おたふくかぜ

雪菜はおたふくかぜっていうのになったんだって。もう、保育園を3日休んでる。
母さんは雪菜につきっきりで。父さんもその部屋に出たり入ったり。

「雪菜がいちばん大変なんだよ」って父さんは言うけど、そりゃあ、わからないことはないけど、でも、やっぱりつまらない。雪菜とも遊べないし、父さんも母さんも相手してくれないし、仕方がないからひとりでテレビを見ていたって「静かにしてね」なんて言われちゃうしさ。
病気がうつるといけないからって、雪菜の部屋には入っちゃだめって言われてる。ここのとこ何日も雪菜に会ってない。

雪菜、何してるのかなあ。
そう、僕は病気になるのがどういうことかなんて全然分かってなかったんだ。

「ねえ父さん、雪菜に会っちゃだめなの?」
「おまえに病気がうつったら困るだろ?」
「ちょっとだけだったら、いいでしょ?もう、ずっと雪菜の顔見てないよ」
「そうだったっけか。・・そうだな」
「ねえ、ちょっとだけ。誰も僕の相手してくれないしさ、つまんないよ」
「・・・確かにな。祐樹にも寂しい思いをさせているよな」

ただのわがままだって自分ではわかっていたから、言いながらちょっとどきどきしていた。
怒られるかなって思いながら、でも言っちゃったんだ。
それなのにそうじゃなくて父さんがすまなそうな顔をしたから、ちょっと胸が痛かった。
でも雪菜に会いたいのはほんとで、だからやっぱり言っちゃったんだ。
「ねえ、父さん、お願い」

父さんは仕方がないな、っていう顔をして、僕を雪菜の部屋に連れていってくれた。
大きな声でしゃべらないこと、父さんがいいっていうところまでしか雪菜に近づかないこと、部屋を出るときもわがまま言わないこと。そんなことを約束して、僕は父さんと一緒に部屋に入った。

父さんは僕の方に手を置いて、じっと雪菜を見ていた。
枕元に座っていた母さんが、僕らを見て「まあ」と父さんに抗議するように言った。
「少しだけな」と父さんは声を立てずに苦笑いをして、僕たちは雪菜に一歩近づいた。

僕はすごくびっくりしたんだ。
そこにいるのは確かに雪菜だったけど、雪菜じゃないみたいだった。
顔が真っ赤で、そしてぷっくり大きくなってて、実はちょっと怖かった。

僕は一歩後ずさって、父さんにぶつかった。
父さんの顔を見上げて、でも言葉が出てこなくって、でも黙っているのも耐えられなくって。
口をついて出てきたのは、こんな言葉だった。
「ねえ、雪菜、変だよ。おかしいよ」

言ってしまったら、つい笑ってしまった。

雪菜がこっちを向いた、気がした。
雪菜の目は泣きそうに潤んでいるみたいだった。

それはやっぱり雪菜だったから。
その瞬間に笑いは引いていって、そして僕は自分が何を笑ったのかに気がついて青ざめた。
・・・・。

気がつくと母さんが驚いたように僕の顔を見ていて、そして父さんがぐっと僕の手をつかんで部屋の外へ連れ出した。父さんの手の力は強くて痛いくらいだったけど、痛いなんて言えなかった。

父さんは何も言わなかった。何も言わずに僕の手を引いて、下の父さんの部屋まで連れていった。雪菜の部屋からはいちばん遠い、本でいっぱいの書斎。たぶん僕が泣いても叫んでも、雪菜には聞こえない部屋。
父さん専用の大きな椅子のなかで、僕は父さんの膝の上に乗せられた。
ぱしん!
一言のお説教もなかった。

ぱしん!ぱしん!
すごくすごく痛くて、僕はぼろぼろ涙をこぼした。
でも痛い、って言えなかった。
ごめんなさいって言わなくちゃとも思ったけれど、これも言えなかった。

目の前にある椅子の脚にぎゅっと捕まって、僕はただじっと泣きそうに、叫びそうに、暴れそうになるのをがまんしていた。ほかの何もできなかった。
ぱしん!ぱしん!ぱしん!ぱしん!
痛かった。でもどうしようもない。

ぱしん!ぱしん!
痛いって言っても、もうやめてって言っても、暴れても、止めてもらえないことはよくわかってた。そんなことでどうにかなるようなことじゃないんだ。雪菜のことを笑った。それはそれだけでもう充分に怒られて当然な理由で、叩かれたって暴れたって、謝ったって取り返しがつくようなことじゃなかった。
ごめんなさいって言わなくちゃと思ったんだけど、やっぱり言えなかった。
だって、もう、どうしようもないのに・・・雪菜の泣き顔が、頭の中から離れなかった。
ぱしん!ぱしん!
父さんも何も言わない。僕も何も言わないまま、僕のお尻はどんどん熱くなっていく。

ぱしん!ぱしん!ぱしん!ぱしん!
いったい、幾つ叩かれたのかなんてもう全然わからなかった。
そもそも数えてもいなかった。いつまで続くんだろうなんて考える余裕もなかった。
だって、僕は雪菜を傷つけたんだから。
幾つ叩かれたからって、取り返しのつくことじゃないんだ。

ぱしん!ぱしん!ぱしん!ぱしん!
それでも。
終わらないお仕置きはなくって、不意に父さんは手を止めた。
父さんは僕がごめんなさいを言うのを待っていたのだったかもしれない。
でも僕は相変わらずごめんなさいは言えなくて、ただただぼろぼろと涙だけこぼしていた。父さんの顔も見られなかった。

少しだけの沈黙のあと。父さんは椅子の横に僕を立たせた。
「祐樹」
呼んでくれた声はもう優しかったけど、やっぱり僕は父さんの顔を見られなかった。
だって、ごめんなさいも言えないし、それに何より雪菜を笑ったのは僕で。
どうしようもなくってどうしたらいいかわかんなくって。
ずっと下を向いていると、父さんはもう一度穏やかな声で、でもはっきりと僕を呼んだ。
「祐樹、顔を上げなさい」

おそるおそる顔を上げると、ちょうど僕の顔と同じ高さに父さんの顔があった。父さんは床に膝をついていたんだ。
そうして、一瞬父さんの顔は怖かったんだけど、僕と目があった後、優しい顔になっていた。ううん、ちょっと困ったような顔かな。でも僕はそんな優しくされても困って、やっぱり顔が下を向きそうになる。今度は父さんはそれを止めずに、僕の髪をくしゃくしゃに撫でて言った。

「父さんはもう怒っていないよ。どうしてそんな困ったような顔をしている?」
僕は首を振った。だって僕がしたことはもう取り返しがつかないのに。
父さんの手がまた僕の顔を上げさせて、見ると父さんは何でも言ってご覧、という顔をしていた。

「だって、雪菜のこと、僕」

なんで上手く言えないんだろう。それでも、父さんは頷いて口を挟んだ。
「雪菜に謝りなさい。そして二度としないことだね」
僕はやっぱり首を振った。
「だって、もう取り返しがつかないのに」

「許してもらえないと思うから、謝りたくないのかい?」
父さんの声は、怒ってはいなかったけど。
そうじゃなかった。だから僕は慌てて首を振った。
「許してくれないなんて思わない」雪菜は意地悪じゃないから。
でも、どうして謝りたくないのか、ごめんなさいが言えないのか、自分でも説明できなかった。

謝りたくない、っていうのも、ちょっと違う気がした。
・・・それなら、ごめんなさいって言えばいいんだけど。
ごめんなさいって言わなきゃいけないって分かってるんだけど。
僕は、雪菜に悪いことをしたから。でも。
「でも、謝ってもなかったことにはできないじゃない」

言うと、また、涙が出てきた。謝っても僕がしたことは変わらないから。
だから・・・どうしようもないと思って。どうしていいかわからなくなったんだ。
「どうしていいかわかんないよ」

父さんは僕が泣き止むまでじっと待ってくれた。それから涙を拭いてくれた。そして静かに言った。
「雪菜に謝りなさい。でもそれは、なかったことにするためじゃない」
「じゃあ何のため?」
僕の質問に父さんは答えてくれなかった。「さあ、何のためだろうね」って言っただけだった。それでもその口調はとてもきっぱりとしていたから、なぜか、何か嬉しかった。

僕は雪菜に、謝らなきゃいけない。
どうしようもなくても、どうしてでも。何のためかわかんなくても。
謝らなきゃいけないってことは僕もわかってるんだから。
それだけは、きっぱり、はっきりしてることなんだ。

ためらいは少し残っていたけど、でも謝らないままなのも絶対間違ってて。
雪菜にちゃんとごめんなさいを言うって父さんと約束した。
でも雪菜の部屋に行ったら、いま雪菜は眠ったところだから明日にしなさいって母さんに言われちゃった。今日はもう祐樹も寝なさいって自分の部屋に追いやられたんだけど、眠れるはずなんて、なかった。

耳をそばだてて、隣の部屋から母さんが出ていったのを聞いてから。
こっそり部屋を抜け出して、雪菜の部屋に忍び込む。
小さな電気がひとつだけついていて、そして確かに雪菜は寝息を立てていた。
息遣いが少し早くて、顔が真っ赤で、おそるおそる触ってみると熱かった。

さっき見たときと同じに、頬は腫れていて、額にしわがよっていて。それはやっぱり、可愛い、って言える様子じゃなかったのだけれど、苦しそうで、かわいそうだ、と思った。こんなに苦しそうなのに、僕、なんで笑ったりしたんだろう。
早く、良くなるといいのに。いつもの雪菜に戻るといいのに。いつもの雪菜に戻ったとしても、僕のしたことが取り消しになるわけじゃなかったけど・・・ううん、そんなことは問題じゃないんだ。雪菜が苦しそうだから、辛そうだから、良くなるといいのにって思うんだもの。

ふと気がつくと。雪菜は目を開いて僕を見てた。

「起こしちゃった・・?」
雪菜は首を振って、僕に笑いかけた。僕の顔を見て、嬉しそうにしてくれたから、嬉しかった。雪菜も寂しかったんだって、退屈してたんだって、わかった。
「雪菜、さっきはごめん、笑ったりして」
雪菜はきょとんとした。覚えてないの?僕がほっとしたのはほんとう。けどそれは、雪菜が僕のしたことを受け取れないくらい苦しかったってことでかもしれなくて。なんで僕はそんな雪菜を笑うことなんて出来たんだろう。
やっぱり、ぐっと胸が痛かった。それは、取り返しのつかないことなんだ。

雪菜が覚えてなくて傷ついていないのは、喜んでいいと思う。
雪菜が傷つかないのがいちばんだもの。
でもそれと僕のしたことが取り返しのつかないことだってことは、また全然別の話だ。

雪菜が、覚えていたら。ごめんなさいって言ったら許してくれたかな?
・・・たぶん、きっと。
でもそれと僕のしたことが取り返しのつかないことだってことは、やっぱり全然別の話。

雪菜が、覚えていたら。笑われたことに、傷ついていたら。
それは雪菜のせいじゃなくって僕が悪いんだってこと、雪菜に言わなきゃいけないよね。
雪菜を悲しませたままでいいわけがないから。だから、ごめんなさいって。

それで僕がしたことが取り消しになったりするわけじゃ全然ないけど。
雪菜の傷が癒えるとも限らないけど。
でも雪菜のためにできることがあったら全部やりたいから。

僕たちは静かにいろいろしゃべった。
雪菜が寝込んじゃってからのできごととか。早く治ってまた遊べるといいね、ってこととか。

僕は雪菜が好きで。雪菜も僕が好きだ。それは、絶対。
そんな雪菜の気持ちを曇らせたくないから、だからごめんなさいって言う。
真っ赤だけどでも楽しそうな、可愛くないけどすごく可愛い雪菜の顔を見ながら、そう思った。

おしゃべりしてたら、僕も雪菜も眠っちゃっていたみたい。
気がついたら、父さんに起こされた。
あ、やば。

「病気がうつったらどうするんだ」って、しっかりまた怒られちゃったけど。
雪菜を笑って怒られてたときよりは全然痛くなかった。
雪菜と同じになるならうつってもいいかも、なんて思っちゃったなんて父さんには言えないね。

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