相対論的こころ

兄貴の大学は、7月の第一週にはもう夏休みになるらしい。中学生の俺はもちろんまだ休みには少し早い。それどころか6月終わりにあった中間テストの結果が揃って、ちょっとへこんでる時期だったりして。そんなのもちろん、兄貴のせいじゃないんだけどさ。

「高天?元気にしてた?」
大学入学と同時に家を出た兄貴の部屋は俺が貰ったから、休暇で兄貴が帰ってくると二人でひとつ部屋の共同生活になる。兄貴の話を聞くのは嫌いじゃないし、特段うるさいこと言うわけじゃないし、それにも不満はないんだけど、ここんとこずっと俺自身が苛々してるから。
兄貴と一緒に過ごしてて、それに気づかれるのはうれしくない。

「ん?別に、変わんないよ?」
軽い返事を返して、ラジオを聞きながら雑誌をめくる。
兄貴はすこし首を傾げたようだったけど、無視。っていうか、勘がよすぎるって。

まあ実のところ兄貴は勘がいいだけじゃなくて、成績もよかったりする。
俺なんかよりは、はるかに。
いまも大学の理学部で、物理だか宇宙だか何だかよくわかんないことをやってる。
その話を聞くのは結構好きだけど。
あ、やば、そんなこと考えてると勘付かれる。たぶんそれが、俺のここ最近の苛々の原因だから。
だめだ、今日はもう寝てしまおう。

兄貴にそう言ったら、それじゃあ、と、兄貴は部屋の机を借りていいかどうかを聞いてきた。なんだかんだと課題があるんだそうだ。大学生でも宿題ってあるんだな。帰省したその日くらいゆっくりすればいいのに、と思いつつ、もちろん俺はいい弟の返事をした。「もともと兄貴の机なんだから、好きに使いなよ」ってさ。わざわざ断ってくれなくてもいいんだけど、まあ、いまは俺の部屋だってことを尊重してくれるいい兄貴なわけですよ、うちのお兄ちゃんは。

そんなやり取りのあとで俺が風呂から上がってきたら。
兄貴は俺のことを待っていた。

「高天、これだけど」
「あ〜っ!」

やば、俺ってすげえ馬鹿。兄貴がいま手にしてるのは、俺の中間試験の答案。
そういえば、机の上に放りっ放しだったってこと、いま思い出した。
見せたくなかったし・・・見たくなかったから、うっかり忘れてたんだ。

「えっと・・・、中身、見た?」
そりゃ見ただろう。机の上に放ってあったんだし、それを片付けなきゃ兄貴は机を使えないんだから。日記や手紙や、封筒に入ってるとかならともかく、ひっくり返せばそれで十分見えるんだから。

「悪いけど、見た。・・・・高天、英語でなんかあった?」
「・・・・・・別に」
うわ、だから鋭すぎだって・・・って、そうでもないか。そこにある5枚のうちで、英語だけ段違いに悪いんだ。

「別にって・・・。去年あれだけ得意だったものが、急にこんなに変わるなんて思えないけど。どうしたの?」
「どうもこうもしてないってば!俺は兄貴ほど頭よくないんだからさ、そんなもんだよ、放っといてくれよ!」
兄貴は心配して聞いてくれてるってことはわかってるけど、気に障るのはしょうがない。それで思わず強い調子で答えてしまって、そして、言わなくてもいいことを言ったことに気づいた。

「高天?・・・・・それが原因なの?もしかして担当、川本さん?」
「・・・・・。」

無言は、肯定と同じだなんてことはわかってた。でも、しれっと否定はできなかった。
川本のヤロー、兄貴の年からあの学校にいるのか。って、そりゃそうだよな。俺と兄貴を比べるんだから、兄貴のことだって知ってるに決まってる。

「あのひとの悪い癖、変わってないんだ・・・・・ちょっと、高天?!」
信じられない、とか小さく呟いた兄貴は、まっすぐこっちに向き直った。
め、めずらしい。兄貴が怒ってる。って、矛先こっちに来てる?
「え、あ、ハイ」
何か丁寧な返事しなきゃいけない勢いだよ。

「なに言われたの?そうだね、僕ならそんな間違いは絶対しなかったのにねぇとか、これぐらい余裕でできたのにとか、少しは見習ったら、とか?挙句の果てにはお兄さんとは比較にならないわねぇ、とか」
・・・え〜と、あの、何でそんな見てきたように。ほとんどどんぴしゃなんだけどさ。
引き続き沈黙は肯定と取られたらしい。
「あの人、雪菜にも同じこと言ったんだよ。それも、僕の目の前でね」
う、うわ。
で、兄貴、そのとき切れたわけね。いまみたいに。

俺は思わず川本サンに同情した。むかつくヤツだけど、怒ってる兄貴に太刀打ちできるとは思えない。そのときの兄貴が中三にしても、高校生にしても、だ。
「高天、異論があったら聞くけど?」
と、俺の表情を見てかちょっとだけトーンが下がったらしい兄貴は、聞いてきた。
や、俺首振るしかないし。

「で、高天。それに腹を立てて英語の勉強に手をつけなかったわけ?」
・・・・・。ちょっと違う。苛々したのは確かだけど、腹を立てたわけじゃなくって。
「だって、兄貴みたいには無理だから、どうせ」
「高天?!」
びく。

俺は思わず首をすくめた。兄貴にひっぱたかれるかと思ったから。
と、さすがにそうはならなくて、兄貴は握りこぶしを少し震わせていた。
あ、自制してる。

このあたり、さっきもそうだけど、うちの兄貴はいいお兄ちゃんだと思うんだよね。
ああむかつくことを外野から言われても、兄貴自体にはむかつかないのもそのせいで。
だいたい兄貴、去年1年勉強も結構面倒見てもらったけど、俺ができないとはかけらも考えてないからなぁ。そう考えてくれた方が楽なときも、あるんだけど。

兄貴はひとつ、深呼吸をした。
「無理、もどうせ、も要らない。高天はできるだけのことをしたの?」

そう真っ直ぐ聞かないでよ。答えは我ながらわかっちゃいるけど(もちろん「いいえ」だ)、それは答えたくない。どうせやったところで・・・うわ、堂々巡りだ。
「どうせやったところで、兄貴には敵わないし」
却下されることはわかりきってはいたけれど、とりあえず素直に言いたいことを言ってみた。

兄貴は肯定はしなかった。否定もしなかった。
「それで、やったの?」
そしてもちろん回答としては却下されていて、兄貴は同じ質問を繰り返した。

否定してくれなかったこと、悔しい、かも。悔しい?何で。
そう言ったのは俺で、それを否定してくれないから悔しいなんて。
いや、自分で言ってても人から言われたら悔しいことはあるよ、確かに。
でも、これってそういうことだろうか。兄貴にいま「そんなことないだろ」って言ってもらうような。言ってくれたら嬉しい?「そうだね」なんて言われたら結構ショック。や、兄貴はそんなことは言わないけどさ。兄貴、どう思ってるんだろ。
合わせた兄貴の目は、真っ直ぐこっちを見ていた。

いろんなことを一瞬に考えた俺の頭の中は、兄貴と目が合った瞬間、白くなる。
剣呑な目。
兄貴は意見を言ってるわけじゃない。俺に質問をしてるんだ。

兄貴の質問に、答えをそらせたり嘘をついたり、それはできるんだけど、できるんだけど、したくない。まさにさっきそうだったように、見逃してはもらえないっていうのもある。それにそれより、もっとこう、兄貴が俺にちゃんと向かってくるから。だからこの質問も、真っ直ぐすぎるんだ。
兄貴は俺についてだけ、聞いてる。兄貴との比較なんか知ったこっちゃない。

「あの、えっと、・・・シテマセン・・・」

言っちゃった。
言って自分で確認する。うん、確かにしてない。どうせやったところで、兄貴みたいには無理だと、それは実際そう思うんだけど(そんなこと言ったらまた怒られるな)、兄貴のレベルがどうかはともかく俺のレベルでの精一杯もやってない。何にもやる気にならなかったもん。
・・・・・そんなことも、兄貴が聞いてくれなきゃ気がつかなかったんだけど。

「あんな人のために高天が損をするなんて、全く納得いかないっていうか、我慢ならないんだけど。いい?」
「・・・ハイ」
一応優等生のはずの兄貴が、あんな人呼ばわりをし続けるあたり、よっぽど頭に来てるんだろうと思う。
まあ確かに、昔、目の前で切れたんだったら兄貴のことだ、言いたいことは言ったんだろうし。それでも川本サンが変わらないってことは、兄貴にとってあの人を見切るのに十二分なんだろう。・・・俺に言わせると、兄貴の成績が良すぎたって点で情状酌量の余地はあると思うけどね。ちょおっとインパクトがありすぎたんだよ、兄貴。

「僕は自分が大切な弟の邪魔になるのは願い下げだから。約束して。
高天のできるだけのことをするって」
「・・・ん」

俺の短い返事に、ようやく兄貴は笑った。
「あの人のせいで、大変だと思うけど、頑張りなよ」

で、こんなことを付け加えた。
――――だいたい、英語は高天の方が得意なんじゃない?高天、話すのも旅行も、それに無謀に試してみるのも好きだろ?
今はまだ年の功があるから僕も教えてあげられるけどさ、英語って高校に入ればもう習うことって大学とそう変わらないんだよ。大学の方がひたすら量が多いってくらい?だから個人差の方がよっぽど大きいんだよね、その頃にはすぐ抜かされちゃいそうな気がする。
物理や地学はもちろんいつまで経っても負ける気ないけどさ――――。
と、その台詞を聞いて、ふと俺は思った。

「兄貴、もしかして。川本先生のせいで、今でも英語嫌いなの?」
兄貴はちょっと目を泳がせて、苦笑いを返した。
沈黙は肯定と同じだってことで、いいんだよね?

「兄貴、・・・だめじゃん!」
俺たちは二人で大笑いをして、その日は俺はさっさと寝た。
でもってもちろん、次の日から兄貴は英語の勉強をみてくれたりしたのだった。


2007.09.08 up
いろいろやってみたんですけど、どうしてもスパが入らなかった、という。m(_ _)m
次回は同じネタの雪菜ちゃん編です。今度はスパがあるはずです(^^ゞ
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