薔薇姫の棘 9
「エリザ」
ぱしぃん!
「嫌!あんたに謝ったりなんか、しないんだから!」
謝ることの何がそんなに嫌なのか、エリザは自分でもはっきりとはわかりませんでした。
けれど、グラスランドの言うままになりたくない、その望みは激しく胸の奥でざわめいているのです。
君は誇り高いよね、エリザ。
グラスランドは内心で呟きました。
「エリザ、僕は僕に謝ってほしいとは言っていないよ?」
ぱしぃん!
「う、うるさいわよ!・・・」
そうして声に出した言葉に、言い返しながらもエリザが怯んだのがグラスランドには分かりました。
教師でなければ相手は誰か、もちろんエリザは悟ったはず。
ぱしぃん!
「エリザ、苦しい?」
「・・・・・。」
エリザは肯定はしませんでした。けれど、反論もできませんでした。
きのう「苦しいね?」って聞かれたことを彼女は思い出しました。
それを、内心自分は認めたことを。
だからってまた謝ったら。
そうすることがエリザはたぶん、無意識のうちにも怖かったのです。
毎日このひとの言うなりになっていたら、自分はどこへいくのか、わからない。
きのう、すこしほっとしたのは、ほんとだけど。
けど。
いまだって、胸の中がいがいがとげとげしているのもほんとだけど。
けど。
ぱしぃん!
それでも、あるいはそれだからこそ謝りたくなくて、エリザは奥歯を噛み締めました。
ぱしぃん!
グラスランドじゃなくてリリィが相手だと思うと、すこし、揺れる気持ちがないわけじゃないのだけれど。
そんなエリザに教師が次に掛けた言葉は、きのうと同じものではありませんでした。
だってグラスランドは、ひとつ先を願ったのだから。
「でもね、エリザ。君が痛くて苦しいのは、君のせいだ」
ぱしぃん!
「・・・・・。」
その言葉を、エリザは否定できませんでした。
いえむしろ、それは苦しいってことそれ自体よりも肯いやすい事実でした。
誰かのせいで苦しいなんて、嫌だもの。自分のせいの方が、よほどまし。
ひとにどうこうされるのは、すごく、悔しくて嫌なことだから。
グラスランドのその言葉を、エリザは否定しようと思わなかったのでした。
だからって、謝ろうと思ったわけじゃありませんけど。
ぱしぃぃん!
君は誇り高いよね、エリザ。
それは素敵なことなんだよ。
そのせいで謝れないのも知っているけど、それでも。
君は誇り高い。だからこそ、君は先に進めるよ。大丈夫。
ぱしぃん!
グラスランドは言葉を選んで語り掛けました。
「自分のせいでもね、こんなに嫌なんだよ。
ましてや自分のせいでもないのに苦しいなんて、嫌だろう?」
エリザは身じろぎもしないできゅっと口を引き結んでいます。
嫌だ、うるさい、って言えたらいいと思うのに。
けれど、なぜかそうできなくなってしまった自分がもどかしいくらいでした。
低い、穏やかな教師の声が響きます。
それもざわざわして落ち着かない。痛くされてるのに、静かなのなんて、ずるいわ。
ぱしぃん!
「だから人を傷つけたら、謝らなければね。
謝るっていうのは、その痛みの咎が自分にあるって認めることだ」
すこし難しいかな、エリザ?
けれどね、わかってほしいんだよ。
相手は君と同じように悲しみ喜ぶ、ときに傷つくひとだってこと。
ぱしぃん!
「・・・痛い、」
「うん、知ってるよ。 君は?」
ぱしぃん!
「はぁ?」
エリザが不審の、いえ不満の声を上げたのは無理もないことでした。
「君が痛い思いをしてるってことを、僕は知ってるよ。
ねぇ、エリザ、君は、何を知ってる?」
ぱしぃん!
「何が言いた・・・」
同じ問い掛けを繰り返されたところで、エリザにとってそれはやっぱり意味不明でした。
何が言いたいの?そう言い返そうとしたエリザに構わず、グラスランドは変わらぬ口調で侍女に声を掛けたのでした。
「リリィ、怒ってる?」
「いえ、グラスランド様!そんな、決して!」
そんなこと、知ってる。それなら、知ってる。
たぶん、知ってた。・・・たぶん。
リリィが怒っていないことを、エリザは、知っていました。
リリィはあたしに優しい。あたしが我儘言ったって、そうそう怒ったりしない。
けれど、自分がすこしほっとしたことも、エリザはリリィの言葉を聞いて初めて気がつきました。
怒ってなくて、よかった。
・・・・・。
むかつく、けどさ。
グラスランドの問いは、何だか、すごく嫌だったのですが。
・・・怒ってたかも、しれなかったんだ。
気付かされたから嫌だってわけじゃないと思うけど、でも。
「優しいね、リリィ」
エリザが途惑う間にも、グラスランドの穏やかな声は続いていました。
「エリザ、リリィは怒っていないって。良かったね」
「うるさいってば、そんなこと、」
知ってるわ、と言いたかったのに言えなかったから。
「そんなこと、あんたに言われることじゃないわよ!」
それはそのとおりでした。
そうだね、とグラスランドも静かに返しましたから。
けれど教師は、エリザの望むとおりに怯んだのではありませんでした。
「ねぇ、リリィ。悲しかった?」
「・・・え、あの、それは・・・」
今度はリリィは即答することができなかったのです。
そして、エリザはその続きを聞きたくありませんでした。
リリィのその態度自体が何より雄弁な答えであることを、賢いエリザは知っていましたから。
次の瞬間、いいえ、とリリィは答えてくれるかもしれない。
けれどそれすら自分に気を遣ってであることを、どうしようもなく彼女は知っていたのです。
言われたくない。それを、リリィの声で聞きたくない。
ましてグラスランドに口を挟まれるなんて冗談じゃない。
自分で言った方がまだましで、思わずエリザは叫んでいました。
「うるさいったら!そんなの、言われなくたって分かってる!
あたしが傷つけたんでしょ?!わ、悪かったわよ」
ごめんなさい。
ちいさく、小さくエリザの口が動いたことを、耳で聞いたのではなくて、
それでも教師と侍女は確かに知りました。
グラスランドはぎゅっとエリザを抱き上げて、その肩越しにエリザはリリィが涙ぐんでいるのを見てぎょっとしました。
「ちょっと、リリィ、何で泣くのよ?!」
「僕の出る幕じゃなさそうだね」
グラスランドはそう言って笑うと、もう一度強くエリザを抱き締めてから彼女をリリィの胸に渡しました。
「え、あの、」
躊躇いつつも優しく包まれる腕の中。
グラスランドは微笑んで部屋を出て行きました。
ぱたん。
扉が閉まった音を聞いてから、エリザはわずかに身体をリリィの胸に押し付けて。
遠慮がちな腕が次第にきゅうっと確かに抱き締めてくれるのに、エリザはこっそりすこし泣いたのでした。
2008.6.29 up
後半戦。書きたいことはいっぱいあって、ひとつづつ進んでいきたいところです。