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「あ!」朝ご飯の席で、あたしは不意に大声を上げた。目の前で修ちゃんが「どうしたの?」と怪訝な顔をする。・・・しまった、声に出さなきゃ修ちゃんに気づかれたりしなかったのに。そもそも気づかなきゃよかったな。
 
 ゆうべはねぇ、職場の歓迎会だったんだよ。それはまあ、いいんだけど。
 あたしは毎週金曜日の夜、カルチャースクールにお茶を習いに行ってるの。歓迎会の予定が入ったときから欠席のご連絡しなきゃって思ってたんだけど・・・・結局連絡しそこなったまま当日が過ぎたって訳。
 先生は優しいから笑って「あらあら」っておっしゃるくらいだと思うんだけど。修ちゃんに知れたら叱られる、きっと。
 隠しちゃおう、ってあたしは心に決めた。お稽古は修ちゃんと関係ない、あたしの好きで行ってるんだし。
 
 「祥ちゃん、どうしたの?」
 あたしがこれだけのことを考えた間、修ちゃんはあたしの顔をずっと見てたみたいだけど。
 「え?ううん、何でもないよ。ちょっと思い出したことあっただけ」
 しれっとあたしは嘘、ではないにしてもホントでもないせりふを口にする。
 上手く言えたかな?ちょっとどきどきしているあたしを修ちゃんはなんだか腑に落ちなさそうに眺めたけど、その次には「それならいいけど」って笑った。
 その優しい笑顔には、ちょっと良心が咎めたんだけど。気のせいってことにする。
 
 食事に戻ったあたしたち。そのとき修ちゃんはふと思い出したように言った。
 「そういえば祥ちゃん、夕べ塚本先生からお電話かかってきてたけど。お稽古お休みするって連絡してなかったの?」
 え、電話あったの?
 修ちゃん、そんなの黙ってるなんてずるい、卑怯だって。
 
 頭に血が上るってのはこういう心境のことを言うのかな。
 「修ちゃん、そんなのずるい、納得したような顔しといてさ。だまし討ちじゃん、ひどいよ」
 でも。
 あたしの言葉に修ちゃんが疑問符だらけの表情を浮かべたのを見て、あたしは失言を悟った。青ざめたと思うあたしの顔。同時に修ちゃんの表情も変わっていく。あたしの視線は恐怖に釘付け。
 「祥ちゃん。さっき思い出したのは、お茶のお稽古のことだったってことでいいのかな」
 ・・・。険しい眼に身が竦んで、頷けない。
 気まずい沈黙のまま、とりあえずご飯は食べちゃいなさいって修ちゃんは無言で伝えてきて、あたしたちは静かに朝食を終えた。
 
 で。
 今日ばかりは進んで心から朝ご飯のお片付けをしたかったあたしを制して、修ちゃんはリビングのソファーにあたしを連れて行く。そして深く腰を掛けてじいっとあたしの眼を覗き込んだ。
 「祥ちゃん、何で怒られてるか言ってごらん?」
 「・・・・・。」
 まだ怒られてないもん、なんて言うつもりはないけれど。確かに修ちゃん、現在進行形で怒ってるもんね。理由だって分かってる、あーあ、失敗したなぁ。
 けどさ、ねぇ。お茶のお稽古に行くかどうかも、お休みのお知らせしたかどうかも、修ちゃんに知らせなきゃいけないことじゃないよね。
 だから別にいいじゃん、関係ないじゃんって正面切って言えるほどの度胸はなくて、でもそう思ってて、あたしは黙りこくった。
 
 1分、2分、5分くらい経ったかも、実は30秒くらいだったかもだけど。
 沈黙を続けるあたしに修ちゃんは手を伸ばしてきた。
 びくっと身を固めたら、その手はあたしの予想に反して動いた。つまりね、お膝の上に引き倒されるかと思ったんだけど、・・・修ちゃんはあたしの頭を撫でたんだよ。それはそれでわかんないからやっぱりあたしは身体を固くしてて、んで修ちゃんはあたしの肩に腕を回した。そうしてあたしを抱き寄せて、修ちゃんは静かに言う。
 「祥ちゃん、僕がどうして怒ってるか分かってないよね」
 そんなことないもん。ご連絡しなかったからで、それを隠そうとしたからでしょ。それは分かってるけど、でもそれで修ちゃんに叱られるのが納得いかないんだよ。
 っていうかそんなことより、怒ってるのに優しいなんて、ずるいよ?
 あたしは無言を続け、修ちゃんも返事を求めたんじゃないみたいだった。
 
 「納得いかないことは納得いかないって言っていいんだよ。言ってごらん?」
 確かに、納得いってないんだけどさ。
 「だって、言ったら修ちゃん怒るでしょ」
 そう思う。修ちゃんに怒られる筋合いのことじゃないよって、そう言うこと自体に修ちゃんはきっと怒る。
 「でも、祥ちゃんそう思ってるんでしょ?それが祥ちゃんの本心だったら、口にしたからって怒ったりしない。信用して。」
 まあ、祥ちゃんは普段、自分でもほんとだと思ってない意地っ張り言って叱られることが多いからねぇ。修ちゃんは少しだけ砕けた口調でそう付け加えた。
 ・・・・・。まあ、そうなんだけどさ。
 
 「言ってくれないと、僕が説明できないよ。僕は祥ちゃんを傷付けたいんじゃなくって、分かってもらいたいのにさ」
 それはさすがに、知ってる。だからあたしは小さく頷いた。修ちゃんの怖くて大きな優しい手は、も一度あたしの髪を撫でた。
 また沈黙が流れる。あたしは何度か躊躇いながら、口を開いた。
 あたしは納得いってなくて、でもそのままじゃ先へ進めなくて、修ちゃんはあたしが分かるまで説明してくれると言ってるんだ。
 
 「・・・・・。ご連絡忘れたのは悪かったけど。それで修ちゃんに叱られるのは違うと思うし。修ちゃんに言わなきゃいけないってこともないでしょ?」
 修ちゃんは約束どおり黙って聞いてた。きゅっとあたしを抱き締めて。
変だな、その腕があったかいと、修ちゃんにすごく悪いことしてる気になる。
 言いにくいこと言ってくれてありがと、と修ちゃんは呟いた。
 「祥ちゃんの言うとおりだよ?」
 ・・・え?それなら、じゃあ。・・・でも、でも。
 修ちゃんの肯定は、あたしを途方に暮れさせた。じゃあ怒らないでって思うけど。でももう片方で、理由もなしに修ちゃんが怒ったりしないのも分かってる。
 修ちゃんはあたしを傷付けたいわけじゃない。
 
 わかんない。修ちゃんはどうして、怒るのかな。
 「わかんないよぉ。修ちゃんはどうして、怒るの?」
 ホントにわかんないことは、聞けばいい。聞いたからって修ちゃんは怒ったりしない。さっきと一緒で答えをくれるかどうかは微妙だけど、あたしがほんとうにそう思ってるんだったら、たぶん突き放したりはしないんだ。
 「祥ちゃんはどう思う?どうして僕は、怒るのかな」
 うぇ?う〜ん。
 「あたしがご連絡忘れたからじゃなくて?」
 「うん」
 「そのこと隠そうとしたからでもなくて?」
 「う〜ん、それは少し当たり。祥ちゃんはどうして隠そうとしたの?」
 「えぇ?だって、修ちゃんに怒られたくなかったから」
 「正直だね。・・・でもね、祥ちゃん。
 怒られたくないってのが先に来てるけど、それでいいのかな」
 
 え。追及する修ちゃんの言葉はさらりと静かだったけど、確かに修ちゃんがそれに怒ってるってことは分かった。「先に」?何より先に?そんな疑問が次に生まれて、それはだからあたしの心の中は「怒られたくない」でいっぱいだったってことで。修ちゃんはさっくりと追い討ちを掛けてきた。
 「さっきは祥ちゃん『ご連絡忘れたのは悪かったけど』って言えたよね」
 うん、まあ。っていうか、言っただけなんだけどね。・・・悪かったとかごめんなさいとか、そういうのより先に「怒られたくない」。
 それはあたしの正直な気持ちで、本音で、だからこそ。そこを突かれたらそれは間違ってるってあたしも認めざるを得ないから。
 ひとりで正解に辿り着けないんだったら、修ちゃんに怒られる筋合いのことじゃないって言う資格はないんだ。
 
 固まったあたしに、修ちゃんは優しい言葉を追加する。
 「ごめん、これは僕もさっき言っておけばよかったんだけど。
 塚本先生、祥子さんご病気でも、って心配してらしたよ?」
 ふえぇ。あたしは項垂れて、ごめんなさぁぃ、とか細く呟いた。修ちゃんはあたしを抱き寄せて、あたしは幾粒か零れる涙を修ちゃんの服に押し付ける。
 そのままの姿勢で、修ちゃんはきっぱりと言った。
 「祥ちゃんはいい子だよ。そうじゃないときは、苦しいでしょ。
 僕は祥ちゃんにいい子でいてほしいよ?だから怒るの」
 ふぇ、やだ、この体勢でそれを言う?もちろんそれはあたしの質問に対するいちばん基本的な答えで、何でそんなこと聞けたのかってくらい当たり前の、あたしもずっと知ってたはずの答えで、だからどんなことでも関係ないなんてことはなくて、・・・ふぇ〜ん。結局あたしが修ちゃんの服に吸わせた涙はたぶん粒の単位ではきかなかった。
 
 それでそのあと。
 納得させられちゃった、ううん、あたしは確かに納得したからたくさんお仕置きされることになっちゃったんだけど、それはしょうがないんだけど。
 ぱしん!
 「だからだまし討ちなんてするわけないでしょ、何てこと言うの」
 ぱしん!
 「や、それは冗談、じゃないけど売り言葉に買い言葉ってやつで・・・
 ぱしん!
 ・・・わわ、ごめんなさいってば!」
 ぱしん!
 「冗談でも言っていいことと悪いことがあるでしょ!」
 いろいろお説教はあったんだけど実はいちばん突っ込まれたのがこれで、あたしの口が滑っただけで本気じゃないってきっと修ちゃんも分かってるはずなのにこれで。
 もちろん最後には許してくれたんだけど、修ちゃん案外本気でショックだったかもしれないといまでもちょっとどきどきしてるのだった。
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