誰かの仕事(前)
「祐樹、悪いんだけどお皿洗っといてくれない?母さんたちこれから町内会の打ち合わせに行かないといけないの」
「え、やだよ。雪菜に頼めばいいじゃんか」

それはついうっかりこぼれた言葉だった。
ううん、思い返してみれば、確かに僕の本音だったってことは認めるけど。
それにしたってこんなに話をこじらせるなんて、ばかみたいだ。

つい10分くらい前のこと。
考えてみれば最近手伝いを頼まれることってなくって、僕はそういう仕事の存在をまあなんていうか忘れてた。実際、皿洗いなんてめんどくさい。だって明日の数学の宿題、結構時間かかるんだ。勉強してたほうがましだと思うくらいには、僕は数学は嫌いじゃない。それに、友達から借りたCD聞きながらやろうと思ってて、むしろ結構楽しみにしてた。

で、こじらせたんだ。
「雪菜は料理の支度を手伝ってくれたもの。祐樹は何もしてないでしょ?」
僕が何もしてないのは事実。それはわかってる。でもカチンとくるんだよ、そういう言われ方すると。
「だって勉強しなきゃいけないし。雪菜は女の子なんだからさ、それくらいやってくれてもいいだろ」
「「祐樹!」」
雪菜は何も言わなかったのにさ、双方向から叱責が飛んできた。で、それがますます気に障った。
逆鱗に触れたってわかってるけどね。わかってるけど・・・雪菜や母さんから言われるのはともかく、父さんから言われる筋合いはないよ。

だからってそう言い返すなんて愚の骨頂なんだけどさ。だって理不尽だと思うから、しょうがないだろ?
「父さんだってほとんど家の仕事なんかやらないじゃんか」

「祐樹、あなたそれ、本気で言ってるの?」
母さんの声はヒステリックにも、戸惑っているようにも聞こえた。父さんが僕と同程度にしか家のことをしてないのは本当だ。僕と同程度、っていうのは少なくともここ1年に限って言えば、日常的にはほとんどしてないってことだ。

父さんはなんて言うんだろう、と僕は待ち構えた。
ばかなことしてるって思っても、自分が全部間違ってるわけじゃないって思うから、逃げられないし負けられない。
雪菜と高天が息を殺して僕たちを見ている。
二人には悪いなって思うんだけど、それがわかってて止められないんだから始末に終えない。

父さんの言葉までは少し、間があった。
「祐樹、帰ってきたら話をしよう」
そうして父さんは席を立つ。僕は思わず「逃げるの?」と言いかけたけど、それはどうにか飲み込んだ。高天が見てなけりゃ言ったかも知れない。・・・まあ、こういうただ責めるだけの言葉は言わないほうが正解だ。あんまり格好悪いこと言ってると、勝てるケンカにも勝てなくなる。

出かける支度をしながら、父さんは食器を見て言った。
「後で父さんと祐樹が片付けるから。雪菜、そのままにしておいて」
「う、うん・・」
雪菜は僕と父さんを半々に見て、ためらっていた。

それが10分前のこと。
寄り合いの時間が迫っていたのは確かで、二人が慌しく出て行った後、僕は大きく息をついた。あーあ。雪菜は食器を流しに運び始める。
「雪菜、いいから。置いといて。・・・・。」
「いいよ別にこれくらい。洗っとくよ」
「いいから!」
怒鳴ったわけじゃないけど、結構強い口調になって僕は後悔した。
そうそう幾つもケンカするもんじゃない。別に雪菜に対して怒ってるわけじゃない。

「ごめん。」
雪菜になら謝れる。それは当たり前で、僕は雪菜に何かされたわけじゃなくってそれどころか皿洗いを引き受けるって言ってくれて。腹を立てる理由はないことを僕は知ってる。でも、父さんにはだめだ。ぜんぜんそんな気になれない。
「・・・・。洗っとくけど?どうする?」
雪菜はやれやれしょうがない、って感じで苦笑して、同じ内容を今度は疑問文で繰り返した。
「いい、僕がやる・・・けど。父さんにもやってもらう」
この状況で、父さんに負けるようなのだけは、嫌だった。

「まあ分かんないでもないけど。でも帰ってくる前に片付けちゃって謝ったほうが楽だと思うけど?」
雪菜の忠告は正しいと僕も思う。
「わかってる。ありがと」
僕はそうきっぱり答え、雪菜は僕がそうするつもりはないことを了解したみたいだ。
僕たちは結構頑固なところは似ているから。相手がやってるのを見ると、損な性分だなあって思うんだけどね。

軽く息をついた雪菜は、高天に声をかけた。
「じゃあ高天、流しに運ぶのだけ手伝って。おにいちゃんがあとで洗っといてくれるって」
「うん」
高天は相変わらず心配そうに僕を見てて、僕はどうしようもなくって高天に心配するな、って微笑んだ。
高天にちょっとした仕事をあげながら食器を運び終わった雪菜は、弟を自分の部屋に誘った。
冗談交じりに「高天、男の子だってお料理ができた方がもてるんだよ」なんて言ってるから、僕はちょっと焦る。やば、雪菜結構気にしてる?
それでも高天を連れて行ってくれるあたり、ほんとに有り難いんだけど。

僕は部屋には戻らずに、食卓で数学の宿題を広げた。
そこでまた、食卓を拭かなきゃいけないことに気づいたり冷蔵庫に戻さなきゃいけないものがあるのに気づいたりして一人で機嫌悪くしたりしてたんだけど。
あれだけのこと言っといて、勉強もしないんじゃさすがに分が悪いし。
っていうか、実際この後のこと考えると、先にやっとかないと間に合わない。
にしてもめんどくさいなあ・・・母さん、これ毎日やってるのか。
勉強してる方が楽だよ、ほんと。
CD聞くのはやめた。楽しめるわけないし、新しい曲に嫌な思い出刷り込むのも嫌だしね。
あーあ、楽しみにしてたのにな。帰ってきたら、父さん、なに言うつもりだろ。
僕は?
・・・やらないよりはましだけど、宿題が進むわけ、なかった。


「ただいま〜。遅くなってごめんね、祐樹」
「ただいま」
おおよそ2時間と30分後、10時半。母さんはそんな風に何事もなかったかのように帰ってきた。 父さんの声は、相当硬かった。僕は「おかえり」と言えるかどうかだいぶためらって、結局何も言わなかった。

「祐樹?」
父さんは書斎に行ったのか、姿を見せない。 まっすぐ食卓に向かってきたのは母さんで、僕は表情に困る。
たぶん壁の向こうにいるだろう父さんの方を、冷たい視線で睨んでみた。
「祐樹」
今度は母さんは諌めるようなけれど甘い口調で、こっちを見て、と伝えてくる。
それ以上は無視もできずに、僕は母さんの顔を見た。
母さんの顔はどうしようもなく真剣で、けれど怒ってはいなかった。あれは言葉を探すときの顔で、そしてたぶんそれに対する僕の顔は、こっちだけが怒るわけにもいかずにこの歳になって泣くわけにもいかずに、途方に暮れていたってところだろう。
「祐樹、先に母さんと話をしましょ?いい?」
断れる状況じゃない。父さん相手にだったら僕も何か言っただろうけど、母さんを前にして自分を抑えるだけの理性は残ってた。

「リビングでいいかしら」
勉強道具広げてるところで叱られるのは何かすごく嫌だから、場所を移すのに異論はなかった。
僕が立ち上がるのに合わせて母さんも台所に背を向けながら、ちら、と流しを見る。そこには雪菜が運んでくれた食器が積んであるはず。
「食器運んでくれたのは祐樹?」
母さんはそう聞いてきて、僕はちょっと嫌な気分になりながら首を振った。
「雪菜と高天だよ」
答えを聞いて母さんは微笑んだ。
「じゃあ、祐樹、後で自分が洗うつもりで止めてくれたんだ?」
・・・・・。そうくるとは思わなかった。今度は言葉が返せない。どうしてわかるんだろう?

無言はこの状況では肯定も同然だった。
「よかった」と、母さんが心底からほっと呟くのがかすかに聞こえた。
何が、かな。

リビングのソファーに掛けたら、僕と母さんの視線はほとんど同じ高さ。むかしはずっと見上げていたのに、いつの間にこうなったんだろう。母さんもそう思ったのかもしれない、少し目の端が笑った。
「さあ、祐樹、どうしてあんなこと言ったのか、話してちょうだい?」
もう一度視線が真剣なものに戻って、言われる。
「・・・。だって、父さんが何にもしてないのは、本当じゃんか」
どうして、って言われても。こんなこと母さんに言っても仕方ないとは思っているのに、それしか言えない。
母さんはじっと僕を見て、そして驚いたことに頷いた。
「そうね。否定はしないわ」
僕が驚くのを見て母さんはまたいったんわずかに笑う。それから言葉が重ねられる。
「でも、母さんがいちばん悲しいと思った言葉は、それじゃないわよ?わかってるでしょ?」
・・・。
「母さんの言い方も悪かったけど、それを差し引いても、やっぱり言ってほしくなかった。そう思うんだけど。」
・・・。

何のことを言われてるのかはわかってる。でも、何を言えばいい?
言ってしまったことに、理由なんてない。
「・・・ごめん」
ほかに言えない。一言だけ言うのだって、簡単じゃなかったんだけど。
今日の母さんはそれじゃ許してくれなかった。

「そんなこと、わかってるわよ。祐樹はいい子だもの」
そうして、僕の髪をくしゃくしゃにして撫でる。
「あの食器だって、後で洗ってくれるでしょ?」
じっと目を見られたから、僕は頷く。ひとりで、かどうかはともかく、母さんや雪菜にさせないつもりくらいはある。
「ありがと」
母さんは笑ってくれたんだけど、視線を外さずに言われたのは、結構きつかった。何でこんなに苦しいのか、わかんないくらい苦しい。ありがとう、ってそう言われただけなのに。僕は訳もわからず首を振った。振ってから思う、そんな感謝されることじゃないって。そしたら母さんはちょっと困ったような悲しそうな目をしたから、僕は焦った。さらに訳がわからなくなった僕に、母さんは追い討ちをかける。
「ありがと。でも、最初の質問の答えは、まだよね。素直で優しい祐樹が、どうしてあんなことを言ったのかしら」

・・・。だから、言える言葉なんてないって。どうして「女の子だから」なんて言ったのか。
逆鱗に触れるなんて、わかってたのに。・・・ううん、言ってから気づいたんだよな。つい、うっかり言ったんだ。ほんと、ばかみたいだ。
「だから、悪かったって。つい・・・」
あ。
僕はしまった、という顔をしただろう。「つい」って、すごくかっこ悪い。僕はほんとにそう思ってたって、ことだ。本音が出たってこと。別にいつもいつも雪菜がやればいいって思ってたわけじゃないと思うけど、少なくとも自分がやる可能性なんて完璧に思考の外だった。だから。

「・・・・・。ごめん。」
やっぱりほかに言うことはなかった。でも、母さんは今度は問いを重ねなかった。
ぎゅっと僕を抱き寄せる。
「あなたが本当にそう思ってたなんて、母さんは思わないわ。ほんとはちゃんと手伝ってくれるし、父さんのことだって、やらない人がいるのはフェアじゃないと思ったわけでしょ?」
そ、そうだけど。そうかな?・・・うわなんかすごく落ち着かない。
「でも、ほんのひとかけらだけでも、そんな考え方の芽を、祐樹の中に持っててほしくないのよ」

うん。
母さんには悪いけど、僕が持ってたのは確実に、考え方の芽、どころではなかった。自分がやらないことが当たり前で、母さんか、そうでなければ雪菜がやるのが当たり前だと思っていて。さっき母さんに「ありがと」って言われたのが、すごく苦しかった理由もわかった。僕は母さんや雪菜が片付けることに、ここのとこ感謝なんてしたことなかったから。感謝されるようなことでないと思うなら、それはみんながやるべきだからだ。誰かがやってくれるなら、それは感謝すべきことなのだ。

「うん。ごめん、母さん・・・いつも、ありがと」

母さんはもう一度ぎゅっと僕を抱いてくれた。で、僕は暖かくてうれしかったんだけど、少し身を硬くする。たぶん話はこれで終わりで、そして、まあ、あれだけのことを言ってお仕置きがないってことは、我が家ではたぶんなかった。僕が中二であったとしても。
それは覚悟していたんだけど・・・。母さんは小さな苦笑を浮かべて、とんでもないことを言った。

「母さんを悲しませた分、父さんにお仕置きしてもらってらっしゃい」

2007.1.20 up
ひさしぶりにこちら。話が短くなってくれない^_^;。
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