誰かの仕事(後)
「母さんを悲しませた分、父さんにお仕置きしてもらってらっしゃい」
え?
「やだっ!」
考える前に思わず言ってしまった。

や、考えたってやだよ、それ。僕はもう一度言葉を連ねた。
「・・・やだよ。母さんに叱られるのは覚悟してたけど・・・」
「でも母さんの膝に乗せるには、あなたはもう大きすぎるわよ?
昔みたいに手を引いて、父さんのところに連れて行ってあげましょうか?」
う・・・。そりゃあ確かに、昔はそういうこともあったけど。

母さんと父さんの分担ってよくわからなかったけど、何度か父さんに引き渡されたことがある。父さんのものを壊したときとか、母さんがすっごく怒ってて、手加減できないかもって自分で心配してるようなときとか。
「・・・母さん、もしかしてすごく怒ってる?」
母さんは苦笑して、僕の頭をこんと小突いた。
「まあ、怒ってないといえば嘘だけど。ばかね、嫌がらせで言ってるわけじゃないのよ?
どっちにしたって、父さんと話をしないわけにはいかないでしょ?」
「・・・でも。父さんには僕は何も言ってないよ」

ちょっと沈黙が流れた。

「ほんとに?」

僕は少しだけうろたえる。けれど反論する。
「だって母さんだって、さっき認めたじゃんか。父さんが何もしてないのは、ほんとだって」
「ええ、否定しないわ」
「じゃあ」
言いつのる僕に、母さんは首を振った。
「それは事実だけど、祐樹、あなたはなぜそれを言ったの?」

なぜ?

「・・・・・。」
何故だろう。とっさに言い返す言葉は出てこなかった。
まっすぐ答える言葉も、出てこなかった。
「だって、父さんが何もしてないのはほんとなのに」
とりあえず呟いてみるけど、母さんの質問の答えになってないことは自分でもわかってる。
情けないくらいか細い声になったから、僕に自信がないってことは母さんにもわかっただろう。
母さんは何も言わずにぼくの次の言葉を待っていた。

「・・・。僕だけ、」
探して、言いかけてまた止める。言いかけた言葉は、「僕だけやるのは不公平だ」で。母さんにそんなこと、言えはしなかった。僕だけやらないのが不公平で、さっきそれを謝ったはずだった。
僕だけじゃない。父さんがやらないのだって、不公平なんだけど。
父さんがやらないから、僕もやらない。・・・そんなこと、どう考えても間違ってるって、ちゃんと考えればわかる。

でも。でもでもでも。父さんがやらないのだって、不公平だ。

僕はもう一度試みる。
「母さんにやらせたいわけじゃないんだけど。でも、父さんがやらなくて、僕だけやるのは不公平だよ」
「そうかもしれないわね。それで?」
母さんの答えは一応肯定だった。でも、それで、って言われても。
それで?

この話には確かに続きがある。だって、食器はまだ流しにあるんだから。
それで、僕はどうしたいんだろう。

ちょっと考えて、僕は肩を落とした。僕の言ってることの帰結は、父さんと一緒に食器を洗うこと。さっき僕は雪菜にもそう言った。
でも実のところ、どうせやらなきゃいけないんなら、ひとりでやってしまったほうが楽だ。父さんといま、顔を合わせたくない。
まったく、どうかしてる。なに言ってるんだろう。

ほんとは、自分が何を言っているのか、気づいてしまった。
要するに、父さんは言い訳に過ぎないってこと。自分がやらない責任を、父さんに押し付けてること。

言いたいことは確かにある、父さんがやらないのは不公平だって。
でも、それを自分がやらない理由にするのは無理だ。だったら、何も言わない方がいい。
僕がやらないことを叱られるのは、それもひどい言い方をして、責任転嫁までしてやらないことを叱られるのは、どうにも仕方なかった。

だったら、することは二つに一つ。
どっちもやらなきゃいけなくて、どっちを先にするかって問題だ。

「母さん・・・先に食器、洗っちゃってもいい?」
「ひとりで?」
う・・。まあ母さんの質問は当然だよね。ひとりで洗いたくなかったからあのままにしてあるわけだし、出て行く前に父さんは、二人で、と言ったから。
でもまだ僕は、父さんの前に立ちたくない。
「ひとりがいいけど・・・だめ?」

母さんは少し考えたみたい。間を置いてから返事があった。
「母さんとしては、二人にお願いしたいわ。だめ?」
同じ言葉を返されて、今度は僕が考える。母さんは、僕だけじゃなくて父さんもすべきだって考えてる。そのこと自体は嬉しかった、いま父さんと顔を合わせたくはないんだけど。
僕は大きな溜息をついた。
「はああ。わかった。・・・やだけど。でも、わかった」

母さんは、もう一度僕を抱いた。暖かい。やだけど、やらなきゃいけない。そんなことはむかしから時々あって。そんなとき母さんはいつもこうして黙って手伝ってくれたこと、懐かしく思った。

「父さんは、書斎にいるわよ。一緒に行く?」
僕はあわてて首を振る。手を引いてもらうような歳じゃないし、叱られてるところを見られるのって、やだよね。
母さんは笑って僕の髪をもう一度撫でた。
「いってらっしゃい」
言葉はシンプルで、はっきりしていた。僕は立ち上がる。
「うん」
噛みしめるように、返事をした。



書斎の前で立ち止まる。入りたくない、そんな気持ちは何度も何度も味わったことがある。
ノックをしかけて、やめる。「父さん、入るよ」と声を上げた。
ああ、とドアを越えてくぐもった返事が聞こえた。

父さんは、ソファーに腰をかけていた。テーブルの上には、閉じた本が置いてある。
読み始めたけど、読み続けられなかった、っていう感じ。
ああ。僕の数学とおんなじだ。

僕は父さんの前に立って、言葉を探す。と、そしたら。
僕が何かを言う前に、父さんが僕をソファーに座らせて、口を開いた。

「祐樹、すまない」

え?
ううん、ぜんぜん予想してなかったわけじゃなかった。でも、驚いた。
「やだよ、謝るなんてずるい」
あんまりびっくりして、かどうか知らないけど、思わず口をついて出たのはこんな言葉で、そりゃあないだろう、っていう代物だった。

父さんが家事をしないのは、確かに間違ってるけど。
さっきまで僕はそう言いたかったはずだけど。
だからって、父さんに謝られるのは、嫌だ。

「お前には、よくない見本を見せてしまったと思う」
「嫌だ、聞きたくない!」

こんな言い方ってない。これはそれだけで怒られておかしくない。
だけど。だけど。
僕は何とか言わなきゃいけないことの一部だけじゃなくて全部を言うように努力を尽くした。
「ごめん、でも、父さんに謝られるようなことじゃない・・・僕のことは、僕のせいだ。それくらい知ってる」
まだなんか、けんか腰みたいだったけど。でも、言わないよりずっとましだった。
父さんは、少し笑った。

「母さんに、謝ったのかい?」
その笑みを消さないまま、穏やかに問われる。いつもと違う。父さんは僕を叱れないでいる。
今し方どなったことも。その前の、手伝いを嫌がったことも。
「うん。母さんには謝った。・・・。」
いま言わなきゃ、と思う。でも、父さん自身が僕を叱れないのにどうして謝らなきゃいけないんだろうとも思う。父さんが僕を叱れないのは、父さん自身が責任を感じているからだ。

だめ、だめだってば。それじゃさっきと一緒だ。
父さんのせいにしちゃいけないって分かってるのに。
父さんに謝られたら、腹が立ちさえするのに。

父さんに謝って欲しくない。僕のことで。
それはたぶんおかしくない、正しい僕のプライドだ。
僕が叱られるのは僕だけのせいだ。父さんがどうあれ、母さんの苦労を想像できたってよかったはずだ。それぐらいの想像力、なかったわけじゃない。ううん、なかったんだけど、なくてよかったわけじゃない。
僕はそんなに子どもじゃない。

母さんにだって忙しいときも、ほかのことをやりたいときも、皿洗いをやりたくないときもあっただろうなんて、考えさえすれば分かる話で。考えるまでもなく、今日なんか、母さんに用事があるって言われてるのに。そこでは父さんは問題じゃない。
父さんは僕じゃなくて、母さんに謝りさえすればいいはずなんだ。

そして、僕は。
やだ、謝りたくないって思うんだけど。だって父さんだって悪いのにさ。
でも、僕は父さんに謝らなきゃいけない。

「母さんには謝ったけど、」
僕がまだ何か言おうとしているのに、父さんは気づいた。
笑みを消して、そして真剣に、待っててくれた。
言えるはず。父さんだって、僕に謝ってくれたのだ。どう考えても僕も悪いのに。
父さんが悪くないわけじゃない。だけど、それとこれとは別だ。

「けど、父さんにも謝らなきゃ。父さんのせいなんかにして、ごめん。ごめんなさい」

一瞬、父さんは目を潤ませたように見えた。でも確かめる間もなく、父さんは目を閉じた。
次に目を開けたときはいつもの静かな目だった。
「そう、だな」
それからたっぷり2秒、空白があった。
「よく、言えたな」
口調にはちょっと驚いた、そして認めてくれる響きがあって、父さん自身を責める響きはもうなかった。そう、そうして。無理にでもそれは僕から隠しておいてよ。

それから父さんは僕の肩をぽんと叩いて言った。
「じゃあ、祐樹、食器を片付けてしまおうか」
「ん・・・」
僕は返事に困る。父さんとの話はたぶんこれで終わりでいいんだけど、母さんとの話は、まだ終わったことになってない。

「えっと、父さん?・・・その」
「何だ?」
いまさらここで皿洗いが嫌だって言う僕じゃないことくらいは信用されているようだから、父さんは心底不思議そうに聞く。あー、言いたくない。っていうか母さん、これって父さんにも不意打ちなわけ?
「・・・。えっと。母さんが。・・・父さんに叱られておいでって」
それは母さんが口にした言葉そのままではなかったけれど、言わんとすることは伝わったようだった。

「母さんが?」
父さんは平静を装った。でも、うろたえてるってことがよくわかった。
僕はもちろんそれに気がつかないふりをする。それをあからさまにするのなんて、僕たち二人ともに都合が悪い。
父さんはゆっくり息をつき、僕を膝に招いた。
「おいで。母さんを傷つけた分、それだけだ」

僕は父さんの膝に体を横たえた。もしかすると父さんはいつものようには叩けないかも、と思いながら。
それは実はぜんぜん嬉しくなかった、おかしなことに。
いつもと一緒だといい。ううん、たぶん父さんはそうするだろう。
そして母さんは、きっとその父さんの覚悟のために僕を父さんに引き渡したのだ。
僕だけ叱っておいて、自分がこの先何もしないなんてわけにはいかないのだから。
父さんはそんなこと、しない。しないはず。

いつもよりは少し間が空いて、そしてお尻に平手が振り下ろされた。
ぱしぃん!
痛い。
ぱしぃん!
痛かった。
でも、それと一緒に、それ以上に、痛いのは僕だけじゃないって感じる。
ぱしぃん!
・・・。こんな歳になって泣きたくはないからぐっと我慢しているんだけど、でも、もしかして、父さんが泣いてても僕は驚かない。

ぱしぃん!ぱしぃん!
!・・・。ほんとにだいぶ久しぶりのお仕置きだからなのか、すごく痛い。
ぱしぃん!

ぱしぃん!ぱしぃん!ぱしぃん!
一打づつ、ゆっくり振り下ろされるお尻叩きは、なかなか終わらない。
なかなか終わらないなんて言えた義理じゃないのは分かってるけど、でも。
ぱしぃん!ぱしぃん!
痛っ・・・。
ぱしぃん!

泣いたら、暴れたら、少しは気が紛れて痛くなくなるかもしれないと思ってみたり。
ぱしぃん!
まさかね、そんなことしたくない。
ぱしぃん!ぱしぃん!
痛い。こんなに叱られるの、ほんとにほんとに久しぶりだよ。
ぱしぃん!
そう、だよな。前に母さんを泣かせたのなんて、僕がずっと小さい子どもだったころ。
ぱしぃん!ぱしぃん!ぱしぃん!
たぶん、さっき。母さんは泣いたんだろうと思った。

ぱしぃん!

ひときわ強く打たれて、お仕置きは終わったみたいだったけど。痛くて、しばらくの間動けなかった。文句は言えない、それだけのことをしちゃったんだから。・・・それだけのことをしちゃったんだなあ、って、思った。

「・・・ごめん。父さんにもごめん、叩かせて」
この場にいない母さんに呟いてから。父さんだって嫌だったろうとしみじみ思う。
父さんは照れたんだか何だか、僕と目を合わせずに、ん、とか呟いたきりだった。

で、それから。
二人で並んで食器を洗った。

終わったら、母さんがありがとう、って笑ってお茶を淹れてくれたんだけど。
母さんの顔が見られなくってお互い目を見交わしてしまったのは、僕も父さんもおんなじだった。
ごめんね、母さん。
2007.1.28 up
なんか。言いたいことが書けているのかどうか。
いつも以上に読みにくい気がするのですが、読んでくださってありがとうございます m(_ _)m。
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