お仕置きの理由
きのうから、僕と雪菜はずっといらいらしてた。ふたりとも。
これはケンカって言うほどのことじゃなかったんだけど、だからかな、かえって後を引いてた。
夕飯後にどっちの見たいテレビを見るかで揉めて(僕が譲って雪菜がお気に入りの歌番組を見てた)、宿題やってる最中に雪菜が聞いてたCDがうるさいって文句を言って(雪菜が消した)、今朝の朝ご飯もどっちがブルーベリーのヨーグルトを取るかであやうくケンカをしかけた(結局それは高天にあげた)。一つ一つの出来事はみんな解決済みで、僕は間違ったことはしてないと思うんだけど、腹立たしい。
学校でも一日いいことなくって、帰ってからも何かが上手く回らない。
雪菜のほうもまだ同じ感じだって、背中ですれ違った瞬間に分かった。
それで事件は夕ご飯の時に起こった。
今日のお夕飯はふたりとも好物のビーフシチューだったんだけど、これまたちょっと、・・・まあはっきり言ってしまえば、失敗作だった。トマトケチャップの量が多すぎるよ、母さん。適度な酸味の域を少しはみ出てる。
そんなこと口にしたっていまさらどうにかなるモノでもなかったからさ、僕は黙って食べてたんだけど、雪菜は一口食べて顔をしかめた。スプーンを置いてしまう。
「・・・おいしくない」
馬鹿、と思ったんだけど、実のところざまあみろ、とも思った。
そんなこと言ったら、ううん、ここで止めておけばまだ大丈夫かもしれないけど、多分雪菜は止められない。次に来るのは「食べたくない」で、そこまで言ってしまったら、まず間違いなく怒られる。で、怒られちゃえ、と思ったんだ。いつもなら止めたのかもしれない、話を逸らしたのかも知れないけど。今日は雪菜のために何かしてやる気なんてなかった。
「・・・おいしくない。いらない。ごちそうさま」
「雪菜!」
父さんはまだビールを開けてサラダに箸を伸ばしたところだったから、どれくらい雪菜の言葉が正しいのかわからなかったと思うんだけど。まあ、実際においしくないのだろうが、ただのわがままだろうが、母さんが作ってくれた以上こっちには拒否権はないってことは、いつも言い聞かされてる。作ってもらったんだから感謝して食べろって、耳にタコが出来てるけど、わかるけど、雪菜もきっとわかってるけど。特にあんな突き放すような責めるような、要するに母さんを否定するような、そんな言い方したら父さんが許すわけないっていうのに。馬鹿だなあ。
で、怒られちゃえって思ったんだよね。僕の知ったことじゃないって。あんなわがまま娘、怒られればいいんだよ。
いくら何でもそんなことで自分のむしゃくしゃが晴れると思った訳じゃないと思うんだけどさ。
「祐樹も」
父さんの冷ややかな声がこっちに降ってきて、僕は焦った。
「え、僕?僕何にも言ってないじゃんか!」
僕の反論に父さんは答えないで、ただこっちをじろっと見た。相当怒ってる顔だった。父さんは席を立って、「雪菜のお仕置きは後でだ。祐樹、おいで」と隣のリビングへ向かった。僕は勢いに呑まれて立ちあがったけど、我に返ってそのまま動かずに叫ぶ。
「やだよっ!僕怒られるようなこと何もしてない!」
そんな僕の反論には構わず、父さんは怖い顔のままぼくの手を引いて隣室のソファーへ連れていく。「やだっ!」僕が動こうとしないのを見ると、ついには抱え上げて膝の上に乗せられてしまった。
リビングとダイニングの間の分厚いカーテンを父さんが引いてくれたのはせめても有り難かったんだけど、こんな風に無理やりにお仕置きに突入なんて、ここのところずっとないことで、多分僕が5年生になってから初めてだ。っていうか、そんなに悪いことした覚えなんてない。こんな風に怒られるようなことなんてしてないってば。
だから、僕はかなり抵抗して、暴れた。なのに父さんは、まるでお構いなしだった。
ぱしぃんっ!
父さんの平手が、僕の裸のお尻で鳴る。すごく、痛い。
「痛いってば!」
僕が言うのに構わず、父さんはお仕置きを続ける。
ぱしぃん!
「痛いっ!僕は何もしてないって、言ってるじゃんか!」
それに対する返事はこうだった。
「そんなことを言ってる間は、お仕置きは終わらないよ」
ぱしぃん!
「だから何でさ!」
何でお仕置きされるのか、全然わかんないってば。
母さんが作ってくれたご飯、おいしくないって言ったのも、いらないって言ったのも、雪菜であって僕じゃない。ほかに悪戯したって訳じゃないし、心当たりなんて何にもない。僕が怒られる理由なんてない。
けれど父さんは淡々と続けた。
「わからないかい」
ぱしぃん!
「わかんないよ!僕は何もしてない!」
「そうかな」
ぱしぃぃん!
次の一発は、ひときわ痛かった。そして父さんの声は、あいかわらず静かで、低くて、重かった。
「確かに祐樹は、何も言っていないよね。」
そうだよ!心の中で、僕は叫ぶ。でも父さんの言葉はそこでは終わらなかった。
「何も言っていないからといって、叱られるようなことは何もないと言えるだろうか?」
ぱしぃん!
何だよ、それ。
僕には父さんの言ってることはわからなかった。でもとにかく、僕が何も言ってないってことは父さんもわかってるってことはわかった。それなのに、怒られるの?
わかんないよ。全然わかんない。
「全然わかんない!」そう言って暴れたら、また強く叩かれた。
ぱしぃん!
ぱしん!ぱしん!
もう幾つか叩かれて、そこで父さんはちょっと手を止めて言った。
「祐樹は、わかろうとしているかな」
・・・。自分で言うのもなんだけど、してない。だってわかんないもん。納得いかない。わかりたくなんてない。だから僕はぷいっと顔を背けて外を向き、それですかさず叩かれた。ぱしん!
痛っ・・・。
いまのはわかる。なんで叩かれたかは。でもそれってそんなに悪いこと?
わかんないから、わかりたくないから、わかろうとしないってことが。
「だって、」
だから僕はそう言おうとした。
だってわかんないもん。わかりたくないもん。それってそんなに悪いこと?って。
けど、何かのどがはりついて声が出なかった。
っていうか、これを言ったらやばいって気がなんとなくした。
父さんを余計に怒らせるっていうのもあるけど、もっと、僕が追い詰められちゃうって気が。
でも言わなきゃ、って思う。僕は間違ってないもの。たぶん。
言えないのって僕が間違ってるみたいじゃないか。そんなこと、そんなことない。・・・たぶん。
「だって」
だから僕はもう一度試みて、そしてまた言えなかった。
父さんは手を止めて、僕を立たせて、そして僕の目を覗き込んだ。
「だって、何だい?」
言いたくても、言えない。だからぼろぼろ涙が出てきた。
「だってわかんないもん」どうにか涙と一緒にそう吐き出して、なんだかすごくむなしくなった。
それで余計に泣けてきた。
父さんはじっと僕を見てる。こうやって見られてると、弱いんだ。
父さんは何も言わないでいる。こういうときは、聞いてくれる。でも、僕のほうに言える言葉がないんだ。
「・・・わかりたくないもん。・・・それって、それってそんなに、」
用意していた言葉をどうにかこうにかぶつけるけど、それでもここまでが限界で、これ以上聞けなかった。
だって、だって僕は父さんの答えを知っているもの。
父さんはそれが、それこそが悪いことだ、っていう、きっと。
そうじゃなかったら、こんなことでこんなふうに叩かれたり、しない。
それがそんなに悪いことか、僕にはわからない。
あれ?不思議なことに、今度は聞けた。
「わかんない。わかろうとしないって、そんなに悪いこと?」
そして今度は、また叩かれたりはしなかった。
「祐樹はどう思う?」
静かに聞き返される。僕は言葉を探す。わかろうとしないことって、悪いことかな。こんなふうに怒られるくらい、悪いことかな。なんでこんなふうに、怒られるのかな。そして言うべき言葉を見つけられなくって僕は父さんを見つめる。だって、わかんないんだもん。それって、悪いこと?そんなことないって、僕は思った。
「どうしてもわかんないってこと、あるじゃない」
父さんはちょっと目を大きくした。僕は父さんを見つめ返した。だって、そういうことあると思うもん。ここは間違ってないと思うし、譲れない。現にいま僕は、わかんないんだから。
「そうだね」
僕から目を離さずに、父さんは言った。自分は正しいって思っていても、そう言われるとちょっとびっくりする。
「でも祐樹はいま、わかりたいって思っているだろう?」
え、どうだろ?急にそんなふうに言われると、びっくりするんだけど。
そりゃあ、わかろうとしないことってそんなに悪いことなのか、それがこんなふうに怒られるくらい悪いことなんだったら何でそうなのか、知りたいよ。だって、何でこんなことで怒られるのか、ちっともわかんないんだもん。そういうのは、いやだ。
これくらいの「わかりたい」で足りるんだったら、そりゃ確かに僕はいま、わかりたい。
・・・だから父さんはいま僕を叩かないの?さっきの僕といまの僕、そんなに違う?
思わず聞いてしまった。
「さっきの僕といまの僕、そんなに違う?」
答えは明確に肯定だった。
「違うよ。いまはとても、いい顔をしてるよ。いつもの、祐樹の顔」
照れていいんだかどうしていいんだか、わかんない。
「わからないことはね、悪いことだとは限らないよ。祐樹の言うことは、正しい」
けれどね、と父さんは続ける。
「わかろうとしないことは、よくない。自分のことだけを考えて、いいや、そもそも自分のことも、人のことも、考えていないんだよ。ただ固まっている、こだわっているだけだ。それでは、何も動かない。状況も、ひとつもよくならないよ。」
すごく漠然とした話のくせに、すごく耳が痛かった。そもそもだから叱られたのかって思い当たって、おそるおそる確かめてみる。
「それって・・・昨日の僕と雪菜のこと?」
返事の代わりに、ぎゅっと引き寄せられて抱きしめられた。それはさすがにこの歳になって照れくさいと言うより恥ずかしいくらいだったけど、久しぶりで暖かくて、いらいらしてたのなんて忘れた。
折角だからしばらくそうしている。別に、離れられなかったわけじゃないよ?甘えてるわけでもないけど、いいだろ、たまには。
「いっぱい心配かけて、ごめん」
ぼそっと呟く。それから、「ありがと」って。ひときわ強く抱き返されて、そして、解放された。
「ビーフシチューが冷めてしまったな」
「たぶん母さん作りなおしてくれてるんじゃないかな。言っちゃ悪いけど、確かに味付け失敗してたよ、あれ」
「こら!」
お尻を狙ってきた父さんの手を、僕は笑って避ける。父さんはしかめっ面を造って言った。
「食事に戻りなさい、祐樹。お仕置きは雪菜と交代だ」
「ん。でも、あんまりひどく叱らないでよ?半分は僕のせいだし」
父さんは答えないから、僕は苦笑いするしかない。どうか雪菜が聞き分けよくなっていますように。どれくらいお仕置きされるかなんて、結局そこで決まるのだから。
「お兄ちゃん、大丈夫?・・・ごめんなさい」
ダイニングに戻ると雪菜が半泣きでそんなことを言ってくる。この分ならたぶん大丈夫だと思うけど。
「僕は大丈夫だよ。こっちこそ、昨日からごめんな」
そう言って髪を撫でて、そっと押し出してやった。
やっぱりビーフシチューは作り直してあったし、雪菜のお皿は空になってた。
おいしいビーフシチューみたいにさ、いらいらする一日を作り直しちゃうこともできるかな。
2006.11.18 up
このお話はもう少し続き(?)ます。(^^ゞ。