夕食を終えてちょっとひと息、ゆっくり紅茶でも入れようかなってひととき。
それであたしより先に台所へ立とうとした修ちゃんが、
キッチンのドアを開けた瞬間に声色を変えた。
「ちょっと、祥ちゃん!」
「え?・・・あ!」
しゅうしゅうとすごい勢いでお湯の沸いている音。
慌てて修ちゃんがコンロの火を消す音も聞こえる。
えーっと、えっと。お湯が沸いてたんだから、まだ空焚きではなかったよね?
その事実はあたしを慰めるのかどうかわからなかったけど、
とにかくそのとき考えたのはそんなことだった。
「・・・・・。」
固い顔でリビングに戻ってきた修ちゃんに、あたしは思わず縮こまる。
「祥ちゃん?」
「う・・・ごめんなさい」
身を竦めて言いはしたんだけど。
さすがにこれは、修ちゃんそれだけで許してはくれなかった。
「何度めのごめんなさいだろうね。
どうしても忘れちゃうから、アラームかけることにしたんじゃなかった?」
う〜、そうだけど。だってそれも忘れたんだもん。
答えると修ちゃんはふうっと息をつく。
「ちょっと厳しくしておこうか。
いくらそのとき後悔しても、繰り返すんじゃ意味ないからね」
「えぇ〜!」
抗議はするんだけど、諦めてもいる。だって、さ。
「火事になってからじゃ遅いでしょ?
そんなことにならないように、お尻に教えてあげるから」
予想のとおりのお説教。口はへの字になっちゃうけど、
修ちゃんがあたしを引き寄せるのはどうしようもなかった。
ぱしぃん!
ぱしぃん!
「うぇ・・・」
ぱしぃん!
痛いの。それはまあ全部、あたしのせいなんだけど。
やかんを火にかけたの忘れちゃって、空焚きしそうになるの初めてじゃない・・・実際、空焚きしちゃったことだって何度かある。笛吹きケトルを買ってくれようとした修ちゃんを断ったのもあたしだし(だって、あれってふた固くない?)、で、アラームをセットするっていうのが妥協点(?)になったのね。だからさ、言い訳できる道なんて、全然残ってないんだけど。
ぱしぃん!
うん、だからね。
ぱしぃん!
あたしが悪いって、思ってたつもりなんだけど。
ぱしぃん!
ごめんなさいって思ってたはずなんだけどな。
・・・・・。
ぱしぃん!
「やぁだぁ・・もう、わかってるからぁ」
ぱしぃん!
「そう?でも、もう少し我慢しようね」
ぱしぃん!
「えぇ?・・・もうやだ、それにさ」
ぱしぃん!
「なぁに?」
ぱしぃん!
「・・・・・。夏の間は、修ちゃんだって何も言わなかったじゃない」
ぱしぃぃん!
修ちゃんは、すぐに反応してはくれなかった。
や、次の一打はさらにすっごく痛かったから、まあそういうことなんだけど。
・・・・・。
ぱしぃぃん!
言うべきでないこと言ってるなんてさ、知ってるんだけど。
ぱしぃん!!
今日失敗したのは、キッチンとリビングの間のドアを閉めてたから。
そろそろ肌寒くなってきたから、無意識のうちに。
ドアが開いてれば、ずっと音が聞こえるから気付くよね。
アラームかけるって約束してしばらく経つけど、時々忘れて叱られたりしながらでもまあやってたんだけど、暑くなってきてドア開けとくようになってそのうちに。
いつの間にかすっかり忘れきっちゃってたってわけ。
そのころは修ちゃん、何も言わなかった。
でも修ちゃんがやかんをかけたときには、セットしてたような気もする。
・・・・・。
「祥ちゃん」
ぱしぃん!
手を止めないで、名前だけ呼ばれた。怒ってるよ、って伝える声。
ふぇ。
わかってるんだけど、わかるんだけど。
ごめんなさいって思ってた、はずなんだけどな。
さっき言えてたごめんなさいも、どうしてか言えなくなった。
かわりにさっきまでこぼれてなかった涙がひとつぶ。
修ちゃんはしばらく待って、けどあたしは黙ってたから。
仕方なく、なのかな。厳しい声でお説教が続いた。
「祥ちゃん、それが祥ちゃんの本音でいいの?
じゃあこれからは、いつでも決まりを守るように叱らなきゃね。
そこまでしなくてもって思ってたんだけど。
どうして叱られてるかもわからない、全然反省してない子にはそうするしかない」
反省してないわけじゃ、ないもん。・・・そのはず、なんだけど。
言いたくないこと言わせちゃってるんだろうな、って思いもするんだけど。
危ないから叱られてるんだよね。決まりを守らなかったからじゃなくって。
わかってる。
これは「いつも」「いつでも」の決まりじゃなかった。
お湯が沸いたことに気付けばいいんだから、
だから修ちゃんは夏の間は何も言わなかったんだ。
それもちゃんと、わかってる。わかってるのにね。
目的を無視して決まりにがんじがらめになる、
そんなふうになりたいわけじゃもちろんないけど。
修ちゃんがそれを望んでるって思うわけでもないんだけど。
なんであたし黙ってるのかな。
やっぱり、最初から悪いって思ってなかったのかな。
ぽろん、ぽろんと涙がこぼれる。
ぱしぃぃん!
ぱしぃん!ぱしぃん!ぱしぃん!
ぽろぽろ泣くあたしのお尻をもう幾つか黙って叩いてから。
修ちゃんは手を止めて「困ったね」とささやいた。
「祥ちゃん、僕に誤解されたままでいいの?」
ふぇ。
あたしが言うのもなんだけど、修ちゃんは甘い。
「・・・・・誤解じゃないかも、だもん」
ひたすら素直じゃないあたし。
誤解だ、って。ちゃんと反省してる、って言えばいいのに。
「そうなの?」
でも否定してくれないのは、かなしい。ああもう、なんてわがままなのかな。
修ちゃんは真面目な目であたしを覗き込んだ。
「傷ついた顔してそういうこと言わないの。
それに僕は、祥ちゃんを誤解したくない」
視線が痛くて、下を向く。
いつの間にかあたしと修ちゃんは、向かい合ってる。
「こっち見て。黙ってたら伝わらないよ。
違うか、黙ってても伝わることはあるんだけどさ、
僕は祥ちゃんに、僕に伝えようとしてほしい」
うわ〜ん。修ちゃんは何で、あたしを泣かすことばっかり言うのかな。
ごめんなさい、なんだけど。ありがとう、なのかな。
でも、わかってくれるのに黙ったままでいさせてくれないのは甘くないかな。
(当たり前、だけどさ)
伝えたい。それはあたしの気持ちでもある。そこまでくらいは大丈夫。
でもあたし、ほんとに反省してるのかな。
なんであんなこと、言っちゃうのかな。
でも反省してないって伝えたいわけじゃないよね。
言えることって、ひとつしかない。言うべきこと。
顔をあげようとする。視線が合わせられるかっていうと、微妙だけど。
深呼吸を2回して、ぎゅっと拳を握って話す。
「う〜。・・・・・ほんとは、ちゃんと、わかってる、と、思う。
言い訳して、言いたくないこと言わせて、ごめんなさい・・・」
いい子だね、ってぎゅっと抱かれて。
わかってること、言ってごらん、って優しい声が促す。
「危ないから、怒ってくれてるってこと。
だから、夏の間のことは、言い訳にできないってこと。
ごめんなさい。あたしだって、必要のないときにまで叱られたくない。
だから…変な言い訳してごめんなさい。ちゃんと気をつける、もうしない」
一生懸命言って、言った後だったら、修ちゃんと眼を合わせられた。
真面目に優しい眼差しが、あたしの胸の奥に差し込む。
その目で修ちゃんは、あたしに向かって頷いた。
「そうだね。もうしないよね。でもやっちゃったことと、言っちゃったこと、
ほんとに繰り返さないですむように、あと少し我慢しなさい」
う・・・。
あたしが頷くのを待って、修ちゃんはもう一度あたしを膝に倒した。
やだやだ、ってもちろん思うけど。我慢する。
ぱしぃん!ぱしぃん!ぱしぃん!
やっぱり修ちゃんの平手は容赦なくって、痛くって。
確かに危ないことだからさ、しょうがないとも思うんだけど。
ぱしぃん!ぱしぃん!ぱしぃぃん!
ぱしぃん!ぱしぃん!ぱしぃん!
結局あと二十、きつくしっかり叩かれた。
「十分痛い思いをしたからね、大丈夫、もうしないよ」
修ちゃんの厳しいくせに甘い言葉にあたしは頷く。
ほんとはさ、やっぱりわかんない。またやっちゃうかも知れない。
でもそういうこと言っちゃだめって、言う必要もないって、そのために修ちゃんはあたしに痛い思いをさせるんだよね。
「うん、だいじょうぶ」
だから精一杯、あたしも虚勢を張って答える。
それでいいって修ちゃんは笑った。
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