エノク書と参照項目
ラヴクラフトの理解者を自認するダーレスは、これらの作品群が“分かりやすく”なるようにしたのである。1931年にダーレスは『潜伏するもの』を執筆し、「旧神」が邪悪な旧支配者を封印したとする独自の見解を発表した。ダーレスは旧神と旧支配者の対立構造を持ち込み、旧支配者に四大属性を割り当てるなど新たな解釈を行なった。そのため、ラヴクラフトの作品に明記されていない設定が数多く追加されることになった。だがラヴクラフトはダーレスを咎めず、「潜伏するもの」を力作と褒めて彼を激励した。その後、ダーレスの体系化に従った作品が多数発表され、これにより「クトゥルフ神話」は確立する。ダーレスによると、「クトゥルフ神話」という名称は、神話の基本的な枠組を明らかにした作品がラヴクラフトの『クトゥルフの呼び声』であることに基づいており、神名ではなく作品名に由来するものである。ダーレスはアーカム・ハウスという出版社を創設してラヴクラフトの作品を出版する一方、「クトゥルフ神話」体系の普及に努め、他の作家がこの体系に従った「クトゥルフ神話」作品を書くように働きかけた。これによってラヴクラフトという作家は広く認知されることとなったが、ダーレスは、ラヴクラフトの文学を後世に伝え広めた最大の貢献者として称賛される一方で、ラヴクラフトのコズミック・ホラーを世俗的な善vs悪の図式に単純化したという理由で批判されることにもなった。ラヴクラフトは彼に先行する作家アルジャーノン・ブラックウッド、ロード・ダンセイニ、アーサー・マッケンやエドガー・アラン・ポーなどから影響を受けている。今日ではマッケンの『白魔』やロバート・W・チェンバースの『黄の印』など、ラヴクラフトに先行する作品もクトゥルフ神話体系の一部と見なす見解もある。
"オギュゲス王の洪水は、テーバイの創設者であり王であるオギュゲスの在任中に起きたことから名づけられる。世界中を襲った洪水は非常に破壊的だったので、ケクロプスの支配までは国は王のないまま取り残された。 [2]"アポロドーロスの「ビブリオテーケー」でデウカリオンの洪水として語られる物語には、いくつかノアの洪水伝説に共通する点がある。プロメテウスは息子のデウカリオンに櫃を作るよう助言する。他の人間は、高い山に逃げた少数を除いてすべて滅ぼされる。テッサリアの山は砕け、コリントス地峡とペロポネソスより向こうの世界はすべて沈む。デウカリオンと妻のピュラは、9つの昼と夜を櫃で漂い、パルナッソス山にたどり着く。"ヘラニコスが語るさらに古い物語では、デウカリオンの「方舟」はテッサリアのオトリュス山にたどり着く。別の記述では彼は Argolis、のちのネメアのおそらく Phouka の頂上にたどり着く。雨が止んだとき、彼はゼウスに供物をささげる。それからゼウスの言いつけに従って石を自分の後ろに投げると、石から男が誕生し、ピュラが投げた石からは女が誕生した。アポロドーロスはここから、ギリシャ語の laos(人々)の語源は laas(石)にあるのだとしている。"
『古エッダ』の『巫女の予言』は、北欧神話における、今存在する世界の創造の記述で始まる。最初は、北のニヴルヘイムの氷とムスペルヘイムの炎を除いて、何もなかった。それらの間に、大きく開いた淵があった(ギンヌンガガプ。しかしこの名称は時々、固有名詞として翻訳されないことがある)。この淵の中で氷のいくつかが炎からのいくつかの火の粉とぶつかった。氷は溶けて毒気(en:Eitr)となった。さらにそれは雌雄同体の巨人ユミルと、彼を乳で養うことになる雌牛アウズンブラの体を作り出した。アウズンブラは霜氷を舐めることで食餌した。次第に牛は氷の中に人間の頭髪を露わにしていった。翌日、牛は彼の顔を露わにした。さらに翌日、牛は彼、ブーリの姿を完全に露わにしていた。"ユミルは、男女2人の人間であるごとく、スルードゲルミルの父になった。ブーリは、ボルの父となった。ボルは3人の息子、ヴィリ、ヴェー、そしてオーディンを得た。彼らが巨人ユミルを殺した。ユミルの血が引き起こした大洪水により、両種族の最初の男女は死んでしまった。ベルゲルミルの父となったスルードゲルミルも溺死した。 ベルゲルミルは木の幹の空洞に隠れて生き延びた。"
しかし、イブン・ファドラーンの記述は実際には埋葬の儀式である。現在理解されている北欧神話では、奴隷の少女には「生贄」という隠された目的があったのではという理解がなされた。北欧神話において、死体焼却用の薪の上に置かれた男性の遺体に女性が加わって共に焼かれれば、来世でその男性の妻になれるであろうという考え方があったとも信じられている。奴隷の少女にとって、たとえ来世であっても君主の妻になるということは、明らかな地位の上昇であった。ヘイムスクリングラでは、スウェーデンの王アウンが登場する。彼は息子エーギルを殺すことを家来に止められるまで、自分の寿命を延ばすために自分の9人の息子を生贄に捧げたと言われる人物である。ブレーメンのアダムによれば、スウェーデン王はウプサラの神殿でユールの期間中、9年毎に男性の奴隷を生贄としてささげていた。当時スウェーデン人達は国王を選ぶだけでなく王の位から退けさせる権利をも持っていたために、飢饉の年の後に会議を開いて王がこの飢饉の原因であると結論付け、ドーマルディ王とオーロフ・トラタリャ王の両者が生贄にされたと言われている。知識を得るためユグドラシルの樹で首を吊ったという逸話からか、オーディンは首吊りによる死と結びつけて考えられていた。こうしてオーディンさながら首吊りで神に捧げられたと思われる古代の犠牲者は窒息死した後に遺棄されたが、ユトランド半島のボグでは酸性の水と堆積物により完全な状態で保存された。近代になって見つかったこれらの遺体が人間が生贄とされた事実の考古学的な裏付けとなっており、この一例がトーロン人である。しかし、これらの絞首が行なわれた理由を明確に説明した記録は存在しない。