自転車と鍵と誰がなぜ悪いのかってことと
「陸、ちょっと」
めずらしく、兄貴は帰ってくるや否や俺を部屋から呼び出した。
その上、いかにもピリピリしてる。
居心地の悪い重たい空気をめいっぱい撒き散らしながら、兄貴は俺を自分の部屋に引っ張っていった。
俺をベッドに掛けさせといて、兄貴は後向きに椅子に座った。で、椅子の背に頬杖をついて俺をじっと眺めると、そのまま黙りこくりやがった。ちょっと、それ、落ち着かねぇって!四つ上の兄貴は線が細いくせに妙な迫力があって、仲間内では一応度胸がある方ってことになってる俺の尻を所在無げに浮かせるくらいのことは朝飯前だった。
とはいえ俺だって、いつまでもこのまま兄貴と黙って向かい合ってるつもりもない。
「三咲兄、何の用だよ?用がなけりゃ、俺、もう出てくけど」
兄貴はしっかりと俺の目に視線を合わせた。
「陸の方が僕に言うことあると思ったんだけど」
嫌な感じ。何のことだよ。・・・心当たりなんて何もない、というほど俺は品行方正に生きてやしねぇんだけど、兄貴が何を指してそう言ってるのかは分からなかった。っていうか、むしろ心当たりは幾つもあるから。
ちょおっと部活で先輩とモメたとか、最近結構夜更けにゲームしてるとか、そのせいでか授業中寝てたとか、あと、何だろ?あー、先週塾サボったとか?
無論そんなこと自分から言う気はさらさらなくって、俺は話を切り上げようとした。
「え、別に兄貴に言わなきゃいけないことなんて何もないぜ?それじゃ」
立ち上がりかけた俺をじろっと一瞥すると、兄貴はちょっと息をついて言った。
「それじゃぁ僕から聞くけど。陸、きょう駅前で乗ってたの、誰の自転車?」
え。
うわ、よりによってそれかよ?見られてた?それはちょっとやばい、かも。
いやいやまだ、ばれてるわけじゃないよな。
「友達のだよ。それがどうかした?」
「で、それを隣駅において帰ったの?」
うっ。さっき謝っといた方がマシだった?俺ってばこれ、ごまかしきれるかな。
「そうだよ、別に俺の勝手だろ?」
「ふうん。誰の自転車か、聞いてもいい?」
実際のところは、もちろん友達の自転車なんかじゃなかった。
仲間うちでの他愛無い遣り取りが、ささやかながら度胸試しを兼ねた自転車ドロの話になって。鍵のかかってない自転車見つけて盗るのなんて楽勝だから、度胸試しとしてはささやか過ぎた気もするけど、多少のスリルと罪悪感のスパイスを楽しんで。駅近くに停めてあった自転車を乗り逃げして、で、まあ、別に自転車が必要なわけじゃなかったからそのまま隣駅の駐輪場に放ってきたんだった。
三咲兄はしばらく追及の手を緩めてはくれなくて、俺はしどろもどろになりながらあれこれ答えてた。
関係ないだろそんなの、って言い放つのは簡単だけど、それじゃあ負けを認めたようなもんだ。でもこの答えぶりじゃあ、どっちにしても兄貴はごまかされてくれてはいないだろう。
どうも兄貴は電車の中から自転車に乗ってる俺たちを見たらしい。で、隣駅のコーヒー屋で時間を潰してるとき、電車で帰る俺たちを見たようだ。そういえば今日、兄貴は隣街の予備校に行く日だったな・・・。
時間的に自転車で隣町に行ったのは確実なのに、電車で帰る俺たちに兄貴は疑念を持ったわけで。でもって俺のこの対応は、疑念を確信に変えたって訳。
う〜。俺がもうちょい嘘が上手けりゃ、誤魔化せたかも知れねぇんだけど。
ばれてるとは思いつつ、ここまで取り繕った上にホントのことを自分から言い出せるほど俺は人間できてやしないので、部屋には嫌ぁな沈黙が流れた。
「陸、言わなきゃいけないことがあるんじゃない」
くそっ、悔しい。見られてたなんて、ツイてない。
どうせばれてるんだから自分からと謝った方が得かなとか、でもまだごまかせるんじゃないかっていう甘い期待とか、いろいろ迷って。結局俺は打算に疲れて、自棄になって言ったのだった。
「どうせ分かってるんだから、さっさと引っぱたけばいいだろ。まどろっこしい聞き方するなよ」
こーゆーのも自白になるんだろうか。ジョウジョウシャクリョウの余地あり、だろ。
そんなこと考えた俺に対して、兄貴は珍しく声を荒げた。
「そういう問題じゃねぇだろ。陸五、自分が何やったのかわかってんのか?!」
え。
まず俺は、びっくりした。兄貴は俺を怒るときも、いつもそう感情的にはならない。
どっちかっていうと嫌味は利かせるけど、怒鳴ったりするのは兄貴のスタイルじゃない。
(だからこの直前までの展開は、まあ、かなり三咲兄らしいやり方ではあったんだ。)
ましてや俺がむしろ冷めてるときに兄貴が熱くなるなんて、叱られる場面以外でもかつてなかったことだった。
それに、さ。
俺はやっぱり思ってたんだ、別にこれくらいのことで、って。
だから見つかってツイてないとか、ごまかし損ねてまずったとか、謝った方が得かなとか。
もちろん自転車泥棒が悪いことだとは知っていたけど、俺は何で兄貴がこんな風にマジで怒るのか理解してなくて、つまり自分が何やったのかもちっともわかってなかったし、反省も後悔もしちゃいなかったんだ。
目を丸くした俺に兄貴はさらに怒ったっぽかったけど、立ち上がってベッドの方に来るまでに、少しコントロールしたようだ。次の声は荒れてはいなかったから。けど、相当に低かった。
「ま、いいさ。お望みどおり引っぱたいてやるよ、陸五。自分が何をしたのか分かるまでな」
怖。
そのまま俺は兄貴の膝の上に倒されて、さくっとズボンを下ろされてしまった。
ぱちぃん!
「痛ってぇ!」
俺が喚くのに、兄貴は答えなかった。ぱしぃん!とキツイ平手が降ってくるだけ。
ぱしぃん!
「痛!悪かったってば、三咲兄、もうしねぇったら」
ぱちぃん!手を止めてほしい、せめても少し手加減してほしい一心で口にする謝罪にも、返事がない。
ゴメンナサイを間に挟みながら一言もなくひたすら強かに打ち付けられる平手に、十回目ほどで俺はほんとに音を上げた。
痛いのはともかく。黙って叩かれ続けるってのはこれは想像以上に堪える。
何で兄貴は黙ってるんだろう。そんなに悪いこと、したかな、俺。
ぱしぃん!
「痛ってぇ!やめてくれよ、兄貴!何でこんなことでこんなに叩かれなきゃいけねぇんだよ」
やめてくれ、と言ったからってやめてくれるような兄貴じゃないことは分かってた。
だけどここまで叩かれるようなことしたとは実のところ思ってなかった。
だめだ、納得いかない。そう喚くと、兄貴ははじめて返事をくれた。
「それが分かってないから怒ってるんだ。自分で考えろ」
ぱしん!
「だから何で?!ちょっと自転車借りただけじゃねぇか」
ぱしぃん!ぱちぃん!
「借りたとか言うな。それは事実じゃねぇだろ」
「でもよくあるコトだろ、だいたい鍵掛けてねぇ方が悪いんじゃんか」
ぱしぃぃん!
「んな訳ねぇだろ、馬鹿野郎!」
痛ってぇ!!
とにかく三咲兄が本気で怒ってることだけはわかった。
そりゃあ確かに、自転車泥棒は悪いコトだ。
でもよくある話だし、俺のモノにしたわけじゃねぇし、大して高いモノでもねぇし。鍵さえ掛かってなかったんだし。
そう思う。だから兄貴にそう言ってやる。
ぱしぃぃん!予想したことではあったけど、一層キツイ一打が返事の代わりに降ってきた。
「ちくしょう、痛ぇって!」
反省のカケラも見られない俺の反応に、兄貴は溜め息をつく。
手を止めて、しばらく黙りこくっていた。
「もういいだろ、離せよ!」
お仕置きが終わったのなら膝の上から解放して貰いてぇ。そこから離れようと喚く俺を捕まえたまま、兄貴は何か言葉を捜していた。
「・・・・・陸五、ちょっと落ち着いて考えてみろよ」
兄貴が次に口にしたのはこんな言葉。
まだ怒ってるって分かった。でも、兄貴自身が落ち着こうとしてるのも分かった。
「何をだよ」
そんな態度をとられて、俺にだって考える気がないわけじゃない。一応逃げようと抵抗するのは止めて返した科白は、口から零れてみたらかなりかっこ悪かった。
それが分かってないから怒ってるんだって言われてるのにそれを聞くんじゃ、まるっきり考える気がないのと一緒だよな。
ぱぁん!
案の定はたかれる。けどそれは一発きりで、兄貴は俺をゆっくり考えさせることにしたようだった。
「自分のしたことをだよ。お前さ、盗られた人のことはちっとも考えてないだろ」
うぉ。それはそうかもしれない。でも。
それを認めたくなかった俺に、兄貴は追い討ちを掛けた。
「考えてたらあんな事しない程度には、ヒネてねぇもんな、陸五は」
そうかもしれねぇけど、そーゆー言われ方は何かヤダな。
だいたい、やっぱり鍵掛けてないヤツだって悪くねぇ?
それ言うとまた怒らせるなとは思ったけど、俺は納得いかないことを黙っておけるような性質でもなかった。で、ぱしぃん!手と言葉と、両方で返事がされる。
「盗られた人はそう言って自分を責めただろうけどな。お前が言うな」
ずき。この一言は結構堪えた、でも。(誰が言おうが同じだろ?)
「だいたい、手の届くところに商品があったら万引きをしてもいいのかよ」
まあ、そうじゃねぇけどさ。でも。
「鍵は掛けるべきだよ。でも、ついうっかり鍵を掛け忘れたからって、どうしてお前に自転車を盗られなきゃならないんだ?」
いや、でも。別に自転車、俺のモノにしたわけじゃなくて。隣駅に放っただけだぜ?
どれもこれもさっきもう言って、そして却下された言い訳と同じだって分かってる。
でも、思うことはぜんぶぶちまけておかないと俺は先に進めねぇんだ。
ぱしぃん!また、一打。
「それが盗られた人のこと考えてないって言ってんだ。その人にとっては自分の自転車が朝止めたところにないってことが全てだろ?陸のものになったんだろうが、隣駅にあるんだろうが、その人が自分の自転車を見つけられないことには変わりない」
う。
そうかも。確かに。
そんなの言われてみれば当たり前の話で、考えるまでもなく"だから"自転車泥棒は悪いことなのであって。けど確かに俺は、そんなこと考えてやしなかったのだった。
「・・・探してる、かなぁ?」
ぱしぃぃん!
「きっとな」
ひときわ強く、引っぱたかれた。
「ようやくそれに思い至ったんだな」
兄貴はやれやれ、と息を吐き出す。俺には返す言葉がなかった。
「で、何か言うことあるだろ」
う・・・。
この期に及んでも、言わされるのは嫌だったけど。兄貴はじろっと俺を睨み付ける。
さっき引っぱたかれてるときには、言えたのにな。口先だけで。
俺が乗ってたあれ、どんな人の自転車だっただろうか。高校生か、大学生か。社会人かな。女の人かも知れねぇか。
いま、探してるかな。もう帰ったかな?まだ残業で、気づいてないかも知れねぇよな。
明日の朝、どうするだろう。
「陸」
兄貴は俺を呼び、俺は少し口をゆがめて答えた。
「悪かった、よ。もうしねぇ」
兄貴が俺の謝罪をどこで本気かどうか見分けてんのかわからねぇけど。
とりあえず、兄貴はこの愛想のねぇ一言を容れてくれたらしい。
がしがしと頭を撫でられた、っていうか髪の毛を引っ掻き回された。それから、もう荒れてはいない、けど物騒な声がした。
「じゃ、再開。あと30発は叩いてやるよ」
げ。
固まった俺に、兄貴は重ねて言った。
「それくらいのことはしたと、思うだろ?」
そんな質問、答えられるかよ。
ぱぁん!
抵抗もしやしなかったけど、素直に答えた訳でもない俺。
有り難いことに、か、兄貴はそれ以上突っ込んで来はしなかった。
喚くのも口惜しいから声は飲み込むけど、しこたま打たれてその気力もなくなりかけたくらいのとこでようやく俺は解放される。
「悪いと思ってんだから、素直に泣けばいいのに」
兄貴は俺の顔を見て妙なことを言ってのけた。んなこと言われて誰が泣いてやるか。
思ったことはきっと顔に出て、そして兄貴は微かに笑った。訳わかんねぇ。
「まあ、いい。ところで、まだ痛いだろうけど・・・すぐ出れるか?」
意地でも平気な顔をしてはやるけど、・・・どこに行くって?
「交番だよ。自転車にはどうせ名前書いてなかったろ?
防犯登録から持ち主分かればいいけどな」
たぶん俺はだいぶ情けなさそうな眼で兄貴を見たに違いない。
兄貴は苦笑して、俺の肩を叩いた。
「一緒に謝ってやるって。何だったら『めちゃくちゃ尻叩かれて十分反省してます』って口添えしてやるよ」
ジョーダンじゃねぇ!
兄貴のつまんねぇ冗談には付き合いたくねぇけど、結局お巡りさんからこってり油を絞られるのも、幸いなことには持ち主はすぐ分かって自転車を届けて謝りに行くのも、すっかり兄貴に付き合わせちまった。
ちなみに自転車の主は大学院生のねーさんで、怒られなかったっていうか『自転車、見つけてくれてありがとう』なんて見当違いの御礼をくれた。・・・可愛かったけど、ちょっと抜けすぎだろ。
全部片付いたときにはもう結構な夜更けで、兄貴は帰る前にマクドナルドを奢ってくれた。二人とも相当腹を空かせてたから、バーガーもポテトもあっという間に消えていく。
「自転車返ってきたの、喜んでくれてよかったな」
食べながら、兄貴がぽつりと言ったのに俺は頷いた。下を向いた瞬間に、不覚にも涙が零れそうになって慌てて瞬きをして紛らす。こっそり兄貴の様子を伺ったら気づいてない(ふりかも知れねぇけど)様子でほっとした。何か言われたら、マスタードつけ過ぎたせいにするつもりだったけど。
バカなことしたなぁって、つくづく。ほんとうに、返せてよかった。
2007.03.22 up
またも純然たる短編じゃない・・・(^^ゞ。日記5と繋がっています。けど日記ではないのでこちら。
自転車盗は東京都では年間約6万件!が認知されています。鍵を2つ掛けましょうね。
友達が乗ってった自転車はどうしようとか、何てタイトルだよとか、突っ込みつつでもこれで^_^;。