実りの秋のひとつの果実
「ユイちゃん、聞いたかい?村長さんとこにあの指物師さんが来たって」
「えぇ、本当かね。それじゃあ早速ちょっと行ってみなけりゃ。
今年は何日ぐらいおられるんだい?」
母さんと近所の小母さんの話を耳に挟んだとき、そもそも俺は指物師、ってのが何をする人かも知らなかった。
「母さん、指物師って?村長さんのところに誰が来てるの?」
聞いたら母さんは少し目を丸くして笑い、それから教えてくれた。
「あれ、あんた知らなかったかい?・・・ああ、前にいらした頃はまだ子供だったもんねぇ」
聞くとそれは確か4年前のことだそうで、4年前だったら俺はもう十二、そんなふうに言われるほど子供じゃあないと思うんだけど。
「指物師さんってのは箱、箪笥みたいなのとか机とか棚とかそういうのを作ってくれる人だよ。
ああでもあの人はそれよりも彫り物がすっごく上手いんだけどさ。
あんたも何か飾り物でも買っておくかい?そのうち贈りたい誰かが出来るかもしれないしねぇ」
母さんは俺をからかい、そういう意味では確かに4年前の俺は(いや今でも)子供だけれど、と俺は少しむくれた。けど細工物にはかなり興味があったから、覗きに行ってはみようと決める。うちの父さんだって俺だって、自分の家で使う程度のものなら自分たちで作るけど(それに俺は結構そういう手仕事は好きだったりする)、母さんたちが騒ぐからにはやっぱり出来が違うんだろう。
そうしてはじめてリオさんに会ったとき、リオさんは向かいのおばあが頼んだというちいさな像を彫っているところだった。リオさんの手から生み出されつつあるその像は、一瞬で俺の目を釘付けにした。
「それ、向かいのおじい?」
向かいのおじい、つまりおばあの連れ合いは、去年の暮れに亡くなった。
おばあはたぶん、リオさんに仏像を頼んだんだと思う。
それは穏やかでちょっと厳しくてでも優しくて、目の前にすると背筋を伸ばしたくなるような、そして静かな、ひとではないもっと厳かなものだったけど、でもどことなくおじいの面影を残していた。
俺の声にリオさんは手を止めて。
道具を置き、彫りかけた木屑を払ってその像を眺めると、穏やかな顔で俺のほうを見た。
「こんにちは。これ、リョウさんに見えますか?」
リョウさんってのは、おじいの名前だ。
「うん。おばあは喜ぶと思うよ」
リオさんは嬉しそうに少し笑って言った。
「そう仰っていただけると、嬉しいですね」
そして名乗って(この指物師がもちろんリオさんだ)それから俺の名前を聞いたんだ。
結局その日の午後、俺はずっとリオさんに張り付いていて、リオさんの彫るのを眺め、リオさんの求めに応じてリョウさんの話をしたりした。午後遅くに出来上がった仏像にもちろんおばあは喜び、リオさんも満足そうだった。
その日から俺は暇を見つけてはリオさんのところに通った。もう収穫祭も過ぎていたから俺の方は日々の仕事もあんまりなかったし、一方で今年は結構豊作だったからか4年ぶりなんて間の開き方のせいかリオさんの予想以上に仕事の注文はあったらしくて、俺は思う存分リオさんの仕事を眺めた。あんまりしょっちゅう覗きに行っていたからちょっとした手伝いとか話相手になったりとか、そしていろんなものを見せてもらった。
リオさんは最初の日みたいに頼まれて何かを彫ることもあるし、机や椅子の修理にも行く。作ってきてる飾り物なんかを売ることもあるし、家に合った戸棚を頼まれたりもしていた。
リオさんの作るものは俺が作れるものとそう違わないように見えて、全然違う。
箱や引き出しにしても滑りがすごく滑らかだし、木目が綺麗。
動物の置物なんかにもちょっとした怖さや愛嬌があって、見ていて飽きなかった。
そうしてかれこれ十日ほども過ごしただろうか、ついにリオさんが村を離れる日が来て。
次はいつ来るの?と尋ねたら、3年後くらいでしょうか、という返事だった。
その返事と一緒に、リオさんは少し笑って、俺にちいさな胸飾りをくれた。
それは小花がたくさん散ってる可愛らしい髪飾りで。
そのうち必要になりますよっていうリオさんの含み笑いはともかくとして(どうして大人ってこんなことしか考えないんだろう)、リオさんが俺の幸せを祈って彫ってくれたってことは分かった。眺めつくしたリオさんの在庫の中にはこれはなかったから、いつの間にか知らないけど、わざわざ彫ってくれたんだ。
「ユウ君のおかげでとても、楽しく過ごしました。ありがとう」
「リオさん・・・あの、えっと、ありがとうございます」
その小花は、ほんとに幸せを招くように笑っていて。
急に別れが現実になったのと小花の愛らしさに俺はうろたえて、村長さんとかほかの人たちがリオさんと話している間にその場を逃げ出した。
その小花。ごくシンプルで俺でも彫れそうな、でも絶対こんなふうには彫れない可愛い小花。
・・・彫れない、かな。
自分で思ったその疑問に、俺はどきっとした。
それでそれがホントは疑問じゃないことに気が付く。彫れない。今は確かに彫れないけど。
けど、・・・彫りたい!
ざわざわした胸の奥で激しく何かが主張して、俺は手の中の髪飾りをぎゅっと握り締めた。
この飾り物もそうなんだけど、・・・おばあの顔を思い出す。
あんなふうに。あのおじいの面影、おばあの笑い顔。
いま俺の手の届かない何か、おばあを俺を、受け取った人の心をきゅっと揺り動かす何か、そんな何かをつくることができるって。
それってすごくて胸が騒いで、そんな何かを作れたらってどうしようもなく思った。
何かに突き動かされて俺は飛んで帰ると、こっそり身支度をして家を出る。
皆に見送られて村を出て行ったリオさんの後を、山道を辿って付いていった。
このあたりは当然俺たちの縄張りだから、街道を行くリオさんに気付かれないように山の中を進むのはそう難しいことじゃない。うん、いつまでも隠れてついてく訳にもいかないことはわかってたんだけど、あんまり早くリオさんに見つかるとすぐに村に帰されちゃうと思ったから。
冷静なんだかそうでないんだかよく分かんないよな。
そろそろ日の沈むのも早くなってきた時分。この感じだと山を抜けて隣の集落に着くのはぎりぎり日暮れ前ってところだ。
山道も村から離れれば離れるほどだんだん勝手が分からなくなってくるから、リオさんから少しの距離をとって街道と付かず離れずくらいのところを進む。そろそろ山を抜けるのも近くてこうして進むのも無理があるかなと思いはじめたところで丁度街道は水の飲める沢に行き当たり、リオさんは足を止めた。
せせらぎの音、雁の声。あたりには人気はなく、リオさんは荷物を下ろして喉を潤した。
俺も後で水を飲もうと思いながら眺めていたら、リオさんは不意に振り向いた。
「ええと。付いてくるのはどなたです?」
あれ。気付かれてたか。
いまさら隠れても仕方がないのでざわざわと下草を分けて出て行くと、リオさんはやっぱり、と思いながらも驚いたような。分かりやすいけど複雑な表情をした。
「ユウ君、」
「あの、リオさん!」
俺はリオさんに先に何かを言われたくなかったから。何か言われるんだったらどうして付いて来たのかとか早く帰りなさいとかきっとそういうことだと思ったから。
「俺を弟子にしてください!」
畳み掛ける勢いで言ってしまって、それからちょっとお互い言葉がなくて、水音だけが聞こえていた。
ちょっと経って。息を詰めてた俺に、ふうっとリオさんは肩の力を抜いて少し微笑んだ。
そして俺を手招き、俺たちは隣り合わせて岩場に座る。
それからもう一度リオさんは真剣な顔つきで俺の目を見、俺もじっとリオさんを見返した。
リオさんの視線に負けないように、まっすぐ。
それからいろんな質問が降ってきて、なんだかすごくたくさんのことを話した。
リオさんの、あの仏像やこの小花を見て思ったこと。うちの家族のこと、いまの俺の仕事のこと、今まで家で作ったことのある細工のこと。追っかけてきたときの気持ちとか、何をしたいのかってこととか、それからそれから。
たくさんの質問にたくさんの答えを返して、そして。
こればっかりは答えたくなかった一つの質問、でも聞かれないはずもなかった質問が降ってきた。
「ユウ君、ご両親のお許しを得て出てきました?
あなたが今ここにいること、ユイさんやコウさんはご存知ですか?」
正しい答えはもちろんいいえ、だ。
でもそれを言ったら追い返されちゃうと思った。
俺は一瞬言葉に詰まる。
まあ後から冷静に考えたら、詰まった時点で白状してるようなものなんだけどさ。
でもどうしても追い返されたくはなかったから、「大丈夫です」って言おうとした。
だけど。
リオさんの穏やかで真剣な目。
俺はさっきまで、リオさんの彫り物にどんなに憧れてどんなに彫りたいかってことを一生懸命話した。リオさんは同じ真剣な眼でそれを聞いていてくれたんだ。
喉まで出掛かった言葉が引っかかって止まる。
リオさんはじっと俺を見ている。
ひとつ嘘をついたらさっきまでの全部が嘘になってしまうような、そんな気がした。
追い返されたくないんだけど。
けど。だけど。
・・・・・。
何も言えなくて下を向いてしまった俺に、リオさんは何も言わずに手を伸ばした。
髪が撫でられるのを感じる。そろそろ冷たくなってきた秋風に、リオさんの手は温かい。
おずおずと顔を上げると、リオさんは優しい、でもやっぱり真剣な眼で、黙ったまま俺の言葉を促した。
「・・・・・。黙って、出てきちゃったけど。
でも、お願いします!連れて行ってください」
言えることと言いたいことははっきりしていた。
掛け値なしに本当のこと。
口にしてからすこし、怖くもなったけど。追い返されたくない、けど。
心配してるだろうな、母さんと父さん。他のみんなも。けど。
けど俺は、リオさんの弟子になりたかった。
・・・・・。
もう言うことなくって、俺はリオさんの返事を黙って待つ。
リオさんは優しい目でゆっくり頷いた。
「もちろん今は連れて行ってあげられませんよ、ユウ」
たぶん俺の目の色が翳ったのに、リオさんは宥めるように微笑んで言葉を継ぐ。
「でも、いいでしょう。ユウ、あなたはいまから私の弟子です」
「ほんとに?!」
嬉しくて叫んだ俺の言葉は、考えてみれば結構失礼なものだった。
リオさんは嘘をつかない。
笑ってもう一度頷いたリオさんは、ユイさんたちのお許しを頂きにいかなくてはね、と呟いた。
「ありがとうございます!」
それにしても今日はもう戻れませんね、リオさんはそうも呟く。
確かにもう日は落ちかけて、いまから山を越えて戻るのは到底無理な話だった。
呟きと一緒に、微かに溜息が洩れたみたいだった。
すこしの間をおいて、リオさんは俺の顔を見た。
それは何だかきっぱりとした表情。溜息も飲み込んで、笑いも飲み込んで、まっすぐ訴えるような。
真剣な眼であることには変わりなかったけど、さっきまでの眼と同じでもなかった。
「ユウ、彫りをしたいというのはあなたの真摯な望みだけれど。
でもそのために、ユイさんやコウさんに心配をかけていいわけではないでしょう?」
・・・。俺は少したじろいだ。そろそろ日が落ちるから、母さんは心配し始めるだろう。
リオさんは「あなたの」と明瞭に発音し、それはずきっと胸に応えた。
俺はどうしても来たかったけど、リオさんの弟子になりたかったけど、けど一方で。
自分の望みのために人を傷つけるのは、身勝手としかいいようがない。
リオさんの視線と口ぶりが、気付かないことにしていたそういう当たり前を思い出させる。
返す言葉がなくて、俺は困った。
言葉のないままリオさんのまっすぐな視線に捕まっている俺をリオさんはそっと抱き寄せて、一瞬温かいと思ったその次には、俺はリオさんの膝の上に倒されていた。
え?・・・わ、ちょっと!
ぱしん!
「痛ったぁ!」
これって、これって、俺いま尻を打たれてる?
ぱしん!
「や、やだ、ちょっと、リオさん!」
ぱしん!
嫌だ、と騒いだら静かに返事が返ってきた。
「ユイさんやコウさん、村の皆さんに心配をかけて悲しませた罰ですよ。
してはいけないことをしたって、ユウ、あなたは分かっていますよね」
ぱしん!
う、そりゃ悪いと思ってるけど。けど、痛いし、恥ずかしいって。ここ外だし。
「この時間から山に入る人はいないでしょうから。今夜、村の中で叱られるのも嫌でしょう?」
え、・・・。そ、それは、それも嫌かも。でも!
ぱしん!ぱしん!
服の上からでも、十分痛い。
だいたい俺は自分の家でもこんなふうに叱られたことはなくって、リオさんの膝の上から下りようと必死になった。
それなのに、リオさんはそんなに力強そうにも思えないのに。どうしたって逃げられない。
「ほら、暴れないで」
「だって、痛い!」
俺の抗議にリオさんは頷いた。
「ええ、痛いでしょう」
ぱしん!
痛いでしょう、って言われてもさ。確かに痛いんだけどさ。
どう反応していいか分からない俺にリオさんは手と一緒に言葉を続ける。
「ユイさんに痛い思いをさせたでしょう?だから我慢なさい。
ユイさんはきっとあなたを許してくださるでしょうが、傷つけたら、取り返しはつかないのですよ」
ぱしん!
・・・・・。
別に俺、母さんに手を上げて出てきたわけじゃないけど・・・。
ってもちろん、リオさんが言いたいことがそんなことじゃないのは分かってる。
きっとすごく心配してる。たぶん帰ったら叱られるんじゃなくて泣かれるくらいに。
傷つけたくてそうしたわけじゃないけど、けど。
ぱしん!
痛かった。泣きたくないけど、じわじわ涙が溢れるくらい。
「・・・痛いよ」
「ええ」
こんなに痛くされてるのに、リオさんの声は優しい。
こんなふうに、ううん、これよりもっと母さんは、心配とか不安とかで苦しい気持ちを抱え込んでいるだろう。
・・・。ごめん、って。いま母さんに伝えることができたらいいのに。
「ごめんなさい」
リオさんに言っても仕方のないことだっていうのは分かってたけど、でもどうにもならなくてこっそり俺は呟いた。リオさんの聡い耳は聞き逃してくれたりしなかったけど。
「ええ」
ぱしん!
もう幾つか叩かれて、そして不意に手が止まった。
俺が起き上がろうとすると、途中できゅっと抱きとめられる。
日がもう今にも落ちようとしていて、風ははっきりと冷たく、そしてリオさんは温かかった。
「ユイさんたちは、あなたの無事を喜ぶでしょう」
そうだと、いい。ううん、それは確かにそうなんだ。
それで今日の心配が取り消されるわけじゃ決してないけど。
「ユウ、あなたは素直で優しい。忘れないで」
彫りたいという気持ちも、傷つけた後悔も。嬉しいことも苦しいことも、きょうの全部を。
嘘を混ぜない、あなたの素直な気持ちを忘れないで。
あなたの彫るものは、あなたを表しますから。
冷たい秋風の中でリオさんの言葉は胸の奥から俺を温めた。
リオさんこそが優しい。
だってリオさんのその言葉は、傷つけた俺をもどこかで認めてくれる言葉だったから。
だから忘れたりしない。なかったことにもしない。
それだけに二度とできない―――しないんだ。
俺を抱きしめてるリオさんの腕は、細いのにきゅっと頼りになる腕で。
きょうを思い出すとき、たぶん最初に浮かぶのはこの温もりだろうと俺は思った。
2007.7.21 up
リオさんは指物師ではないのだけれど、実用主義の小母ちゃん達からみればそうなるかと。
ふたりの馴れ初め(違)。
リオさんは秘かにユウ君を試したりからかったりしています^_^;。