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「調子はどうかな?」薬はちゃんと飲んでる?なんて聞かれるのには、笑って「大丈夫です」なんて言っていたのだけれど。
 実際、経過観察ももうすぐ1年、体調はまったく問題ないのよね。
 だけど、聞かれたくないことを実はあたしは隠してて。
 ばれなきゃいいなって思ってる内心が顔をこわばらせてなきゃいい。
 
 「うん、顔色もいいし今日の検査結果も問題ないよ」
 聴診器を当て、看護師さんが渡したデータにも軽く眼を通して明るく言う。
 「検温記録はちゃんと付けてる?」
 はい、って差し出したそれが今日一番の難関なの。
 
 これにもさっと眼を通した先生は、動きを止めた。
 「・・・・・」
 きらっと光る眼が改めてあたしを見る。
 「・・・・・」
 ぱっと見ただけなのに。気付くの?ほんとに?嘘、でしょう?
 「白河さん、4日のこれって、36.78?18、じゃないよね?」
 
 「えっ、あの、それは、」
 何て言おう。ばれちゃってるなら隠せないけど。
 だけど、1だって言ったらそれで通るのかしら。
 1か月の体温記録、120個並んだ数字のたった一つ。
 正しい答えは7なんだけど、あたしはかなり意図的に、そして悩んだ挙句に1と7との中間くらいの数字を書いた。
 何故かって?
 基礎体温ってね、夜更かしするとてきめん上がるの。知ってた?
 
 「7なんだ?」
 あたしが躊躇った隙に先生は答えを出してしまう。
 仕方なく、あたしは声を出さずに頷いた。
 先生はさわやかな笑顔で看護師さんを下がらせちゃって、その表情のままさっくりあたしを追及した。
 
 「白河さん、聞かれたことにはちゃんと答えなさい。36.78でいいのかな?」
 う〜。
 「・・・は、い」
 口に出して答えなさい、ってことだから、どうにか声を絞り出す。
 こうなっちゃうと俎板の上の鯉よね、最後まで聞かれちゃうよねぇ・・・。
 
 「理由さえわかれば、別におかしなデータじゃないんだけどね。
 前の日、いつもと何か違うことした?」
 にっこり。あくまで笑みを絶やさない先生が怖い。
 「・・・・・えっと、あの」
 覚えてません、なんて答えて医学的追及が始まるのも避けたいし。
 というよりきっとばれてる、ごまかせるとも思えない。
 
 「あの、ちょっと、寝るのが遅くなったかも・・・」
 「ふぅん。4時?5時?それって白河さんにとっては「ちょっと」なんだ?」
 え!
 嘘、ほんとに、そんなとこまで分かるのぉ?!
 あたしは真っ赤になって言葉もない。
 先生はそしてあたしを追及しながら首をかしげた。
 
 「それにしても、そんな時間までよく起きていられたね。
 修に叱られなかった?ばれてないのかな?」
 「・・・・・」
 先生は、修ちゃんの学生時代のサークルの先輩。
 だからあたしたちのことも、よぉく知ってる。
 丁寧に診てくれて、こっちも質問とかも気軽にできていいんだけど、
 こういうときだけは、ほんと、困るよね。
 
 「白河さん。修は知ってるの、知らないの?」
 相変わらずにっこりと。でも、逃げる余地はない質問で。
 だいたい、直接確認されちゃったらおしまいだもんね。後が怖い。
 「知りません・・・。その日、修ちゃんは出張だったから」
 「ああ、鬼がいないと思って羽を伸ばしたわけね。
 でも、ちょっと伸ばし過ぎかな」
 「・・・・・」
 やっぱり固まっちゃったあたしに、先生はさわやかに問いかける。
 
 「修の目を盗んで悪いことするってのは、あいつ、目の前でされるより傷つくんじゃないかなあ。どう思う?」
 
 あの、その、あの。
 そんなこと考えてみもしなかったけど。でも確かに、修ちゃんはそうだよね。
 言えることのないあたしに先生は追い討ちをかけた。
 
 「で、白河さん、どうする?」
 どうする、って?
 怪訝な顔をしたあたしに先生はあっさりと言う。
 「俺から修に言った方がいい?それとも?」
 ええっ?!
 「いえ、それは!」慌てて首を振ったら、「じゃあどうする?」って笑ったまま聞かれた。
 
 それって、あたしが、自分で、修ちゃんに謝れってことですか。
 「・・・・・」
 「黙られても困るなあ。
 俺から言うんじゃなかったら、白河さん、どうするの?」
 にっこり。
 告げ口なんかしたくないんだけどなあ、ってあくまでにこやかさわやかに。
 俺が叱ってあげてもいいんだけど、それって何か違うよね?って。
 
 あたしはむしろ空気の足りない金魚みたいに口をぱくぱく。
 どうしよう、どうしたらいい?
 先生はデータを置いて、あたしの目を覗き込んだ。
 
 じいっと見つめられると、目を逸らしたくなる。
 視線を外そうとしたら、かなしそうな修ちゃんの瞳が瞼に浮かんだ。
 あたしが修ちゃんと目を合わせられないときって、修ちゃん、そういう顔をするんだよねぇ。
 瞬きして戻した視線の先の先生の目は、やっぱりにっこり笑っていたけど。
 修ちゃんの顔がもう頭から離れない。
 
 むぅぅ。
 修ちゃん、怒るだろうからなあ・・・。
 悲しませるのかな。まあ、それもそう。黙ってたって分かったら。
 でも、いま黙っていても余計にだよね。
 
 む〜。
 口を尖らせたくなって。やだぁ、って泣いてみるとか。
 けど、そういうことって意味がなくてさ。
 先生は修ちゃんをよく分かってる。
 あたしも、ね。
 「俺から言おうか?」
 悪魔の囁きは、楽しんでいるみたいに朗らかだ。
 
 「・・・い、言います・・・自分で」
 修ちゃんを悲しませるって分かって逃げられるほど度胸はないもの。
 先生から言わせるってのは最悪で、このまま黙ってるっていうのはもっと。
 叱られるのがやなだけなんだもん、修ちゃんを傷つけたいわけじゃない。
 うう、でも言えば叱られちゃうんだよねぇ、・・・言えるかな。
 
 「そうだね。」
 
 静かに、そしてきらきらした笑顔と一緒に。
 先生の相槌は私の胸に染み透って、そうしなくちゃいけないってことを思い知らせてはくれるのだけど。
 できるかな。
 あの朝起きたとき。そうそう、そのときには起きられたことにほっとしたんだった、測った体温を見たときのあの気持ち。うわ、これだとばれちゃうし、って。どうしよう、誤魔化しちゃおうか、このまま書くか。正しい記録と嘘の記録の間で迷いに迷って、正直にもなれなくて、嘘をつく度胸もなくて。何度も書き直した挙げ句の中途半端な数字、今日まで修ちゃんに見られなくってほっとしてたのに。
 
 ああ、わかってたかな、あたし。
 留守だからって調子に乗るの、ずるいことだったかも。
 ちょっと度が過ぎていたしね。ちょっと?ううん、かなり。今日だけだからって、折角だからってあんな時間、いくらなんでも遅すぎだよねぇ。
 隠したくなるの、当然な時刻だったけど。それはそれこそずるくって。でも。
 厳しく叱られちゃうような時刻だから、余計に隠したいわけで。
 言える、かなぁ。でも。
 
 あたしの情けない表情に、先生は優しく微笑んだ。
 「修が怖い?」
 はい、・・・いいえ。怖いんだけどちょっと違う、修ちゃんに叱られるのが怖いんで、修ちゃんが怖いわけじゃない。
 叱られるのは理由があるからで、修ちゃんを怖いって言うのおかしいよねぇ。
 っていうか。
 先生に修ちゃんが怖いなんて言いたくないし。
 あたしのせいなこと、修ちゃんのせいにするのはいけないよね。
 
 「そんなこと、ありません。あたしが、悪いし・・・」
 「そうだね」
 そんなことない、とは言ってくれないシンプルなご回答は、やっぱりあたしにすべきことを思い知らせてくれるのよね。
 
 「大丈夫だね、白河さんはちゃんと分かってる。経過自体は順調だよ、そろそろ薬も少し止めてみようか。もちろん食事と休養はしっかりとるように。
 また来月来てください、記録はちゃんとつけてね。」
 何か、質問とか?
 いつもの台詞をいつものように目を見て言われて、あたしは大事なことを思い出す。
 
 「あ、先生・・・」
 なぁに、と笑いかける先生は、納得いくまで聞いてくれて話してくれる、そしていつの間にか納得させちゃう、たぶん名医。
 「記録・・・ごまかそうとしてごめんなさい!」
 
 先生は破顔した。
 「そうだね。もうしないね?」
 「はい」
 
 実は修ちゃんより怖いかもって、修ちゃんは言うのよね。
 何となく、分かる気はするんだけど。できればこのまま、知らないままで。
 
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