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「ただいまぁ」「え、祥ちゃん?   ・・・お帰り」
 
 いちにち働いてそれなりに疲れて帰ってきたあたしを、修ちゃんはちゃんとねぎらってはくれた。
お疲れさまって言ってる目の奥が、でも怒ってる!
 「え、えっと?修ちゃん?」
 「うん?とりあえず祥ちゃん、着替えておいでよ」
 やだな、何かしたかなぁ。思い当たらないあたしに修ちゃんが口をきゅっと噛み締めたのが、背中の向こうで何となく分かった。
 
 スーツを脱いで楽なお部屋着に。今日は遅くなったから、お夕飯はもう外で済ませてる。お風呂の仕度は修ちゃんやってくれてるみたい。
 ・・・う〜ん、これで修ちゃんからお話何にもなかったら、遅くはあるけどゆったり幸せな夜だと思うんだけど。もうって言うか、まだって言うか、10時半。ふたりでTVや、ちょっとしたお酒とおつまみなんか、楽しもうと思えばできる時間だよね。
 遅くなるのは連絡入れた。別に寄り道だってしてないし。う〜ん、何だろ?
 首を傾げながらリビングに戻っていくと、修ちゃんはじっとあたしの目を覗き込んだ。ふぇ、怖い。
 
 「祥ちゃん、何か言うことある?」
 「えぇ?何にもない、わかんないよぉ、修ちゃん」
 「残念ながら、そうみたいだね」
 そこで修ちゃんは話を止めてしまって、あたしの手を捕まえちゃった。
 そうなれば逃げられないんだよね、ぜんっぜんわかってなくってもさ。
 やだ、こんな状態で叩かれるのは嫌だ。
 けど、あたしがわかってないってことにも修ちゃんが怒っているのは確かだった。そうじゃなきゃ絶対、こんなふうな展開にはならないから。
 
 ぱちぃぃん!
 「やだぁ・・・痛い!」
 お部屋着のズボンを膝まで下げられちゃって、何かスカートのときより子どもみたいで恥ずかしい気がする。
 ぱちぃぃん!
 「いたぃっ!やだっ!」
 暴れようとしてみるんだけど、お膝に引っかかってるズボンが邪魔なせいなのか、そうじゃなくて別の理由からなのか、うまくいかない。
 ぱちぃぃん!
 「やだってばぁ!」
 ごめんなさいなんてもちろん絶対言わないから、やだ、と痛い、しか言うことない。
ぱちぃぃん!
 修ちゃんの手はいつもよりちょっとゆっくりだったけど、すっごく強くて、あたしはいっぱい泣いた。
 
 「やぁぁ・・・やめてよぉ・・・」
 ぱちぃぃん!
 「分かったら止めてあげるよ」
 ぱちぃぃん!
 「だから、何をぉ?!」
 ぱちぃぃん!
 「祥ちゃんは何だと思うの?」
 うぇぇ。
 
 ヒントもくれないなんて、厳しすぎ。
 それだけ修ちゃんが怒ってるってことかもしれないけどさ。
 だって何を怒ってるの?
 遅くなるのって連絡したよね。連絡どおりの時間だよね。
 お仕事で遅くなったんだしさ、遊んでたわけじゃないよ?
 ぱちぃぃん!
 うぇ、何だろ。
 
 「遅くなったせいじゃ、ないよね?」
 ぱちぃぃん!
 「そうだね、違うよ」
 「連絡も、したよねぇ?」
 「うん、貰ったよ」
 ぱちぃん!
 「寄り道なんかしてないよ?!」
 「そんなことしてたらもっと怒るよ、それも理由じゃない」
 ぱちぃん!
 
 だめ、お手上げ。
 だってぜんぜん分かんないったら。
 ぱちぃぃん!
 「もうやだ!やだったら!だってほんとに分かんないのに!」
 たぶん逆切れって形容が正しいあたしの反抗的な態度に、返ってきたのは一層強い平手だった。
ぱちぃぃん!
 
 ぱちぃぃん!
 「痛いよ、オニ!」
 ぱちぃぃん!
 「鬼でもいいけど。祥ちゃん、これで3度目でしょ?」
 「えぇ?!」
 3度目?何のこと?
 こういう言われ方するのに、心当たりがないのはたぶん確かにそれだけでもまずいかも知れない。
 ぱちぃぃん!
 けどさ、心当たりないものはないんだよ、わかんない。
 ぱちぃぃん!
 あたしが分かってないことなんて、確実に修ちゃんにはばればれだった。
 
 「わかってないから怒ってるってのもあるよ、わかるよね?」
 ぱちぃぃん!
 「それはわかるけど。でも、わかんないもん!」
 ぱちぃぃん!
 「そうみたいだね。前の約束も本気じゃなかったんだ、祥ちゃん」
 だからぁ!何のこと?!
 「そんな言い方、やだよ!何のことか、教えてよ!」
 ぱちぃぃん!
 
 「祥ちゃん、今日の僕のメールの返信、ほんとに覚えてない?」
 ぱちぃぃん!!
 
 えっと、メール、メール?
 今日あたし、遅くなるってメールを6時くらいに入れて、修ちゃんも8時くらいって返事をもらって、それからえっと、8時にはまだあたし終わらなさそうだったからもう一度メール入れて。10時過ぎくらいって言ったよね。で、修ちゃんは分かったって返事をくれて。
 分かったって返信だったよね。それから、えっと??
 
 え? え。やだ、嘘、これなら。これなら絶対、やだ!
 「修ちゃん、まさか、もしかして」
 ぱしぃぃん!
 「なあに?」
 ぱしぃぃん!
 「やだっ!・・・帰るとき連絡しなかったから、迎えに来てもらわなかったから、怒ってるの?!」
 ぱしぃぃん!
 「正解だよ。でもやっぱり、反省する気なさそうだよね」
 ぱしぃぃん!
 「やだ、そんなのやだ!だって、そんなの無理だよ、ありえない!」
 ぱしぃぃん!
 
 少しばかり説明すると。
 この4月にあたしは職場で配属が変わった。で、かなり残業が多くなったの。
 うちは駅から結構遠くて、あたしの足だと20分くらい。バスもないわけじゃないんだけど、特に帰りはいい時間のがないからいつもあたしは歩いてる。
 3月まで、そう、だいたい7時くらいまでに帰れてたころは、修ちゃんは何にも言わなかった。そもそも修ちゃんのほうが遅かったしさ。商店街通って、お買い物して帰ってきてた。
 配属変わって、ばたばたして、残業もいっぱいするようになって。
 うん、何度か言われたよ。遅いときは連絡してって、迎えに行くからって。
 3度目って修ちゃんが言うのは、いつのことかはっきりわかんないけどさ。
 そういえば昨日も言ってたよね、危ないじゃないかって。昨日今日は立て込んでてさ、昨日の帰りは11時半だったもんね。
 で、8時のメールの返信は、「分かった、気をつけてね、迎えに行くから駅に着く時間教えてね」だったんだよね。
 
 「やだっ!だって、修ちゃんだって疲れてるじゃん!
 迎えに来るのだって20分もかかるんだよ?!ありえないってば!」
 ぱしぃぃん!
 「お気遣いどうも。でも危ないでしょ?」
 ぱしぃぃん!
 「危ないったって、修ちゃんだって遅いときがあるじゃない!
 迎えに来いなんて言ったことないくせに!」
 ぱしぃぃん!
 「当たり前でしょ。祥ちゃんは女の子だから危ないって言ってるの」
 ぱしぃぃん!
 「そんなこと言ったって!そんなんじゃあたし残業もできないよ?!
 絶対やだ!納得いかない!」
 ぱしぃぃん!
 「残業するななんて言ってないでしょ?帰るときに僕を呼びなさいって言ってるの。そうじゃなきゃバスを待つか、タクシーに乗るかだね」
 ぱしぃぃん!
 「えぇ?修ちゃん、幾らかかると思ってるの?!無理だよそんなの!」
 ぱしぃぃん!
 「お金より祥ちゃんの安全だよ。どうせ公園前の道を帰ってきたんでしょ?
 あの道街灯も少ないし人通りも少ないの、わかってるよね?」
 ぱしぃぃん!
 「わかってるよぉ!けど大丈夫だってば、そんな心配することないよ!」
 ぱしぃぃん!
 「何を分かってるの?何が大丈夫?何かあってからじゃ遅いんだよ?」
 ぱしぃぃん!
 「でもそんなこと言ったって!どうしようもないじゃない!」
 ぱしぃぃん!
 
 ここまでのところ、あたしは自分の正しさを100%信じてた。
 だからこんなことで叩かれるのなんて絶対我慢できなかったし、修ちゃんにもわかってほしかった。
 っていうかそもそも、ここまであたしが本気で納得してないのに修ちゃんがあたしのお尻を叩き続けてるのが信じられないくらいだった。だって修ちゃんいつもは、あたしが納得してなかったらちゃんと話してくれるのに。
 
 ぱしぃぃん!
 「もう、やだぁ!」
 それなのに修ちゃんの手は止まない。
 ぱしぃぃん!
 「ほかに言うことは?」
 ぱしぃぃん!
 「修ちゃんの意地悪!やだっ!もう言うことなんてないもん!」
 ぱしぃぃん!
 
 ぱしぃぃん!
 ぱしぃぃん!
 ぱしぃぃん!
 修ちゃんは黙ってあたしを叩いてて、あたしは逃げようとして暴れてそれから泣いて、でもあたしもやっぱり黙ってた。だってもう言えることなんてなかった。あたしはかけらも納得してなかったから。
 けど修ちゃんは怒ってた。それもわかったから余計に何も言えなかったのかもしれない。
 しばらくお尻を打つ高い音だけが響いて、そしてぽつりと修ちゃんは言った。
 
 「祥ちゃん、もうひとつ思い出してよ。
 きのう僕が言ったことと、祥ちゃんが言ったこと」
 ぱしぃん!
 
 きのう。
 さっき思い出したとおり、昨日の帰りは11時半だった。で、もちろん修ちゃんは同じことを言ってたんだった、危ないじゃない、迎えに行くって言ったでしょ?!って。
 あたしは・・・あたしは。
 ぱしぃぃん!
 
 言い訳すれば、あたしはそのとき結構疲れてた。
 修ちゃんの口調は結構きつかった。それでケンカになるのって嫌だった。
 だいたい、めんどくさいなぁって思った、たぶん。うるさいなあって。
 だって、あたしはそれをとっくに「ありえないこと」に分類してたんだから。
 ぱしぃぃん!
 
 ―――はいはい、わかりました。次からそうするよ―――って。
 うん、あたしきのう、そう言ったね。
 ・・・・・。
 ぱしぃぃん!
 
 ぱしぃぃん!
 抵抗できなくなった、けど納得してないあたしは、悔しくてやっぱり黙ってぼろぼろ泣いた。
 ぱしぃぃん!
 修ちゃんは手を止めてくれる気配はない、けど。
 ぱしぃん!
 謝るべきなのかもしれない、ううん、謝るべきなんだろうけど。約束を守らなかったこと、じゃない、守る気のない約束をしたことの方。けど!
 
 ぱしぃん!
 守る気なんてない、だってありえない。無理だと思う、それ以上に守りたくない。
だってずるい、悔しい、冗談じゃない。あたしの方が危ない、それは事実なんだろうけど。
 あたし以上に修ちゃんがそれを心配することも、そしてあたしがその修ちゃんを気にして仕事をしなきゃなんないっていうのも、どっちもひどくやり切れなかった。
 ぱしぃん!
 
 謝らなきゃって思わなかったわけでもないんだけど悔しいって方が大きすぎて、あたしは奥歯を噛んで泣き続けるしかなかった。
 ぱしぃん!
 ぱしぃん!
 そうして幾つ叩かれたんだかもう全然分かんなかったけど。
 ぱしぃん!
 不意に修ちゃんは手を止めて、静かな、うん、むしろ優しい声音で言った。
 「祥ちゃん、何か言うことある?」
 ・・・・・。
 
 言わなきゃ、いま言わなきゃ。修ちゃんは、すこし譲ってくれたのだ。
 だから言わなきゃ。ごめんなさいの方も、納得いってないことの方も、どっちも。
言わなきゃ、言うのめんどくさくていい加減に先に延ばした昨日と一緒。
 「・・・・・修ちゃん・・・だって」
 けど悔しいばっかりが先に来ちゃう。それだけじゃだめなのに。
 だって修ちゃんは怒ってる―――そして、気付けばあたしだって、それはわかる、わかるから。
 悔しいけど、守る気ないけど、けど、だったらそれを修ちゃんにわかってもらわなきゃ。
 
 「だって、だって、・・・でも」
 言葉を絞り出すあたしを、修ちゃんはふわっと抱き上げた。
 ぎゅっと抱き締められて、眼を覗き込まれて、あたしはやっぱり泣いて。
 修ちゃんの目は怖いくらいに真剣だったけど、でも最初みたいな怖い目じゃなかった。
その修ちゃんの眼差しのなかで、あたしはゆっくりゆっくり言葉を探したのだった。
 
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