薔薇姫の棘 3
おや。
おしおきの後グラスランドはエリザを抱いたまま、内心で少し首を傾げました。
グラスランドはエリザを慰めるようにあやすように抱いています。
そうしたとき、多くの子どもはぎゅっと抱き返してくるものです。少なくとも、昔のグラスランドはそうでした。また、彼がこれまでに教えた幾人かの子どもたちも。
エリザはグラスランドの腕から逃げ出そうとはしませんでしたが、ぎゅうっと自分の身を固く縮めているのでした。
・・・可哀相に。
たぶん、グラスランドがそんなふうに思っていると知ったら、この娘は顔を真っ赤にして怒ることでしょう。人には弱みを見せたくない、懸命に鎧を纏っている娘。
それにしても抱かれて抱き返せないことはグラスランドからみれば不幸というほかありませんでしたし、まだ十にもならない幼いエリザがどこでこんなに大きな孤独を抱えたのか、よほど慎重に考えなければならないと思うのでした。
「あたしは、エリザベス。・・・よろしく」
それだから、エリザが小さく返したかすれ声が、グラスランドには嬉しくてならなかったのです。この子はまだまだ自分に心を開いてくれてはいないけれど、気持ちを交わす通路は閉ざされてはいない。
グラスランドはさらにぎゅうっとエリザを抱きしめました。
「・・・痛い。」
「ああ、ごめんごめん。これくらいならいい?」
つん、と抗議の声が上がり、グラスランドはふんわりエリザを抱きなおします。
返事はありませんでしたが、エリザのひそめた眉が緩んだのを見てほっと一息。
それから気をつけて彼女の下着とスカートを戻しました。
エリザ、僕は君のことをもっと知りたい。
「エリザ、しばらくは腰掛けてお勉強するのは無理だろうから。
だからこのまま、庭に行こう」
「え?」
驚くエリザに構わずに、グラスランドはエリザを抱いたまま中庭に下りました。
ミズキの下で木を見上げて言います。「エリザ、この木の名前を知ってる?」
つん、とエリザが顔をそむけるのを見て、自分で言葉を継ぎました。
「これはハナミズキだ。海の向こうから渡って来た木なんだよ。ここにあるのは白い花だけど、桃色の花が咲くのもある。見たことがあるかい?」エリザは首を傾げます。グラスランドは辺りを見回すとずんずん奥へと進んでいきました。中庭といっても薔薇館のこと、なかなかどうして広いのです。
「あった。これもハナミズキだよ。色は違うけど、さっきと花や葉っぱの形が同じだろう?」
エリザは応えませんが、確かに木を見ている素振りがありました。今日のところはグラスランドはそれで満足です。
「この下に咲いているのがシャガ。東洋の花だね。ちょっと湿った場所が好きなんだ。だから木蔭なんかに群れて生える。こっちの黄色い花は八重山吹。実が生らないの、知ってる?」
小手鞠、大手鞠、花蘇芳に沈丁花。芥子に菫、水仙とチューリップ。
春爛漫、少し遅れていっせいに来るこの地の春。その土地柄だけでなく庭師の腕もあるのでしょう、ここでは様々な花が見事に咲き誇っていました。
花ごとにグラスランドは立ち止まり、何事かを語ります。特長や来歴、神話に花言葉。エリザの知っている事柄も、知らない事柄も様々に。いつも見ている花の向こうにいろんな物語があるのを聞いて、言葉を返さないながらエリザは目を丸くしていました。
「やっぱり花の時期がいちばん覚えやすいからね。夏になればまた違う花がいっぱい咲くよ、この庭は。たいしたものだね」
君ひとりくらい隠してしまうしな、と言って笑ったのは冗談のつもりなのでしょう。エリザは笑ってあげはしませんでしたが。
「知っている花が咲くと嬉しいものだよ、エリザ。この木は何か、知ってる?」
そうしてぐるぐると庭を回って、グラスランドがはじめて立ち止まった花のない茂み。
けれどエリザはそれを見るなり首を振って言いました。
「知らない!それ、嫌いっ!」
予想外の強い調子にグラスランドは驚きましたが、それを表に出しはしませんでした。
エリザの嘘も咎めませんでした。
嫌い、と言うからには、これが薔薇だとエリザは知っているのです。
「おや、それは申し訳なかった。うっかりプレゼントの花束なんかに入れないように気をつけなくちゃ」
軽い調子で流すと、エリザがぐっと身を縮めているのが感じられました。
「この木のほうがわかりやすいかな?アジサイは嫌い?」
少し離れたやはり花のない茂みで語りかけると、エリザはそっと首を振りました。
「そう?よかった」
グラスランドが話すにつれてすこしづつエリザの固く縮められた腕がほぐれていきます。
安堵しつつもグラスランドは少し顔を曇らせました。エリザには悟らせないように注意しながら。
娘が薔薇を嫌っていることはよくよく分かったのですが、しかしここは薔薇館。表庭はもとよりこの中庭にも温室にも、屋敷の中の意匠にもあちらこちらに薔薇があふれているのです。
その中で暮らすのは辛いことでしょう。
そもそもあの激しい嫌い方は、花そのものに対するものとは思われません。
この花が思い起こす、何か。
それはこの子の抱える孤独と同じ根を持つものなのかどうなのかグラスランドはいま判断することができなかったのですが、ずっと先でもいいからいつかこの子が傷つかずに薔薇を眺められるようになりますようにと彼は祈りました。
こうしてエリザとふたり庭を歩き回っていると、もうお昼時。
「あ、そろそろお昼かな。太陽が真南にあるよ」
「?」
エリザにはグラスランドが何を言っているかわかりませんが、彼は気にしてはいないようです。エリザを抱いたまますたすたと食堂に向かっていくので彼女は少し慌てました。
「いい、歩く」
グラスランドは笑ってエリザを下ろしてくれました。
昼食の席でエリザは大変おとなしくしていました。
椅子に座ればお尻が痛いのを父親や侍女たちに気づかれないように必死で、それ以外のことに気を留める余裕がなかったというのが実際のところですが。その日の食卓に嫌いなメニューがなかったことは幸いでした。「新しい先生はどうかね、エリザ」なんてご領主の問いにも上の空の生返事ではありましたけれど、刺々しい言葉を返したりはしませんでした。
自分のしたことながら痛々しくて(だってグラスランドは生徒におしおきの後まで痛みを感じてもらいたいわけではなかったからです)、グラスランドはよっぽど「クッションを持ってきてもらおうか?」と言いたかったのですけれど。
エリザがそれを望んでいないことは明らかだったので、賢明にも押し止めました。
その代わり、勉強部屋に戻ってふたりきりになると彼はエリザをまた抱き上げて、「お行儀良くしていて偉かったね」と彼女をねぎらったのでした。
2007.4.21 up
ゆっくり進むというか、進んでませんね^_^;。2の翌週にupできればよかったのですけど、まあいろいろ。
この先もお庭は出てきますが、その植生は異国のものではない(だって書けないもの(^^ゞ)ようです。