそれはつまり、予想よりお仕置きも厳しかった(>_<)。

あ、ご領主にはあとで謝りに行きました。一度も二度も同じだから、ね。
(って内心の言い訳ぐらい、目を瞑ってあげて。)
次作は一年後・・・にならないようにしたいところです。

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