リクエストのご期待に、添えておりますように祈って。
おこづかい
「う〜ん、足りない、よねぇ・・・?」
あたしは財布を眺めて溜息をついた。そうたいした額じゃないんだけど、足りないものは、足りない。
そういえば今月は結構、文庫本買っちゃったんだよねぇ。
新しいシリーズ買い漁ったら、前からのお気に入りの新刊を買うお金がなくなっちゃった、っていう。おこづかいは有限なんだから当たり前ではあるんだけど、ちょっと間抜けな状態に至ってるわけ。
うっかりしてたんだよね。
新刊が出るの、今月だったって気づいたのが一昨日。んで、明日が発売日。
来月のおこづかいをもらえるまでは、たっぷりあとまだ一週間はある。
あー、どうしよ。待ちきれないし・・・だいたい、待ってたら売り切れちゃうのよ、あれは。
売り切れたらお取り寄せよ?そしたら、半月以上は待つ羽目になる。
待てないよ!けど、ねぇ。
前借りなんてすれば当然理由を聞かれるし、隠すほどじゃないけどわざわざ言いたい理由でもない。
そもそも三咲兄あたりの耳に入ったら、ちゃんと計画立てて使わないあたしが悪い、なんて言われちゃう。
うゎぁ、一週間くらい我慢しなさい、って言う三咲兄の表情が目に見えるわ。
前借りなんて良くないって母さんが説得されちゃうくらいで済めばまだましだけど、
下手するとお仕置きなんてことにもなりかねない。
(だってあたし、一週間も待てないし!けどそれ言うと、うわ、それから、・・・はぁぁ。)
うぅ、やな想像しちゃったよ。冗談じゃないよねぇ。
とにかく、前借りのセンはなし。三咲兄になんて論外だし、母さんに借りるのも危険だよね。
うちの母の辞書には、口止めなんて言葉はないのよ。
「あら、そお?」なんて話してるうちに最終的に三咲兄の耳に入るのは火を見るよりも明らか。
あのほんわりした母さんからどうして三咲兄が出てくるのか、ほんと謎だわ。
だいたい口止めしようとした、なんてことが知られるのはそれだけでリスク高いわよね。
父さんは週末まで帰ってこないし、それじゃ意味がない。
陸兄に小説買いたいからって言うと、「はぁ?」とか言われそうな気がするんだ。
それ、いやなんだよね〜。陸兄は、ぜんぜんまったく小説読みじゃないのよ。
さてどうしたものだろう。
だめもとで当たってみるか、あきらめるか、どっちかしかない事は分かっていつつ、
決めかねてあたしはやっぱり財布を見ながら溜息をついた。
あ〜あ、買いたいなぁ。
そんなことばっかり考えてること自体、ちょっとみっともないかもって思わないでもなかったんだけど。
お財布を一度は鞄に放り込んだものの、どうしてもその存在を気にしながら宿題を片付けてたあたし。
ふと図表を借りに入った陸兄の部屋のベッドの上にお財布が転がっているのを見かけたときには、ちょっと目の錯覚じゃないかと疑った。
「あ・・・お財布」
うわ、ちょっと、待て、あたし、何考えてるのよ。
・・・・・。陸兄、さっき出かけた、よね?
陸兄のお財布は、やっぱり男のひとのらしくて大きくて。
あ、結構重いかも。
だから、ちょっと待ちなさいってば。でも。
思わず、手に取ってしまう。
開けてみると、千円札が何枚かと、それから小銭が案外たくさん。
うわやばいって、人のお財布勝手に開けてる時点でなんか一線を越えちゃってる気がする、けど。
けど。えっと。これだけ硬貨がたくさんあったら。
千二百・・・や、五、六百円くらいはありそうな感じ。
うわ、えっと。
陸兄、気がつくかなぁ?
あたしのお財布の中の残額は、現在、二六八円。
文庫新刊のお値段は、そりゃ厚みによって変わるけど、まあ五五〇円あれば大丈夫だよね。
だよねって、いや、だから、その。
うん、たぶん気づかれないと思うんだけど。来月おこづかい貰ったら、返せるし。
あの、その?
・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
あたしの掌の中に百円玉をみっつ握り締めちゃうことは、そんなに難しいことじゃなかった。
そしたら、そのあと慌ててお財布を閉じちゃうことも簡単だ。
お財布をベッドの上に放り出して、それで、えっと、あたしここに何しに来たんだっけ。
しょっちゅう借りてる図表を本棚の中から探し出すことは何故か今日はそう簡単じゃなくって、
でもって陸兄の部屋を出てあたしの部屋に戻るのは。
・・・・・不幸にして、あたしはそれを実行することが出来なかった。
「あれ、兄貴?双葉か?」
ばたばた、と階段を駆け上がってきて、ドアを開けながらこっちにかけられる陸兄の声がして。
「どーした?ってそれより、双葉、俺の財布知ら・・・・あ、ここだったか」
よかった、じゃあまた後でな、って言いながらお財布を掴んでまた部屋を出ようとした陸兄は、ふっとあたしの顔を見てぎょっとしたように立ち止まったのだった。
「双葉?おい、どうした?」
「・・・どうもしてないよっ!」
あたし、今どんな顔してるんだろう。
こんなときのあたしの顔を、もちろんあたしは見たことない。
陸兄が気にして立ち止まるような表情を、いまのあたしがコントロールできるわけもなくって、陸兄はもう一度心配そうに尋ねてきた。
「双葉?」
やだ、あの、やめてよ陸兄。そんなふうに優しい声を掛けられたくない。
あたしは思わず図表を持っていない方の手をきゅっと握った。
硬貨がきし、と擦れる音が、あたしの耳には確かに聞こえる。
「双葉、」
「どうもしてないからぁ・・・」
下を向いてか細い声でそんなことを言った日には、陸兄にしてみれば何かあると思うしかない。
そんなことはわかってはいるんだけど、だけどあたしにはどうにもできなかった。
陸兄は、ちょっと途惑ったようにやさしくあたしの腕を掴んで引き寄せた。
掴まれた方の手をあたしはさらに固く握り締める。
後ろに隠したいって本能には抗えなくて、けどそういうどうにもならない動きはもちろん陸兄に気づかれることになって。
ベッドに掛けた陸兄の大きな手はいつの間にか自分の財布を手放してて、代わりにあたしの握りこぶしを包んでいた。
指の色が白くなるくらい強く握っていたあたしの手だけど、お兄が包み込むようにした両手がゆっくりあたしの指を開いていくと、あっけなくあたしの力は抜けてしまって。
開いた掌の上にはさっきの百円玉がみっつ。
陸兄はまだちょっと状況が飲み込めないでいるみたいで、あたしは陸兄の顔が見られないでいて。
すこしだけ、そのまま時間が流れた。
「双葉、これって」
「いいじゃんたったの三百円くらい!」
まだ具体的なことは何も聞かれてないのに、何を口走ってるんだろ、あたし。
あたしの返事に陸兄は、ちょっと怒った声を返す。
「思ってもないこと言うなよ、双葉。そんな声で」
そんな声って、どんな?あたしがその答えを見つける暇もなく確認されてしまう。
「・・・・・これ、俺の金なんだ?」
「ど、どうだっていいじゃない、そんなこと・・・」
それでも尋ねる直前に陸兄は一瞬躊躇したとか、わかってしまったりするんだ。
陸兄は溜息を、ううん、息を溜息だとあたしに思わせないようにゆっくり吐き出して、そしてあたしを膝の上に倒してしまった。
「や、やだぁ・・・」
言いはするものの、暴れることも逃げることもどうしてもできない。
その体勢のままぱか、と陸兄が携帯を開く音がした。
「あ、祐樹?悪ぃ、今日ちょっと行けなくなった。ごめん」
や、あの、お出かけくださって結構なんですけど、お兄様。
そう言いたくもあるけど涙声が携帯の向こうに届くのは謹んでご遠慮したい。
結局あたしはまた携帯が閉まる音がするまで黙っているほかなくって、で、その後はそんなこと言い出す余地もなかった。
ぱしぃぃん!
スカートも下着もあっという間に除けられて、陸兄の大きな手がお尻で弾ける。
ぱぁぁぁん!
「いやぁ!痛ぁい!」
さっきからもうほとんど泣きかけだったあたしが泣き出すのには、数秒とかからなかった。
ぱちぃぃん!ぱぁあん!
「やだよ、やだ!」
我ながら、他に言うことないのかって思うけど。
ぱしぃぃん!
「や、やだぁ、痛い、止めてよぉ」
そんな言葉で止めてくれるわけないって、充分わかっているのにね。
ぱちぃぃん!ぱぁぁん!
「やだよぉ・・・。・・・陸兄、出かけたらいいじゃん。用事あったんでしょ?」
だからだから。そういうこと言っても意味がないのに。
「放っとけるわけないだろ、そんなふうに泣いてるくせに」
けれどあたしが意味がないと自覚している言葉には、陸兄の答えが返った。
「な、泣いてないもん・・」
だから、もう。自分が呆れるくらいの言葉には、陸兄からもちょっと呆れた声音で返る。
「どの面下げてそういうこと言うんだ?・・・泣いてないなら泣かせてやるよ」
ぱしぃぃん!ぱしぃぃん!
「やだぁ!」
ぱちぃぃん!
言うまでもなくあたしはとっくに泣いている。
ぺちぃぃん!ぱちぃぃん!
「やだ、だって、だってこれくらい!それに、返すつもりだったもん」
ぱちぃぃん!
言えば言うだけ口の中が苦いって、そう思うのに。
当たり前なんだけどひときわ強く、引っぱたかれた。
ぱしぃぃぃぃん!
「これくらいなら別にいいって、思ってるのか?」
ぱちぃぃん!
聞かれて当然なことを聞かれる。そして返事は出来るはずもない。
不思議なことに、というか怖いことに、か、尋ねる陸兄のその声は、むしろ静かだった。
ぺちぃぃん!
「・・・・・。」
別にいいなんて少しも思ってないけど。
ぱちぃぃん!
「だって、もう・・・、やだもん・・・」
ぱしぃぃん!
「まあ確かに、返してくれるつもりだったんだろうけどさ。だから?」
ぱしぃん!
ふぇ・・・・。
「・・・・・。」
だからって言い訳にならないなんてことは、もちろんわかってた。
ぺしぃん!
黙り込んだあたしに、ふうっと陸兄は息をつく。
「双葉、あのなぁ。思ってもないこと言うんじゃねぇよ」
ぱぁぁぁん!
声がすっごく厳しくなって、お尻ももう我慢できないくらいに痛い。
「言うことあるだろ、言いたいこと」
ぱあぁぁん!
言いたくなんか、言いたくなんか、ないよっ!
「・・やだぁ!言いたくなんか、ない・・・」
「あー、まあそりゃそうか、ってそうじゃなくって、・・・そのこと!
言わなきゃ苦しいままだって、分かってんだろ?」
・・・・・・。
ぱあぁぁん!
「分かってんなら、ちゃんと言えよ。で、思ってもないことなんか、言うな」
ぱちぃぃん!
「だって、泣くほど苦しいんだろ?俺がひとことも何も言う前からさ」
・・・・・。
違うもん、痛いから泣いてるんだってば!
そんなふうに言えたら、それを自分でほんとに信じてたら、いいのに。
陸兄は突っ込むところを間違えなかった。
ぱしぃぃん!
「俺はお前が、思ってもないこと言ってるから怒ってる。分かってるか?」
・・うぇぇ。
あたしの信じてない言い訳を、陸兄が信じるなんてあり得ない。
ぱちぃぃん!
「分かってることを、ちゃんと言えよ。言ってから泣いてろ」
ぱしぃぃん!
「・・・でも、だって・・・」
ぱちぃぃん!
「うぇ、やだぁ・・」
ぱぁぁぁん!
「やだ、痛い、分かったよぉ、言う、言うから!」
ぱしぃぃん!
「ふぇっ、えっ、ごめっ、ごめんなさい、陸兄!
少しならいいなんて思ってないから!ごめんなさい!」
ぱちぃぃん!
もういっこ強く叩かれて、それから陸兄は手を止めて何も言わずにあたしの髪の毛をくちゃくちゃにした。
あたしは顔を陸兄のベッドに埋めながら、たくさん泣いた。
思いっきりわんわん泣いてから少し落ち着いて顔を上げると、
陸兄はあたしの顔を見てほっとしたような表情を見せた。
何で陸兄がほっとするのかな?たぶんあたしの顔には疑問符が浮かんだに違いない。
陸兄は起き上がったあたしの髪の毛を手で梳いて、そうしながら言った。
「そういう顔してろよ。さっきみたいに泣くのはもう勘弁してくれ」
「・・・・さっきみたいって、どんな?」
もちろんあたしはその顔を見たことがない。
それでも、聞きはしたけど陸兄が言いたいことは何となくわかった。
あたしがわかったことが何故か分かったらしい陸兄は、小さく笑って答えない。
代わりに、「もうしないな?」って確認してくるから、あたしも「うん、」と陸兄の目を見て頷いて返す。
涙が乾いたころに陸兄はその三百円を貸してくれようとしたけど、
あたしは散々迷った末に、でもやっぱり断った。
借りてそして明日買って読んだら、たぶん、小説とこの記憶が切り離せなくなるから。
来月買ってもそれはもうそうしかならないかもしれないけれどね。けど、それでも。
ついでに、なじみの本屋さんは「じゃあお取り置きしておきましょう」って
素晴らしい解決策を教えてくれた。そうか、そういう方法もあるのか・・・。
それでもちろん、おこづかいを貰った日にすぐさま買って読んだわけなんだけど。
よかった。すごく好きだから。
ほんとに、盗んだお金で買ったりしなくてよかったって思うのだった。