薔薇姫の棘 8

「おはよう、エリザ」
グラスランドがエリザと出会って三日目の朝。
今日は教師がエリザをベッドまで迎えに行く必要はありませんでした。
グラスランドが声を掛けたとき、エリザはリリィの案内で食堂に向かうところでしたから。

「おはようございます、グラスランドさま」
「おはよう、リリィ」
つーん、とあらぬ方を向いて何も言わないエリザを見て、リリィの方がおろおろとしています。
グラスランドはそんなリリィに笑いかけると、エリザの眼の高さに屈み込んでもう一度言うのでした。
「おはよう、エリザ」

瞳を合わせて、ゆっくり噛み締める声。
エリザはグラスランドと眼が合ったことを意識しながら、きゅっと唇を引き結んで視線を外しました。
教師が言わせたがってることをそのまま言うなんて、何かすごく悔しいから。

叱られるかも、って思ったけれど、エリザはどうしようもできませんでした。
噛み締めた奥歯を開くことなんてできない。
すこし身を固くして床を睨みつけたエリザ。立ち上がった教師はくしゃっとその頭に手をやりました。

「・・・・・。」
伸ばされた手が怒っているのかそうじゃないのかなんてことは誰だって絶対にわかります。
それは思いの外優しくて、エリザはちょっとびっくりしました。

ついつい見上げたグラスランドの顔は確かに怒ってはいませんでした。
大切なものを見るように。けれどすこし寂しそうに。
いえ、寂しそうにだったのか悲しそうにだったのか、エリザはその一瞬で見分けることはできませんでした。
つきん、と胸が鳴ったのにエリザは気がついて、慌ててまたそっぽを向いたから。
温かくて、すこし寒い。彼女はそう思いました。

ちょっとだけ、ほっとしたかも。
でもちょっとだけ、悲しかったかも。寂しかったかも。
ううん、どちらでもないのに、でもちょっとだけ、やっぱり胸が痛いかも。

挨拶をする気はなかったけれど、エリザは奇妙な感覚を持て余しました。

「お嬢様・・・。あの、」
けれどこの同じ瞬間、口を開く気はないエリザの様子を見てうろたえたのはリリィでした。
リリィはとっさにグラスランドに向かって言っていたのです。
「あの、朝わたくしにはご挨拶くださいましたのに」

「リリィ、うるさいわよ!余計なこと言わないで!」

・・・・・。
エリザが思わずむっとして怒鳴ったあと、嫌な沈黙が一瞬流れました。
リリィが自分を庇って教師に取り成してくれようとしたことに彼女は気付いたのですけれど。
そんな余計なこと言ってくれなくてもいい。
そもそも別にグラスランドの望むような子どもでいる必要なんてない。
うん、むしろそんなふうにはなりたくない。

「あ、申し訳・・・」
「君は謝るようなことをしたかい、リリィ?」
続いたのは謝ろうとしたリリィの声と、それを遮るグラスランドの声。
もう一度屈み込んで、グラスランドの手は今度はエリザの腕をきゅっと掴みました。
うん、その手が怒ってるのかどうかなんて、絶対に、わかる。

「エリザ、謝るのは君だよ。そういう言い方はよくないね」
「何よ、うるさいってば!黙りなさいよ!」
「残念だけど、それはできないよ。謝りなさい」
「誰がっ!」

エリザはグラスランドの手を振りほどこうとしました。
「あの、私は、そんな」
お嬢様に謝って頂くなんて滅相もございません、そう言おうとしたリリィは再びグラスランドに今度は視線だけで遮られて。
そして教師は暴れるエリザの腕を手放して彼女をあっという間に抱え上げてしまって立ち上がったのでした。

「やだってば、離しなさいよ!」
「君はもう、どうすればいいか知っているだろう?エリザ」
「嫌!絶対言わないわよ!」

とにかく教師の言うままにはなりたくない。エリザの小さな胸はその気持ちでいっぱいでした。
さっき感じた温かさと寒さは、どこかに消え失せてしまっていました。

この部屋、空いてるかな。グラスランドはリリィに無言で確認を求めると手近な空き部屋に滑り込んでしまいます。ばたばたと暴れるエリザとおろおろとするリリィ、そして淡々と話すグラスランドの三人にとっては、その部屋は広すぎるくらいでした。

部屋の中ほどのソファに掛けたグラスランドは、エリザの腕を掴んだまま一度彼女を立たせました。
「エリザ?」
教師の呼びかけにエリザはふいと余所を向いて、拒絶を示します。
「・・・そう。じゃあ仕方ないね」
何をされるのかは分かっていましたけれど、エリザは受け入れることも謝ることもできませんでした。

ぱしぃん!
グラスランドは膝の上で少女のちいさなお尻を露わにし手を上げます。
ぱしぃん!
「痛いってば!いやよ、いや!」
ぱしぃん!
「やだぁ!離してよ!」

ぱちぃん!
「あの、グラスランド様、どうか、」と躊躇いがちに言うリリィの声も耳に入っています。
でももちろん、グラスランドは手を止めるわけにはいきませんでした。

ぱしぃぃん!
「痛いわよ!もう、バカ!」
「どうして痛いのか、考えている?エリザ」
ぱしぃん!
「うるさいってば!どうでもいいでしょ?!」
ぱしぃん!

「それじゃあ終わってあげられないんだよ。何て言えばいいか、わからない?」
「いやよ!絶対あんたなんかに謝ったりしないもの!離してよ!」
ぱしぃん!
「エリザ」

グラスランドはちょっと息をつきました。
僕が謝罪を望んでいることを、エリザはちゃんとわかってる。
ごめんなさいって言葉もきっと覚えているでしょう。
それはそれだけで、ほんとはすごいことなのでした。

君はいい子だよ、エリザ。だからもうひとつ、先に進もう?

ぱしぃん!

2008.6.21 up
前半ちょっと短いでしょうか。今日は夏至、ひどく久しぶりの薔薇姫ちゃん。
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