インドとインカ

プラトンは「ソクラテスの弁明」(22)で「大洪水のすべて」に言及し、「クリティアス」(111-112)では「デウカリオンの大破壊」に言及している。さらに、アテネとアトランティス以来「多くの大洪水は9000年の間に起こっている」とする論説は卓越している。古代スカンジナビアの神話では、ベルゲルミルはスルードゲルミルの息子である。彼と妻は、ベルゲルミルの祖父ユミルの血の洪水(オーディンと彼の兄弟のヴィリとヴェーによる虐殺)を生き残った、最後の霜の巨人である。彼らは中が空洞になった木の幹に潜り込み生き残って、新たな霜の巨人を生み出した。"神話学者の Brian Branston は、この神話と、アングロサクソンの叙事詩である『ベオウルフ』に述べられた事件との共通点に注目した。それらは伝統的に『聖書』の洪水と関連しており、したがって、アングロサクソンの伝統と同様、広くゲルマン民族の神話に一致する事件があったと思われる。"

古代ギリシア人は人間と非常に似た神々が登場するユニークな神話を持っていたが、彼らはこれらの神々を宗教的信仰・崇拝の対象として考えていたのだろうか。実際、西欧の中世・近世を通じて、人々はギリシア神話を架空の造り話か寓話の類とも見なしていた。現代にあっても、ポール・ヴェーヌは、「ギリシア人がその神話」を真実、信仰していたのかをめぐり疑問を提示する。彼は古代ギリシア人がソフィストたちの懐疑主義を経てもロゴスとミュートスの区別が曖昧であったことを批判する。しかしヴェーヌの結論は、古代ギリシア人はやはり彼らの神話を信じていたのだ、ということになる[90]。また、古代のギリシア人自身のなかでも疑問は起こっていたのであり、紀元前6世紀の詩人哲学者クセノパネースは、ホメーロスやヘーシオドスに描かれた神々の姿について、盗みや姦通や騙し合いを行う下劣な存在ではないかと批判している[91]。"とはいえ、ホメーロスもヘーシオドスも疑いなく、自分たちのうたった神話が「真実」であることに確信を持っていた。この場合、何が真実で、何が偽なのかという規準が必要である[92]。しかし彼らがうたったのは、神々や人間に関する真実であって、造話や虚構と現代人が考えるのは、真実を具象化するための「表現」であり「技法」に過ぎなかった[93] [94]。"

山幸彦と海幸彦を参照。"『山海経』(中国最古の地理書)は、中国の伝説的支配者禹が「天から水のあふれたような」洪水を治めるのに10年を費やしたところで終わる。 (参照:『山海経』第18章、最後から2番目の段落、Anne Birrells 翻訳)[5]"

北欧神話の中にはスカンディナヴィアの伝承の一部となったものもあり、現在まで残存してきた。その他は近年、ゲルマン・ネオペイガニズムとして再考案・構築されている。ステージでの上演劇や映画に同じく、神話は現在も様々な文学での着想として残されている。北欧神話について現存する記録の大多数は13世紀にまで遡ることができ、少なくとも正式にキリスト教社会となった世界に、2世紀以上も口承の形で保存されていた。13世紀に学者達はこの口伝えに残る神話の記録を始め、特にキリスト教以前の神々が実際の歴史上の人物にまで辿ることができると信じていた学者、スノッリ・ストゥルルソンにより、『エッダ(散文のエッダ、新エッダ)』や『ヘイムスクリングラ』が書き起こされた。このほかには、北欧の神々がより強くエウヘメリズム化(神々は人間が神格化されたものであるという解釈)された、サクソ・グラマティクスの『デンマーク人の事績』がある。『エッダ』を13世紀初期に書いたこのスノッリ・ストゥルルソンという人物は、卓越した詩人・指導者で、アイスランドの外交官でもあった。この『エッダ』は本来、その技法の学習を熱望する詩人へ向け、入門書として作られたとされる。この作品には伝統的なケニング(婉曲表現技法)や、詩に詰め込まれた暗喩表現を散文体で解説した内容が含まれている。こうした散文体での語りが、北欧の神々についての様々な物語を体系的かつ首尾一貫したものにしたのである。

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