翡翠のはばたく夏の空

俺の彫り上げたカワセミを見て、リオさんは少し困ったような顔で首を振った。
「もう一度。ユウ、もう一度彫っていらっしゃい。
 あなたが本当に納得したものしか、私は見ませんから」

ぐっと俺は返事に詰まる。これでも、精一杯仕上げたつもりだったから。
この出来に納得しているかと言われればそれは確かに否なんだけど、けど、もうどこに手を加えていいかわからない。
実のところこのカワセミに駄目出しされるのはもう十数回目で、結果、手ばっかり早くなった俺がいる。はじめのうちはリオさんもここは二番の刀で彫った方がいいとか羽根の流れはどうしろとか具体的な指摘をしてくれてたんだけど、ここのところはずっと「やり直し」と言われるだけだ。

しかも腹立たしいことに、やり直させられる理由は分かるんだ。や、どこをどーしたらいいかは分かんないけど、とにかくいまいちだってことは分かる。
だから俺はリオさんに、反論することができない。
でも素直にもう一度はじめから彫り直せるかっていうと、・・・いや、彫り直すんだけどさ。それには相当な自制心を必要としたりしていた。

「ユウ?返事をしてくださいな」
・・・。
「・・・は、い」
俺は努力して答えて、リオさんの前から下がった。リオさんがかなり心配そうな表情で俺を見ていたことには気が付かないままに。
もう一度まっさらな木に、鑿を入れる。
集中しようと思ってはみても、悔しいとか苛々するとかどうしたらいいか分かんないとか。
そういう思いをいっぱい抱えたまま彫りを仕上げるなんてのは、俺にとって十二分に難しいことだった。

そうして数日。リオさんのところに到底持ってはいけない品を3つ4つ彫ってしまい、いい加減凹みに凹んだ挙句に。
昨日までのことは忘れようと努力して、どうにか自分を宥めながら今日一日かけて彫り上げたそれは、満足のいくものかといわれたら微妙だったけど少なくとも狂いなく仕上がってはいた。

どうしようか、と俺は考える。
いままでみたいなあからさまな失敗作なら悩むこともないんだけどさ。
・・・悩むくらいなら芯から納得いってはいないのだという単純な事実には、俺は心のどこかで気付いていたけど目を瞑っていた。

で。

「ユウ、あなた本当に、これで出来上がりでいいんです?納得しているのですか?」
・・・・・。

結局そのカワセミを俺たちふたりの間に置いて。
じっと俺の顔を見据えるリオさんの静かな視線を、俺は受け止め切れなかった。
カワセミも少し拗ねたように俺を見ている。
今度リオさんの表情は、困ったようなと言うよりはもっと厳しかった。ちょっと、怖い。

「ユウ、答えなさい」
黙ったままの俺にリオさんは答えを迫る。
眼を合わせることが出来ないってことはそれが即ち答えで、そんなこと聞くまでもなくリオさんは分かっているはずなのに。
それでも、こんなふうなリオさんの聞き方に、答えずに済ませられるわけなかった。

答えなきゃ。そうは思うものの、素直には口は動かない。
そんなに、出来悪いかな。

別段、輪郭に崩れはない。一つ一つの部分も、それはそれなりに丁寧だ。
なんせ全体としては狂いはないってつもりで持ってきたんだ。
・・・ほんとにそう思うなら、リオさんの眼を見て言えそうなものなんだけどさ。

だって俺はこれを仕上げるためにそれなりに、どころか相当に苦労した。
もう一度やり直したからって、これよりましに出来る気はしない。
いいえと答えてまたこのカワセミとお付き合いするのもうんざりだったし、どうにかここまで頑張ったってのも分かってほしかったし、っていうかもうこれ以上、無理。
それにリオさんの聞き方が、俺の気持ちひとつで答えられるものだったことも俺をそそのかした。俺が納得してれば、それでいいんでしょ?

「・・・・・。いいです。納得してる」

「ユウ!」

言った瞬間に俺自身、後悔と開き直りの両方を感じたんだけど。
リオさんの声は、叱責というよりは悲鳴のようにも聞こえた。

思わず見たリオさんの顔は、うろたえたような後悔したような感情を映してる。
何で、リオさんが?
「ユウ、本気でそんなことが言えるのだったら」
リオさんは何か言おうとして途中で止めた。
何を?
俺が考える暇もなく、いきなり膝の上に引き倒される。

「や、リオさん、嫌だ!」
ぱしぃぃん!
力任せに尻を打たれて、そんなこと初めてで俺の方もこれまでにないくらいに喚いた。
だってすごく嫌だったんだ。訳もなく、怖い。
「リオさん、嫌だ、止めて、痛いって!」
ぱしぃぃん!

リオさんは答えなかった。いや、答えてくれようとしたのかもしれなかった。
「ユウ、あなたは」
ぱしぃぃん!
俺の名を呼ぶリオさんの声はいつになくか細くて、そして震えて先に進まなかったんだ。
ぱしぃんっ!結局リオさんは黙ってその手だけを動かす。
「リオさん・・・!」
ぱしぃぃん!ぱしぃぃん!
「リオさん、・・・やだよ・・・」
ぱしぃん!

俺の声の方も震えて、それどころか勝手に溢れてくる涙が鼻に詰まって、声を出すのも苦しいくらいだったけど。
ぱしぃぃん!
「リオさん、お願い、もう、叩かないで」
喉から言葉を絞り出す。
そのときにはもうそれは、痛かったからじゃなくて。
っていうか痛いとか痛くないとかそんなこと考えてる余裕はなかった。
俺に分かったのは、リオさんがほんとに怒ってるってことだけ。

・・・・・俺いままでリオさんに何度も何度も叱られて―――注意されてきたけど、
こんなふうにリオさんを怒らせたことって、たぶんなかった。

「リオさん、お願い」

何て言ったらいいんだろう。
俺の言葉に、リオさんは怒ってる。

怒らないでって言いたいんじゃない。
だってリオさんは怒ってて、理由もあって、俺のせいで。
怒ってる理由が分からないなんてことはない、残念ながら。
・・・じゃあ何て言う?
ごめんなさいとは、言えなかった。

だっていまそれを言えば、それは口先に過ぎなくて。
これ以上にリオさんを怒らせて悲しませるのは、だめだ。
なんて言っていいか分かんない。けど、何か。

ぱしぃん!
「・・・リオさん!」
手を止めてほしかったのは、ほんとは、リオさんに話してほしかったから。
だって、俺はどうしたらいいか分かんないんだ。
いつもみたいに、リオさんが言葉で、教えてくれたら。
ほんとは、そうしてほしかったんだけど。

でも、それでも。そうじゃなくても。リオさんが聞いてくれるのだったら。
それだけでも有り難いことのはずだった。
リオさんを怒らせて悲しませたのは、俺の言葉だ。
ぱしん!

リオさんの手が止まる。
「ユウ、・・・・・何を言うつもりです?」
まだ震えていた声。そこに俺が感じ取ったのはリオさんの不安だった。
痛い。
だって俺に言いたいことがあるって分かってくれているのに、リオさんはその内容を危ぶんでいる。
それは確実に俺のさっきの言葉がもたらした結果で、俺の心も竦んだ。

それでも、それだから。何か言わなきゃ。
何を言えばいいか、まだ分からなかったけど。
分かってるのはリオさんの眼を見て言えるような言葉じゃなきゃいけない、ってことくらい。

手を止めたリオさんは、俺を立たせてくれていた。
言いたかないけどそれ自体、すこし淋しいと思う俺を自覚する。
けど、抱いて――あるいは撫でて――要は甘えさせてくれなくて淋しいなんてこと、
・・・・・。言える訳ないし、いまそれは無理。
俺とリオさんはすれ違っていて。そしてそれをどうにかしたくて見つめあっている。

リオさんの眼。
不安とか、後悔とか、そんな感情に溢れてるいまのリオさんの眼。
そうさせたのは俺で。
涙でいっぱいだからこそじんわり滲んで、そのぼやけた視界に助けられてどうにかリオさんを真っ直ぐ見つめることができているのかもしれない俺の眼には、いま何が映ってるんだろう。

・・・・・。そ、だ。さっきも思った。
何でリオさんが後悔する?不安になる?全然リオさんは悪くないのに。
「ユウ、本気でそんなことが言えるのだったら」
さっきの言葉が蘇る。リオさん、何て言おうとした?で、何で止めたの?
リオさんはいま、きゅっと黙っていた。

「リオ、さん」
リオさんは俺を見ている。すこし不安げに、けれど眼を逸らしたりはしないで。
リオさんもかなりの努力をしてそうしてくれているってことが、よく分かった。

「リオさん、あの」
同じところを言葉が回る。もっと、言わなくちゃ。
リオさんは聞いていてくれるんだから。
リオさんが何を不安に感じているのか、何を言えばリオさんが怒りを解いてくれるのか、結局俺は分かってないけど。不安も怒りも抑えて、リオさんが聞こうとしてくれてることは分かってる。

俺が、リオさんの眼を見て言えること。
そして俺がどうにか吐き出したのは、たぶん全然褒められたものじゃなかった。

「・・・・・納得、できてなかったけど。けど、俺、もうどうしていいか分かんなくて。
俺は、ここまで彫るのもやっとだった、ん、だよ。これじゃ駄目なんだと思うけど、でも!」

うわ。言ったらまた余計に、泣けてきた。
くやしい。すげぇ悔しい。もう無理って思う一方で、でも彫ってこれなのかってのも悔しい。
それを涙と、荒い声と一緒に、リオさんにぶつけちゃう俺も悔しい。

「・・・くやしい」

それは、全然謝罪なんかじゃなかった。
だけど、どうしようもないくらいに本音ではあった。吐き出したものはここで立ち尽くしてる俺自身。
リオさんの眼を見て俺に言えたのは、そういう言葉だけだったんだ。

怖かった。またリオさんを怒らせちゃうんじゃないかって思って。
けど、ほかの言葉はどうしても嘘だったんだ。

・・・嘘でも、リオさんの怒りを解く呪文が分かっていれば言ったかもしれないけどさ。
でも、たぶんそんな言葉はありえない。
嘘じゃ駄目で。ほんとうなだけでも足りなくて。
リオさん、俺に足りないものって、いまリオさんが求めてるものって、何。
何もかもに手が届かない悔しさで、俺は拳をぎゅっと握る。

俺はリオさんを見てるけど、溢れる涙でリオさんの表情は見えない。

リオさん、どうか。何か言ってよ。

「ユウ」

数拍おいて、静かな響きが耳を打った。
リオさんの、声だ。

それは有り難かった―――嬉しかったことに、いつものリオさんの声だった。
ちょっと厳しい声だったけど。

「ユウ、もう一度彫っていらっしゃいと言ったら、彫れますか?」

はい、と。
言うのはすごく簡単で、そしてすごく難しかった。
もう彫りたくなかった。
そんな気持ちのまま「はい」と答えたら、それは嘘だ。
もう一度。もう一度、俺が納得できるまで。

ここまで彫るのもやっとで、どうしていいか分かんなくて、もう止めてしまいたくて。
彫りたく、ない。けど。
それはリオさんの願ってる返事じゃなくて、俺が言いたいことでもなかった。
だって、くやしい!

俺だって、言えるのだったら「はい」と言いたい。
納得できちゃいないんだから。
けどそれは辛くて、先が見えなくて。・・・・・。

リオさんには先が見えているのかな。
そしてリオさんの手を離して彫りたくないって言ったところで俺にその先は全く見えない。

俺は目を瞬いた。
腕でぐっと涙を拭う。リオさんの顔を見たかったんだ。
もちろんリオさんは俺を見ていたから、視界が開けばそのまま俺たちの目は合って。
リオさん。どうか俺に言わせて。

リオさんの眼には、まだ不安も浮かんでた。
けどリオさんはそれを押し込めて、俺の返事を待ってた。
不安を押し込めて―――きっと大丈夫、と自分に言い聞かせながら、だ。
引っぱたいてでも言わせたいって気持ちを押し込めて、かもしれない。

俺、すこし笑っちゃった。一緒にまた涙も、こぼれたけど。
さっき何であんなに感情的に叩かれたか、不意にわかっちゃったから。

叩いてでも俺に言わせたかった、あるいは言わせたくなかったんだと。
そう思っていいんだよね、リオさん。
それは抑え切れなかったリオさんの感情だと。

俺はリオさんの手を離したくない。そしてリオさんも。
リオさんに先が見えているのかどうか分からないけど、でも、リオさんはまだ 俺と手を繋いでいてくれるつもりだ。少なくとも、今日のところは。

だから。リオさんが待っててくれてるんだから、たぶん言える。言えるはず。
そして待っててくれてるんだから、・・・いつかは彫れる、きっと。
きっと。
俺が納得して、そしてリオさんにも納得してもらえるようなものを。

俺はまだそれを信じてなかった。けど、それを信じたかったのは本当。
だから俺は自分に言い聞かせる。・・・いつかは彫れる、きっと。
だってこのままじゃ悔しいし!
辛くないなんて言ったらそれこそ嘘だけど、いつかはと思えたら辛いばかりじゃないし、辛いことなんてないと思って弟子入りしたわけでも当然ないしさ。
何もかもを諦めるんじゃなければ、付いていくしかない。じゃなくて、付いていきたいんだってば。
だって待っててくれてて。だから。

リオさんはきゅっと黙ってることで、俺を励ましてくれてた。
不安の裏には、希望というか期待というか、とにかく絶対に何かがあるんだ。
俺の言葉に怒ったのもリオさんだけど、俺にあんなこと言わせたくなかったと後悔してくれたのもリオさんだ。
リオさんが後悔する必要なんて、ないのに。

「もう一度、彫り、ます。・・・俺が納得できるまで」

ようやく口にした言葉が、俺の心にも嘘じゃなかったことに俺も本気で安堵した。
リオさんもまた、ふうっと緊張を解いた。

俺の頬にリオさんの手が伸びて、柔らかく撫でられた。
「頑張りなさい、ユウ。あなたは確かな感性を持っていますよ」
それに従っている限り、あなたはちゃんと彫り続けられる。伸びていけますから。

慰めて、じゃない、励ましてくれたリオさんの言葉に、俺はさっきリオさんが言えなかったことも理解する。
「リオさん、さっき」
本気でそんなことが言えるのだったら―――。
「辞めておしまいなさい、って言おうとした?」
もっと正確に言えば、それだったら彫り続けられないってことかな。
こんなふうにいろいろ思う、彫る俺自身の感覚。
その自分の感覚を、俺が裏切るんじゃどうにもならない。俺が続けたいと願っても、リオさんが続けさせたいと願っても、だ。

リオさんは困ったように笑った。それは肯定の返事だった。
「ほんとにあなたの感性は、確かですよ」

リオさんは正面から俺をきゅっと抱き締めて、そして「痛かったです?」と囁いた。
俺も少し困ったように笑って、肯定しようか否定しようかちょっと迷う。
結局俺は頷いて、それから付け加えた。「でも、ああ言われるよりずっとましだ」
いやほんと、マジで。リオさんが道理を無視してでも俺の手を離さないでいてくれてほんとに。

「リオさん」
ありがとう、と言えばよかったんだけど上手く言葉にならなくて、俺は呼びながらぎゅっと腕に力を込めた。リオさんは優しく力を返してくれて、俺はこの温かさからまだ離れたくないって、心から思ったのだった。

2007.5.26 up
妄想はだいぶ暴走してますが、「お仕置き」とは似て非なるもの^_^;。
それからキーさんに心から言い訳させてみたかったとか。
翡翠はカワセミのことですが、カワセミとも読みますが、どうかヒスイと読んでください(^^ゞ。

次回は(^_^;)秋ですが、次の秋じゃなくて一年前の秋の予定です。
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