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ぱき、っと。起きて朝ご飯の支度をしようとした私の足元で嫌な音。ど、どうしよう。踏んでしまったのは彼の眼鏡。
 夕べ寝る前に、枕元に置いておくから気をつけてね、って言われたの、今思い出したわ。
 置いといていいかってのも、そういえば聞いてくれたわよね。
 うん、いいよ、なんて言わなきゃよかった・・・。
 
 見ると、レンズは外れただけだったの。でも、フレームは割れてしまったわね。
外れたレンズをちょっといじってみたらぱこっとフレームの中には嵌まって、
とりあえず使う、くらいのことはできる感じ。
 まあ、見ればフレームが割れてるのは一目瞭然なのだけれど。
 
 そのうち彼も眼を覚ますと思うけど。
 謝らなきゃいけない、わよね?
 ・・・・・。
 ええ、もちろん、わかっているわよ。
 とりあえず私は眼鏡をテーブルの上に置き、朝ごはんの仕度にかかった。
 
 「おはよう」
 「あ、おはよう」
 
 数分後、眼鏡を掛けた彼が台所に入ってくる。
 「あ、・・・」
 「ん?」
 「ううん、なんでもない・・・」
 やだ、私のばか・・・。
 でも初めて泊まってくれたその日からこれって、あんまりよね?
 
 そうして私の口が固まっている間に、朝ごはんはできてしまったし、うん、ふたりで美味しくいただけたし、彼もお料理を褒めてくれたし。(たいしたものは作っていないのだけれどね。)
 どんどん時間が経ってしまって、もしかして気付いてないかしら、なんて私はついつい期待しちゃったりしたのよ。
 
 そんなこと、あるわけないのにね。
 そんなことがもしあったって、それじゃいけないってわかってるのに。
 
 食後のお茶を飲みながら、彼は私の方を向いて言ったわ。
 「和子さん、」
 ・・・・・。名前呼んだだけで、そこで止める?
 穏やかな声だったけれど、彼の眼は笑ってはいなかった。
 私はその視線を受けることはできなくて、ちょっと外を見る。
 
 「さ、片付けしなきゃ」
 席を立とうと、無意識のうちにそんな言葉が口を付いて出てきたのだけれど、それは許してもらえなかった。
 「和子さん、ちょっと待って。言うこと、ない?」
 
 ・・・・・・。
 「え、な、何のことかしら。別に、言わなきゃいけないことなんて、・・・ないわよ?」
 あ・・・。どうしよう、困ったこと言ってしまったわ。
 ごめんなさいって言わなくちゃって、思っているのに。
 ・・・・・・。
 「和子さん、こっち向いて」
 や、だめ。それは、無理よ。
 
 席を立つこともできなくなってしまった上に、彼の顔を見ることもできない私。
テーブルの上を見るよりほかに、何もできない。
 そんな、子供じゃないのに。
 謝らなきゃいけないなんてことくらい、ちゃんとわかってる。
 ねぇ。
 ひとのものを壊しちゃったら、ごめんなさいって。
 3歳の子だって知ってる礼儀だわ。
 
 「僕から、聞いてもいいの?」
 彼の口調は、私をむしろ気遣ってくれていた。
 疑うようなこと言いたくないんだけど、ってこと。
 疑うも何も、いまここには私たち二人しかいないんだし、夕べはその眼鏡さんは無事だったんだし、だから彼じゃなければ私なのであって、それはどうしようもない事実なのだけれど。
 
 それは私から言うべきことで、彼に言わせていいことじゃなくって。
 そこまでわかっていて、それなのに。
 気遣ってくれればくれるほど、私は固まってしまったの。
 
 ・・・・・。
 私が、少しでも何か言おうとしたなら、たぶん彼は待ってくれたと思うわ。
 けれど、私は身動きひとつできなかったから。
 彼はゆっくり息をつき、そしてゆっくり口を開いた。
 「和子さん、僕の眼鏡が割れてるの、どうしてだか知ってる?」
 
 ごめんなさい、朝、うっかり踏んじゃったの。
 
 言わなきゃいけないのはそのひとこと。
 言えないほど難しい言葉じゃ、ないわよね。
 言えばたぶん、今度から気をつけてね、って、たぶん、そう言ってくれると思うの。
 とにかく、言わなきゃいけないの。
 だって、それは私のしたことなのだから。
 
 なのにね。
 私、どうして固まっているのかしら。
 ほんとに、子供じゃないのよ?それなりに常識をわきまえているはずの、大人よ。26歳の、社会人。
 ちなみに目の前にいる彼は、ふたつ年下の恋人、よ。
 年下って言ったって、彼の方が私よりよほどしっかりしているというのも事実だけれど。
 
 「・・・・・。し、知らない」
 ああ、もう!なに言ってるのよ、私ったら。
 私はますます下を向いてしまって、身を竦めた。
 ほんとにほんとに、子供みたい。
 最初のごめんなさいが言えないと、どんどん転がっていっちゃうのよね。
 
 下を向いた私の頭の上に、ぽん、と彼の手が乗せられた。
 「和子さん、こっち向いて」
 そのまま顔を上げさせられるのに、無理に抗うことも私にはできなくて。
 眼を覗き込まれたときの彼の眼は、怒ってるっていうよりは心配してくれてるっていう感じだったわ。私の眼は、どうだったのかしらね。
 
 「和子さん、どうしたの?」
 真剣で優しい視線は、怖い。
 ええ、怖いのよ、優しいけれど甘くはないもの。
 そりゃあね。きつく窘められて当然のことをしているのだし。
 彼はそのあたりきっちりしている。
 相手が誰であれ、間違ったことをなおざりにしておくようなひとじゃないのよ。
 
 わかってるのにね。
 やだ、・・・・・嫌われちゃったらどうしよう。
 こんなことで?
 うん、こんなことで。
 こんな小さな出来事なのに、こんなに呆れられて仕方のない態度もないわ。
 
 やだ、怖い。
 予想されるきつく咎める声が怖かった。
 優しい声で愛想をつかされるのはもっと怖かった。
 なのに、私は固まったまま。
 馬鹿よね、あまりに矛盾してるんじゃないこと?
 
 けれど、彼の次の声は、私の予想とはぜんぜん違っていたの。
 優しい声、と言えはしたかもしれないけれど。
 
 「和子さん、少し、泣く?」
 それって、どういう・・・?
 
 その言葉の意味がわからなかった私の頭には疑問符がたくさん浮かんだわ。
 けれど、すぐに答えは身をもって思い知ることになったの。
 彼は正座した膝の上に、私を引き倒してしまったのよ。
 や、やだ、これって。
 
 「え、や、やだ・・・」
 「嫌って言われても聞かないよ。ちょっと泣かせてあげるから」
 「や、やだぁ、ちょっと・・・」
 
 彼にはちょっと歳の離れた妹さんがいる。はっきり聞いたわけじゃなかったけれど、
彼はこんなふうに妹さんを躾けてきたってこと、なんとなく感づいてた。
 や、い、いまそんなこと長閑に思い出してる場合じゃないわよね。
 スカートが上げられて、下着が露にされてしまう。
 恋人だからって平気なわけじゃ、ないわ。
 
 「や、やめてぇ」
 「やめません。お仕置きだからね」
 
 ぱぁん!
 「痛ぁぃ!」
 ぱぁぁん!
 「いやぁぁ・・・いたぁい・・・」
 はしたなくお尻も足もばたばたさせて暴れてしまう。
 ぱぁぁあん!
 「やぁん、いたいわ・・・」
 「うん、痛くしているんだよ」
 ぱぁん!
 
 これだけでも十分痛くて恥ずかしいのに、彼はさらに私の下着に手を掛けてしまった。
 「え、いやだ、まさか」
 「嫌でもしょうがないよね。悪い子だったでしょ?」
 抵抗する暇もなく、お尻が裸にされてそこに平手が降ってくる。
 ぱちぃぃん!
 「いやぁ!いったぁい!」
 さっきまでどころじゃなくって痛かったの。
 それに、これじゃ、ほんとにちいさな子と一緒だわ。
 
 ぱちぃぃん!ぱちぃぃん!
 「や、やだもう・・・痛いし・・・」
 恥ずかしい。そう言おうとしたのに、言えなかった。
 ちいさな子供のようにお尻を叩かれる。
 それはとても恥ずかしくて、痛いのも嫌だけれどそれ以上に嫌だったのだけれど。
 
 「こんなの、子供みたい・・・」
 辛うじて言えたのはこれだけで、そして、彼の返事は予想がついたわ。
 ぱちぃぃん!
 「そうだね。子供みたいなことしたのはだぁれ?」
 ぱちぃぃん!
 うん。わかってる。こんなふうに叱られるような幼い振舞いだったってこと。
 ぱちぃぃん!
 やだもう、痛ぁい・・・・・。
 
 「いい子だから、ちょっと泣いておいでよ、和子さん」
 ぱちぃぃん!
 
 痛いの。
 お尻がとっても、痛い。
 むき出しのお尻を彼に見られて、叩かれているかと思うとすごく恥ずかしい。
 いや。
 いやよ、いや。
 どうしてか上手く、泣けなかった。
 
 ぱちぃぃん!
 「い、痛いの」
 ぱちぃぃん!
 「や、嫌なんだもん」
 ぱちぃぃん!
 「お願い、止めてよぉ」
 ぱちぃぃん!
 
 泣い、てたのかもしれなかったけど。でも。
 言い募る私に、彼が返したのは平手と一緒に淡白なひとこと。
 「ほかに言うことあるんじゃない、和子さん」
 ぱちぃぃん!
 
 わかってる・・・つもりなんだけど。
 どうして言えなくて、どうして泣けないのかしらね。
 「・・・・・・。」
 ぱちぃぃん!
 「いつもの和子さんはどこに行っちゃったのかな?」
 彼は少しだけ、からかうように言った。
 
 「いつもは、素直でしっかりした大人なのにね」
 そう、ね。たぶん。
 そんな私はほんとに、どこへ行ったのかしら。
 私だって、途方に暮れているのよ。どうしたらいいのか。
 こんなことで、こんな態度をとっているのは愚かよね。
 こんなことで、嫌われてしまったら。そんなの、嫌なのに。
 
 ぱちぃぃん!
 彼の声は相変わらず優しくて、甘いようだった。
 「ま、大人の和子さんだって、ちょっと家出したくなるときもあるだろうね」
 ぱちぃぃん!
 「・・・・・・。」
 
 ええ、甘いようだけど、でも甘いわけじゃないのよね。
 ぱちぃぃん!
 だってその手は容赦なくって。
 痛い、もの。
 
 「泣いてもいいよ。ちいさな、子供みたいに」
 ぱちぃぃん!
 「だけどね、覚えておきなさい。
 悪い子は、お尻を叩かれるんだ。こんなふうにね」
 ぱちぃぃん!
 
 子供みたいに。
 子供みたいに、いけないことして。
 子供みたいに、剥き出しのお尻をたっぷりぶたれて。
 子供みたいに、いっぱい泣いたら?
 
 彼は優しく、けれど容赦なく続けた。
 「子供でもいいんだよ。
 でも、子供だって言わなきゃいけないことはあるからね」
 ぱちぃぃん!
 
 「大人の和子さんは、ひとに迷惑掛けたりしないから、
言い方忘れちゃったかもしれないけど」
 そ、そんなことない。けど。
 そうね、いまでもときどき間違えるわ。
 謝ることだってある。
 ぱちぃぃん!
 
 ・・・けれど、いまの私は上手く謝っているだけかもしれないわ。
 謝ったほうが、後が楽だから。
 
 もちろんそれは、大切な処世術、人間関係の潤滑油よ。
 間違ったことして、謝らなくていいわけじゃないのよ。
 早く謝ったほうがいいに決まっているし。
 迷惑掛けられた方としては、謝罪の言葉がほしいのは当然よね。
 
 けれどね。
 むかし、私はどうやって言っていたのかしら。
 
 ぱちぃん!
 「和子さん。子供の頃はたぶん、ちゃんと言えたよね」
 どうかしら。
 いま私、子供みたいに下を向いてて。
 ごめんなさいが言えなくて。嘘までついて。
 ぱちぃぃん!
 痛いわ。そして恥ずかしい。
 こんなふうにお尻をぶたれているのも仕方がないわね。
 
 ぱちぃぃん!
 「痛い・・・」
 「だろうね」
 そっけないお返事。
 ぱちぃぃん!
 「やだぁ、もうやだ・・・」
 「嫌じゃないの。悪い子にはお仕置きが必要だよ」
 取り付く島もないわ。
 
 ぱちぃん!
 「い、言えないもの・・・」
 「そう?それじゃあ終わってあげられないね」
 それは、そうよね。そうなんでしょうけど。
 ぱちぃぃん!
 「大丈夫、ちゃんと和子さんがいい子になるまで付き合ってあげるから」
 それっていったい、いつまでってこと?!
 ぱちぃぃん!
 
 ふ、ふぇ・・・。
 
 あ、あれ?
 彼の言葉のどこがそうさせたか私にはわからなかったけれど。
 あるいは、お尻の痛さがもう限界だったからかしら。
 急に、涙が零れた。
 
 「ふぇぇん・・・やだぁ・・・お尻いやよぉ・・・うわぁん・・」
 ぱしぃぃん!
 「嫌でもだめだよ。言わなきゃいけないことあるでしょう?」
 なんだか、彼の声は急に厳しくなったような気がするわ。
 
 「ふぇぇ・・・だってぇ・・・」
 ぱしぃぃん!
 「だって、なあに?」
 ぱしぃぃん!
 「だって、だって、」
 ぱしぃぃん!
 「やぁ、いたぁい」
 ぱしぃぃん!
 「あぁぁん!わ、わかったからぁ!・・やぁん!・・ごめんなさぁい!」
 
 彼は、そこで初めて手を止めた。
 けれどね、慰めてくれたわけじゃないのよ。
 「何がごめんなさいなの、和子さん?」
 厳しいったら・・・。まったく、彼らしいのだけれど。
 
 「・・・・・め、眼鏡・・・壊してごめんなさい・・・」
 「それだけ?」
 「ふぇ、や、・・・・・すぐ謝らなかった・・・」
 「それから?」
 「・・・・・し、知らないって・・・嘘、ついた」
 
 ぱしぃぃん!
 彼の手が、もういちど動き出す。
 「そうだね。悪い子だったね、和子さん」
 ぱしぃぃん!
 「ふぇぇん・・」
 ぱしぃぃん!
 「悪い子は、お尻を叩かれるんだよ。わかった?」
 「うん・・・」
 ぱしぃぃん!
 「いい子だね。もうしないよね?」
 「くすん・・・わかったわ・・・もうしません・・・」
 ぱしぃぃん!ぱしぃぃん!ぱしぃぃん!
 
 きつく叩かれて、そうして彼は私を抱き上げてくれたわ。
 涙を拭ってくれて、眼を覗き込まれる。
 「いい子になれたよね。子供の和子さんも、可愛いよ?」
 「や、やだ・・・子供扱いしないでよ・・・」
 笑われる。
 そ、そりゃあ。私が子供じみた振舞いをしていたのだけど、けれどそこで笑うなんてひどいわ。
 少しむくれると、彼はちょっと慌てたみたいだった。
 
 「ごめん、和子さん。でも」
 「でも?」
 僕の前で子供みたいなところを見せてくれるのは、実は嬉しいんだけど、と彼はそう囁いた。
 和子さん、いつも気を張っているでしょう?
 そんな大人な和子さんが好きなんだけど、でも、大人じゃなくったって好きだよ、と。
 
 ・・・・・嫌われたり、しないかしら。
 呟いた私を、彼はふんわり抱き締めた。
 「和子さんは和子さんだからね、大丈夫。好きだよ」
 
 少し照れて抱き締め返した私に、今度はちょっと意地の悪い囁きが聞こえる。
 「子供でも、悪い事したらちゃんと躾けてあげるからさ、こんなふうに」
 「もう!」
 
 漂いかけた甘い雰囲気だって、台無しよ。
 だけどそれは悪くもなくって、私はお尻の熱が冷めるまで、彼にゆっくり甘えることができたのだった。
 
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