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『Wish You Were Here』 byRiko

 

最終章

 

銃声を聞きつけた旬麗が、転びそうな勢いで二人が居た部屋へと繋がる扉を開ける。

 

「悟空様─────!!」

 

驚愕に見開かれた旬麗の瞳には、椅子の背に散った鮮やかな紅い飛沫と、グッタリとした様子で俯く悟空の姿が映っていた。

 

「悟空様!?悟空様っっ!!」

悟空の元へと駆け寄った旬麗が、必死の形相でその名を繰り返し呼ぶ。何とか顔を上げてみせた悟空が、旬麗へと視線を向けた。

「旬麗…大丈夫…だよ?ちょっと掠っただけ…大したこと、ないから…」

桂花姫が放った弾は、悟空の左肩を掠めて椅子の背へと銃痕を残していた。銃弾を直接受けなかったとはいえ、これだけの至近距離である。悟空の薄い肩は肉の抉れた状態となり、そこからはおびただしい量の血が流れていた。

悟空の金の瞳が、ゆっくりと桂花姫へと向けられる。桂花姫は完全に放心した表情で、銃を構えた姿勢のまま微動だもせずにいた。悟空はどくどくと脈打つような熱い痛みに顔を歪めながら、精一杯の笑みを形作った。

「お姫様…俺…大丈夫だから…心配…いらない、よ…?」

悟空のその言葉に、桂花姫の全身から急速に力が抜けていく。だらりと腕を下ろした桂花姫が、戦慄きながらその口を開いた。

「何故…お前は私を責めないのです…一方的な感情をぶつけて、お前に銃を向けた私を…何故憎まないのです…!?」

ぽつりぽつりとした呟きは、最後は悲痛な叫びとなった。その痛ましい様子に瞳を滲ませながら、悟空はなおも懸命に笑んでみせた。

「キライになんか…なれないよ…だってお姫様、最初から俺に優しかったもん…キライになんか…なれっこない…」

初めて会った時、真っ先に怪我の心配をしてくれた人。雛鳥は無事に戻れたかと訊いた人。自分のどうということのない話を、聞き飛ばさず丁寧に聞いてくれた人。泣き出しそうになった自分の髪を、ぎこちない手つきでそっと撫でてくれた人。

周りが思っているより、そして本人が思っているよりもずっと、目の前のこの人は細やかで温かな人なのだ。自分はそれを知っている。

今もそうだ。たったこれだけの距離、当てようと思えば幾らでも弾を当てることは出来たはずなのに───結局この人は、自分を撃てなかった。

目の前の姫君は、決して自分を憎んでいるわけではない。ただ、自分一人が置き去りにされたように感じたことが哀しくて哀しくて遣りきれなくて。その気持ちを誰かにぶつけずにはいられなかっただけなのだ。

暫しの静寂が流れた後。廊下へと続く扉の向こうから徐々に大きくなるざわめきが聞こえ始めた。その中から全速力で駆けているらしき一つの足音が響き渡り、バタン!!と一切の遠慮のない荒々しさで扉が開かれた。こんな風にこの部屋の扉を開く人物は、一人しかいない。

「…ご…くう…!?」

彼らしくもない、力の無い呟き。澄んだ紫の瞳は、これ以上ないほど大きく見開かれている。走り寄り手を伸ばそうとした三蔵を静かな眼差しで制した悟空は、微かに首を横に振った。

「違う…よ?三蔵が振り返って、手を差し出さなきゃいけないのは…俺じゃない…お姫様の…方だよ…」

悟空の言葉にたった今気付いたという様子で、三蔵が桂花姫の方を振り返る。少し遅れて桂花姫へと視線を戻した悟空が、再びその口を開いた。

「…お姫様…俺、さ…俺にとっては…三蔵は、たった一人の『特別』だけど…でも俺…お姫様のことも、大好きだよ?だから…」

 

『もう、一人で泣かないで─────』

 

淡い鳶色の瞳に映ったのは、穏やかな、揺るぎの無いその笑顔。何かに気付いたように、桂花姫の細い指先が、頬のラインを辿る。

「あ…私…は…」

青ざめた白い頬を、はらはらと、はらはらと、透明な雫が零れ落ちていく。桂花姫は途方に暮れた子供のように、止め処も無く頬を伝う熱い雫を拭い続けていた。

あまりにも哀しい人。自分の心が悲鳴を上げていることすらわかっていなかった人。一人閉ざされた時間が長すぎて、泣き方すらも知らない人。憎めるはずなどなかった。この姫君はある意味───鏡に映った「もう一人の自分」だった。自分もまた、あの塔に居た頃は泣いたことなどなかった。何もかもが一人だった時には、泣く必要などなかったのだ。おそらく自分は、涙を零すということの本当の意味すら知らなかった。

この眩い「太陽」が、目の前に現れるまでは───。

三蔵より一歩遅れて到着した八戒が、取り急ぎ悟空の傷の具合を確認する。無残に肉の抉られた薄い肩を映した翡翠の瞳が、苦しげに歪んだ。

「八戒…ゴメン、な…また、迷惑かけちゃって…」

「何言ってるんですかっっ、もうしゃべらないで…悟浄、悟空を医務室へ運んで下さいっ」

たどたどしく紡がれた悟空の言葉に珍しく本気で怒った八戒が、後ろにいた悟浄を促す。短く頷いた悟浄は、なるべく傷口に負担をかけぬよう気遣いながら小柄な身体を抱き上げた。

「…悟浄の服…汚しちゃうな…ゴメン…」

「ん?いいってことよ、却って俺サマの男っぷりが上がるってもんだ。」

悟空の傷の酷さを承知しながらも、悟浄が殊更明るい口調で応える。熱い痛みと流血による貧血の為に途切れそうになる意識を懸命に繋いでいた悟空だったが、どうやら限界だったらしい。抱き上げられた悟浄の腕の中、悟空は緩やかに意識を手放した───。

 

 

八戒の治療を受けた傷は、悟空の生来の体力もあり、順調に回復のきざしを見せていた。しかし炎症による熱は中々下がらず、時折りふぅ…っと目を開ける以外は、十日あまりの間、悟空はほとんど眠りどおしだった。

やっと少しまとまった時間起きていられるようになった頃、悟空は自分の部屋に戻りたいと八戒に頼んだ。もう傷も塞がり始めて病状が安定していることもあり、やはり馴れた自室の方が精神的にも落ち着くだとろうとの気遣いから、八戒はそれを許した。

誰もが、油断をしていた。悟空は至って静かに八戒の治療を受けて過ごしていたし、あれほどの怪我の後ではそう簡単に動ける筈がないと、誰もがそう思っていた。

そして、あの出来事から半月程が過ぎたある日の夕暮れ───旬麗がほんの少し目を離した隙に、悟空は姿を消した。

三蔵から与えられた金の腕輪、一つを残して。

 

 

「よりによって俺の馬に乗って行っちまうこたぁねぇだろうよ、あのサルッ…あーぁ、これなら乗馬なんて教えるんじゃなかったぜ…」

厩の前で苛立たしげに前髪をかき上げながら、悟浄が悪態を吐く。徒歩では追い付かれてしまうと考えたのか、悟空は悟浄の愛馬を連れ去っていた。

「まぁこの際どの馬でもいいや。じゃあ俺、部隊の召集かけてくっから。」

「その必要はない…行くのは、俺一人でいい。」

城内へと踵を返そうとした悟浄を、三蔵のその一言が押し止める。

「三蔵…貴方、悟空の行き先の見当が付いてるんですか?」

八戒の問い掛けに、三蔵は微かに頷いてみせた。

「何人捜索隊を出そうと同じことだ…おそらく、俺以外にはあいつをみつけることは出来ない。」

三蔵は悟空の行き先があの塔だとほぼ確信している。ならば、どれほどの人手を割いて捜そうとも、悟空の元に辿り着ける者は己以外にありえない。三蔵が引いてきた馬に乗ろうとしたその時、幾つかの人影が厩へと近付いてきた。

「夜風は御身体を冷やしますわ…貴方の帰りを待っているのは、御君お一人ではないと…そうお伝え下さいませ。」

三蔵に外套を渡しながら、姜氏が静かに微笑む。

「あら、それでしたら私は…遠乗りが出来るくらいならもう体調は万全だろうから、戻ってきたら休んでいた分、倍の稽古をつけるつもりなので心しておくようにと…そうお伝え下さいな。」

いつもどおりの快活な口調でそう告げた黄氏は、悟空が残していった腕輪を三蔵へと差し出す。

「…あの…悟空様のお好きな焼き菓子を沢山こしらえてお待ちしていますからと…必ず、必ずお待ちしていますからと…」

こんな事態が起こったのは自分の目が行き届かなかったせいだと、誰よりも責任を感じている旬麗は、今にも泣き出しそうになる。そんな旬麗の肩をさりげなく抱き寄せて、悟浄は三蔵に軽い苦笑いを向けた。

「ったく…俺サマの愛馬をかっぱらうなんざ、一万年早ぇっつーの…帰ってきたらぜってーシメてやるから覚えとけって、そう言っといてよ。」

「…というわけですから、きっちり連れ戻して下さいよ?もし貴方一人でおめおめ帰ってきたりしたら、城門を開けてあげませんからね。」

全員の意見を総括する形となった八戒が、何処かうすら寒いものを感じさせる満面の笑みを見せる。三蔵は「フン」と短く呟き、馬に飛び乗った。

「わざわざ面突き合わせて当たり前のこと言ってんじゃねーよ…必ず、二人で戻る。」

力強い声でそう言い切った三蔵は、馬を走らせ城を後にした。

 

その頃。目的地に到着した悟空は馬から降り、空を振り仰いだ。その金の瞳には───自分でもいつ頃からそこにいたのか思い出せないほどの永い年月を過ごした、あの塔が映っていた。「ヒン」と小さく、馬が鳴き声を上げる。振り返った悟空は、労わるようにその首筋を撫でた。

「頑張ってくれてありがとうな…お前、自分でお城まで帰れるよな?悟浄に…勝手に借りちゃってゴメン…て、謝っといて。」

小さな苦笑いを浮かべた悟空は、帰途を促すように馬の背を軽く叩く。暫し迷うような仕草を見せていた悟浄の愛馬は、やがて森の中へと駆けて行った。

その後ろ姿を見送った悟空が再び上空へと視線を向ける。遥かてっぺんに見える小さな窓からはあの日二人が出て行った時のまま、悟空の編んだ縄が下がっている。塔へと近付いた悟空は杭に足を掛け、慎重な動作で壁を登り始めた。

 

 

三蔵が塔へと辿り着いた時、既に辺りの景色は夜の気配に包まれていた。月と星の光だけが頼りの暗闇の中、あの小さな窓だけが、ほのかに明るい。そこから下ろされていた縄は、既になかった。

「悟空」

明確な意志を伴った三蔵の声が、唯一人の名を呼ぶ。しかし窓の向こうから、あの明るい声は返ってこない。少しの間を置いて、再び三蔵が口を開いた。

「…とりあえず、縄を下ろせ。俺がそっちに行く。」

 

「来るな─────!!」

 

間髪を入れずに返ってきた、叫びにも近い悟空の声が、夜の空気を震わせる。三蔵は瞬きもせず、彼方の小さな窓を見上げていた。

「…来なくて、いい…俺はもう…この塔から出ないから…お願いだから、そのまま帰って…」

先刻とは大違いの、風に紛れて消えてしまいそうな、儚い声。三蔵の口から、大きな溜め息が漏れる。数瞬の間を置いて、三蔵は何かを決意した表情で目の前の壁へと手を伸ばした。

 

 

…それからどれくらいくらいの時が過ぎただろうか。悟空はただぼんやりと、彼の為だけに作られた『閉じられた森』の中で座り込んでいた。そもそもこの塔の中には、時間という概念は存在しない。勿論朝が明けて夜は更けるのだがそれはただ「それだけ」のこと。悟空が出て行く前と、此処は何一つ変わってなどいない。この、作り物の優しさの中で。

自分はまたあの気が遠くなるほどの繰り返しの日々を、過ごしていくのだろうか。ただ、一人で。

そんなことを朧に考えていた悟空の背後から、聞こえるはずのない物音が響いた。畏れと困惑の入り混じった表情で、悟空がゆっくりと振り返る。

「…さん…ぞ…」

視線の先にはいるはずのない彼───三蔵が、そこに立っていた。

「何…で?縄、下ろしてないのに…えっ…!?三蔵っ、その手…!?」

目の前の状況が信じられずに茫然としていた悟空の顔が、一気に青ざめる。無我夢中で駆け寄って掴んだ三蔵の両手は、あちこち掻き傷だらけで、酷い部分では爪が赤黒く変色していた。

「バカッ!!信じらんねぇ…何でこんなムチャクチャすんだよ……」

「…お前が縄を下ろさねぇ以上、自力で登るより他ねぇだろうが。」

泣き出す寸前の顔で怒りをぶつけてくる悟空に、三蔵は当然のように応える。そう、三蔵は煉瓦の僅かな凹凸だけを頼りに、素手でこの塔の壁を登ってきたのだ。

一方的に帰れと言われて、納得など出来るわけがない。自分も相手も、こんなにもはっきりと『互いでなければ駄目なのだ』と、わかりきっているのに。

「とにかく…手当てしなきゃ。こっち来て。」

何とか泣くのを堪えた悟空は、三蔵の手を引いて森の中へと連れて行く。清水の流れる小さな川で手を濯ぎ、傷を治す効果のある薬草を磨り潰して、慎重にその手に塗った。

「丁度よかった…自分で取り替えるのに使おうと思って、包帯一つもらってきてたんだ…」

そう言って取り出した真新しい包帯を、ぎこちない手つきながらも丁寧に巻いていく。悟空は傷の手当てに集中している素振りで、三蔵の顔を見ようとしない。俯いたままの悟空を静かに見下ろしたまま、三蔵が不意に口を開いた。

「桂花姫のことだが…」

三蔵の唇から零れたその名前に、ビクリと悟空の身体が大きく震える。しかし悟空は顔を上げようとしなかった。

「暫く空気の良い処で静養をしたいと…そう言ってきた。とりあえず健康な身体になって、これからのことは、その上でゆっくり考えていきたいと…」

「そっか…うん…」

「お前が高熱で眠り続けている間…何度も様子を見に来ていた。」

「うん…知ってる。」

夢うつつな意識の中で、様々な人が様子を見に来てくれていたことは気付いていた。その中でも印象に残った一人の気配───独特の甘い花の香りと、そっと頬を撫でていく、少し冷たい指先。それが誰なのか、目を開けて確かめなくとも悟空にはわかっていた。

「もう暫くしたら、この王都から少し離れた、湖畔の別荘へと移る…落ち着いたらお前にも会いに来てほしいと、そう言っていた…」

三蔵のその言葉に、一瞬悟空の手が止まる。そしてやはり俯いたまま、悟空はゆっくり首を振った。その仕草は「それが叶う日は無い」ということを示していた。

「…俺さ…前にも言ったけど、自分でもよく覚えてないくらいずっとこの塔にいた…でも、うんと小さい頃から此処にいたわけじゃなくて、何処か別の場所から誰かに連れて来られたんだってことは、何となくわかってて…でもどうして一人でこんな所にいるのかは、やっぱりよくわからなかった。」

ぽつりぽつりと。悟空はそんな風に語り始めた。三蔵は特に返事をすることもなく、沈黙を持って話の続きを促した。

「三蔵が来てくれて…一緒に塔の外へ出て…色んなワクワクすることやびっくりすることが沢山あって…ホントに楽しかった。けど…俺が外に出たことで、哀しい思いをしたり、もの凄く傷ついた人がいた…三蔵と行ったのが俺じゃなかったら、みんなそのまま静かに暮らしてたはずなんだ…俺を此処に連れて来た人は、たぶんそれをわかってたんだと思う。だから、俺が誰かと出会ったりしないように…他の人の世界を壊したりしないように…そう思って、俺をこの塔に入れたんだ…俺は最初から…この塔から出ちゃ、いけなかったんだ。」

三蔵の両手に包帯を巻き終えた悟空が、ゆっくりと顔を上げる。もう揺らいではいない金の瞳は、真っ直ぐに三蔵を見上げていた。

「三蔵は…何でも持ってるよ。キレイで、頭が良くて、強くて…三蔵を大好きな人や信じている人が沢山いて…そんな優しい人達に囲まれて過ごすうちに…三蔵の一生は、幸せなまま終わるよ?譬えそこに…俺がいなくても───。」

そう告げて緩やかに微笑んだ悟空の眼差しは、今までにも何度か見た覚えのある、この世界の理の全てを悟っている賢者のようで。三蔵は己の気持ちがすり抜けてしまっている歯痒さに、きつく唇を噛みしめた。自分の言うべきことを伝え終えた悟空は、そっと三蔵の手を離した。

「今から森を抜けるのは危ないから、戻るのは夜が明けてからの方がいいね…悪いけど此処には、三蔵のお城みたいに立派な物は何もないんだ。だからこのまま寝転がってもらうしかないんだけど…」

申し訳なさそうに笑いながら立ち上がろうとした悟空の腕を、三蔵が捉える。悟空は訝しげに首を傾げてみせたが、三蔵の手の力が一向に緩まないことを悟り、もう一度座り直した。それを見て取った三蔵が、再びその口を開いた。

「…俺が初めてこの森へ足を踏み入れたのは十三の時…雨の夜だった…」

三蔵の唇から紡がれた言葉に、悟空は虚を突かれたように瞳を開く。三蔵が自らのこと…それも過去の思い出話をするというのは、非常に稀なことだった。

「…その日、父上が亡くなられた…ある国から送りこまれた刺客による、暗殺だった…」

「……!!」

「当時の俺は馬鹿馬鹿しいほど無力で…父上の瞼が力なく閉じられていく様を成す術もなく、ただ茫然と見ていることしか出来なかった…俺は父上を、護れなかった…。父上は、捨て子だった俺を何の隔てもなく慈しんで育てて下さった…『国王だから』とか『大恩ある御方だから』とか、そんなこととは関係なく、父上は俺にとって唯一人の御方だった…父上の存在こそが、俺の世界の全てだった…。」

静かな声で亡き人への思いを語る三蔵の瞳の色は、いつもの尊大さが嘘のように、ひどく儚い。少年の日に戻ってしまったかのようなその横顔を、悟空はただじっとみつめていた。

「その夜、俺は城を飛び出した…特に行く当てがあるわけでもなく、ただがむしゃらに、嵐のような雨の中、馬を走らせた…そのうちに落雷に驚いた馬から振り落とされ、一人彷徨い歩いていたら…いつの間にかこの森に入り込んでいた…暗闇の雨の中むやみに動くことも出来ず、途方に暮れて座り込んでいた、その時───」

そこで一度話を区切った三蔵は、悟空の小さな両手を包み込むように握った。

「───何処からか、唄声が聞こえた。とてもか細い、微かなものだったが…それは確かに唄声だった。そしてその唄声に呼応するかのように…周りの木々はまるで俺を庇うかのように枝葉を伸ばしあい、足下の花は月明かりも無い闇の中、周囲を照らすようにほのかに輝きを放った…冷たい雨が降り注ぐ中、俺のいる場所にだけ、何故か暖かな風が流れていた…」

「あっ…」

自分でも無意識のうちに、悟空が声を上げる。

 

覚えている。胸の内で、壊れそうな叫び声を上げていた子供。直接その姿を見たわけではない。ただ、頭の中に直接響いてきたその声が、今にも壊れてしまいそうで───木々に、草花に、流れる風に、ただ祈った。

『護ってやってほしい』と。

……あの時の子供が、まさか目の前の彼だったとは。

 

「その唄声は、俺が安心して眠りに落ちるまでずっと続いていた…夜が明けるとすっかり空は晴れ渡っていて、はぐれたはずの馬がきちんと俺の傍らに戻っていた。城への帰途を辿りながら、俺は自分の気持ちがひどく穏やかになっていることに気付いた…『己に何が出来るのかはわからないが、とにかく前へ進もう』と、そんな風に考えられるようになっていた…。あれから七年の歳月が流れ…俺はこの森で再び、あの唄声を聞いた。初めは幻かと思った…だが声の方へと馬を走らせるとこの塔へと辿り着き、窓の向こうから、間違いなくあの時と同じ唄声が流れていた。どうしても声の主を確かめずにはいられなくて呼びかけたら……あの窓から、お前が顔を見せた。」

三蔵が悟空の手を離し、その存在を確かめるように、あどけない頬のラインを辿る。初めてこの塔の中で出会った時と同じように、三蔵は両の目許にそっと口付けを落とした。

 

「…忘れられなかった…」

額に、頬に、耳元に、柔らかなキスを繰り返す。

「忘れてなんか、いなかった……」

両腕を薄い背中に廻し、小柄な身体を胸の内へと引き寄せる。

「…ここに、いてくれ。」

腕の中の愛しき存在をギュッと抱きしめ、三蔵は言葉を紡ぐ。自分のありったけの想いのたけを込めた、ただ一言を。

 

 

「…俺と…いてくれ─────…」

 

 

次の刹那、悟空の脳裏で「何か」が音を立てて弾けた。初めてその声を聞いた夜のこと、今まで誰一人訪れる者などなかったこの塔の下に、三蔵が現れた日のこと、二人であの窓を飛び越えた日のこと、そして三蔵に王宮に連れられて行ってから今日までの日々。様々な出来事がとてつもない速さで、頭の中を駆け巡っていく。

離れることが、正しいことなのだと思った。自分にとっても、相手にとっても。だが。

一度溢れ出してしまった想いは、もう戻すことなど出来なかった。悟空の細い腕が、そろそろと三蔵の背中に廻る。指先が、強く三蔵の上着を握りしめ、

 

「…さん…ぞう…」

 

祈るように、その名を呼んだ。

 

 

「───!!」

「な…に…っ!?」

突然、もの凄い勢いで二人の足下が揺らぎ始めた。地鳴りのような音と共に、周りの景色がグニャリと歪む。

「何なんだ…」

茫然とした表情で三蔵が呟く。何故いきなりこのような事態が起きたのかは皆目見当が付かないが、この塔に何らかの重大な異変が起きていることだけは確かだった。

(崩れる…!?)

ふと三蔵の胸にそんな不安がよぎったが、それが事実だったとしても、今のこの状況ではどうにもならない。凄まじい揺れのせいで立つこともままならず、譬え窓まで辿り着けたとしても、まさかこの高さから飛び下りるというわけにもいかない。

「三蔵…」

悟空の金の瞳が、真っ直ぐに顔を覗き込んでくる。三蔵は口許にだけごく微かな笑みを浮かべ、より深くその身体を抱き寄せた。これ以上はないくらいに寄り添い合った二人は、静かに目を閉じた。これが終局の時ならばそれはそれでいいと、そんなことすら思う。互いの本当の想いは、確かめ合えたのだから。益々揺れは激しくなり、地鳴りのような音も一層迫力を増している。二人は互いを抱きしめる腕に、グッと力を込めた。

そして───。

 

 

ある一時を境に揺らぎは少しずつ収まっていき、やがて完全に沈静化した。

周囲の状況を確かめようと、ゆっくりと瞼を開いた三蔵の瞳が、驚愕に見開かれる。

「どうなってんだよ…一体…」

平素の彼らしからぬ、困惑を隠せない呟きがその唇から漏れる。二人が今座り込んでいるのは只の広い草原で、あの塔が建っていたことを思わせるような名残は、跡形も無かった。

 

「よぉ色男、色々とご苦労だったな。」

 

二人で茫然と辺りを見回していたところへ、不意打ちのようにそんな言葉がかけられる。聞き覚えの無い声に不信感を抱きつつそちらへと振り返ると、実に艶やかな印象の人物が一人、そこに立っていた。その物言いは無礼極まりないというのに、身に纏う雰囲気は、何処か厳かなものを感じさせる。

「…テメェは何者だ?」

「あ?オレか?オレ様は…」

こちらもまた不遜極まりない態度での三蔵の問い掛けに相手が答えようとした時、その人物に視線が釘付けだった悟空が、三蔵から離れて立ち上がった。

「…観音の…お姉ちゃん…?」

悟空の口から零れた呟きに、三蔵の困惑は更に深くなった。もし今のが聞き違いでなければ……それはこの大陸において、慈愛を司る神を表す名である。

大きく目を開いたままの悟空が、フラフラをそちらに歩み寄っていった。

「おぅチビ、オレ様の名前、ちゃーんと覚えてたじゃねぇか。エライエライ…でもな、」

「観音」と呼ばれたその人物は、実に鮮やかな笑みで悟空に応えながら、その額をトン、と軽く突いた。

「オレ様はちぃーとばかしこの色男と話があるから、お前は少しの間、おネムに入ってな…?終わったら、起こしてやるから。」

途端にフッと目を閉じて前方へと傾いだ悟空の身体を、軽々と受け止める。

「相変わらず小っせぇなぁ~、コイツ…さてと。」

悟空の寝顔に深い笑みを浮かべていた眼差しが、再び三蔵へと向き直る。

「一つ、昔話をしようか。まだ今よりずっと天と地の境目が曖昧だった頃の…お前さん達人間からすれば、遠い遠い昔の話だ…」

そう言ってその人物───観世音菩薩は、悟空を胸に抱いたまま、三蔵の正面に腰を下ろした。

 

 

「その昔…ある霊峰に、巨大な岩石があった。霊峰の土の力をその内に取り込んだ岩石から、ある日…一人の子供が生まれた。それは人でもなく魔物でもなく、蓄えられた大地の生気から生み出された、いわば『大地の申し子』だった…その子供は、世にも稀なる金の瞳を持っていた。」

「…!?」

「そう、コイツのことさ。このチビの瞳は『金晴眼』って言ってな…そう滅多にお目にかかれる代物じゃないんだが…その瞳の持ち主は、生来とてつもない力を伴って生まれてくる。そしてその力は『祝福』と『災い』の両面を併せ持つ…つまりその時々によっては、正にも邪にもなりうるってことだ。天の神々はとりあえずコイツを天界に連れて来て、保護という名の監視下に置いた…。まぁ、そりゃそれでよかったんだよ。心から慈しんでくれる者達に囲まれて、コイツはそれなりに伸びやかに育ってた…だが、その幸せな時間も長くは続かなかった…」

観世音菩薩の流麗な指先が、静かに悟空の髪を梳いた。

「天界でちょっとしたゴタゴタがあってな…このチビの周りにいた連中が、立て続けに死んじまったんだよ。一人残されたコイツは嘆いた…嘆いて嘆いて嘆き続けて…テメェの自我が崩壊する寸前まで、ひたすらに嘆き続けた。大地の申し子の嘆きは、そのまま地上にも影響を及ぼした…森は枯れ、大地はひび割れ、泉は乾ききって干からびた…困り果てた神々はコイツから一切の記憶を封じ、天と地の狭間に、あの塔を建てたのさ。コイツの心が乱されることのないよう、誰の目にも触れぬ塔のてっぺんに、紛い物の自然をこしらえてな…。」

観世音菩薩の話を聞きながら、三蔵は「やはり」と納得をしていた。自分が当初感じたとおり、あの塔は「保護」と「封印」の二つの意味を持っていたのである。そしてやはり、あの塔は本来、此処ではない場所にあったのだ。

天と地の狭間───そんな不確かな場所で彼は自分の声を聞き、自分もまた、彼の声を聞いた。『運命』などというそら寒い言葉を、三蔵は今まで信じたことはなかったが、もしこれが『運命』というものが互いを引き合わせた結果なのだとしたら。生まれて初めて、その『運命』とやらに感謝を捧げてやってもいいと、そんな気持ちになっていた。

「お偉方の決定を覆すことは出来ないが、ジジィ共の意向を丸呑みすんのも業腹なんでな…オレは一つ、あの塔に『仕掛け』を施したんだよ。」

「『仕掛け』…?あの悪趣味な趣向はテメェの仕業かっっ」

途端に柳眉を吊り上げた三蔵の反応を物ともせず、観世音菩薩は満足そうに頷いてみせた。

「おうよ、中々ドラマティックな演出だっただろ?オレ様が施した仕掛けってのはな…もしコイツを本当に連れ出したいと思う者が現れて、コイツ自身もその者と共に生きていきたいと心から願った時…封印の塔は崩れるってモンだったのさ。お前…覚悟は決まってんだろうな?神の封印をぶっ壊してまでコイツを外へ連れ出したんだ…責任重大だぜ?」

言葉の端々にからかいのニュアンスが入り混じった観世音菩薩の問いに、喰ってかかるかと思われた三蔵は、意外にもその表情を曇らせた。

「どーしたよ、色男?『当然だ』って言わねぇのか?」

「…一つ訊きたい…コイツはこの姿のまま、どのくらい生きるんだ…?」

悟空がその幼い姿とは異なる歳月を過ごしてきたであろうことは、薄々三蔵も気付いていた。しかも今の観世音菩薩の話を照らし合わせれば、それは何百年という途方もない重さの歳月であるらしい。

一人残され、自我が崩壊しかかるほど嘆き続けたという子供。自分が只の人間でしかない以上、この子供はまた、同じ哀しみを背負うこととなる。

三蔵の胸中を察したらしい観世音菩薩は、薄く笑って首を振った。         

「あぁ、別にコイツは不老不死ってわけじゃねぇんだよ…ま、人間と比べれば少し時の流れが緩やかだろうけどな…コイツのナリが幼いまんまなのは、あの塔には時間すら存在しなかったからだよ。変わらずに豊かな緑、いつでも清水の流れている小川、決して『死』の影を悟らせない生き物…あそこはコイツの変化を望まない連中の作った、歪んだ箱庭だったのさ。確かに順当に行けば、お前さんがくたばる方が早いだろうが…心配はいらねぇだろうよ。コイツ自身も生まれたての子供みたいだったあの頃とは違うし、様々な人間に囲まれて暮らしていくことで、コイツは今度こそ、命が繋がっていくことの本当の意味を知るだろう…そうすればお前さんが先に逝ったとしても、それを受け止めて生きていけるようになるだろうさ。それに…まさかこのチビが泣くようなコトにはしねぇだろ?」

「ん?」と実に馬鹿にしきった表情で顔を覗き込まれ、不機嫌の最頂点といった表情で睨み返した三蔵が、観世音菩薩の腕からひったくるようにして、悟空を奪い返した。

「フザケたこと言ってんじゃねーよ…誰が泣かすかよ。」

父を亡くして以来、閉ざされたままだったこの心を押し開いて、限りのない豊かさと安らぎを注ぎ込んでくれた、かけがいのない存在。この子供が自分に分け与えてくれたものよりも、もっと余りある、目眩がするほどの「幸せ」を。

「…その言葉、忘れんじゃねーぞ?いつでもバッチリ見張ってるからな…おいチビ、そろそろ起きな。」

先刻眠らせた時と同様に、長い指先が悟空の額を軽く突く。程なくして、悟空がぼんやりとした様子で目を覚ました。

「お姉ちゃん…アレ?俺…」

「おう、お目覚めか?話が終わったからな…安心しろよ、このお姉ちゃんが、色男にはきっちり言い聞かせといてやったからな。じゃあ、元気でな。」

悟空の前髪をクシャリと撫でながら、艶やかな口許が柔らかく微笑む。その手の温もりに、悟空の金の瞳が淡く揺れた。

「お姉ちゃん…俺、いいのかな…?三蔵と一緒に生きていきたいって思って…本当にいいのかな…?」

悟空は記憶を取り戻したわけではない。だが観世音菩薩の名を思い出したことで、自分がずっと以前からこの神を知っていたこと、そしてこの神が己があの塔に入ることとなった経緯を承知しているであろうことを、心の何処かで感じ取っていた。不安げな表情でこちらを見上げてくる悟空の丸い頬を、その指先がピン、と軽く弾いた。

「何言ってんだよ、バカ…お前はもうとっくに、腹くくってんだろうが。だったら、お前が思ったとおりに進みな。お前の人生は、お前のモンなんだから…な?それになぁ、この色男の幸せには、どーしてもお前が必要なんだってさ。お前と生きる為にここまで骨を折ってくれた、たった一人の人間じゃねーか…精々、幸せにしてやんな。」

およそ格調高いなどという表現からはかけ離れた慈愛の神の言葉は、穏やかな慈しみに満ちている。悟空は微かに瞳を潤ませながら笑ってみせた。

「うん…ありがとう、お姉ちゃん。」

もう一度ニッと笑ってみせた観世音菩薩の姿は、次の瞬間にはもう、風に紛れたように消えていた。再び、二人だけの時間が戻る。三蔵の澄んだ瞳を見上げた悟空は、何処か面映そうに笑った。

「もう…夜が明けちゃうね。」

東の方へと視線を向けると、空は既に白み始めている。視線を戻した三蔵は、軽く頷いた。

「あぁ…結局一晩丸々かかっちまったな。早いとこ戻らねぇと、あいつらきっとヤキモキしてるぞ。」

そのまま立ち上がろうとした三蔵が、ふと何かを思い出したようにある物を取り出す。それは城を出てくる際に黄氏から手渡された、悟空の腕輪だった。

悟空の左手を取り、その華奢な手首に腕輪を填め直す。左手を空に翳した悟空は、暫しの間その金の腕輪をみつめた。

「さぁ…『帰る』ぞ。ヤツら、首を長くして待ってる。」

「うん、『帰ろう』…みんなに、いっぱい謝らなきゃ。」

初めて塔の中で会った日と同じように三蔵が手を差し出し、悟空もまたあの時と同じようにその手を握り返す。立ち上がった二人は夜明けの空の下で、そっと優しいキスを送り合った。

 

 

昔々とある大陸のとある国に、一人の王がおりました。美しく、強く、才気溢れる王の傍らにはいつも、金色の瞳をした大地の申し子がおりました。

二人は大変仲睦まじく寄り添い合いながら、末永く幸せに暮らしたということです───。

 

 

 

 

 

Epilouge

『…オイ、さっきから聞こえてるこのウルセェ「声」は何だ!?』

『ハァ…?もしやお前さぁ、近頃スケジュール詰まり過ぎで、脳にキテんじゃねーの?』

『その歳で幻聴はマズイでしょう…一度脳ドックとか受けたらどうですか?』

『お前らなぁ…人を勝手に脳みそイカレてるヤツやらボケ老人扱いしてんじゃねぇよっっ、こんなにはっきり聞こえてんじゃねーか』

『だーかーら、俺達には何にも聞こえてないっつーの』

『あ…それってもしかしたら』

『何だよ』

『貴方だけに聞こえている、「運命の相手の声」…だったりして』

『…それ以上湧いたこと言いやがったらコロスぞ』

『も~、照れ屋さんなんだからぁ…もしホントにそんな相手がいたら、それはそれで面白ぇじゃん』

『フン…くだらねぇな…しかしホントにうるせーぞコイツッ、一体何処にいやがるんだ!?』

 

 

『…アレ?』

『ん?どうかしたか?』

『うん…何か今、「声」が聞こえたような気がすんだけど…気のせいかな?』

 

 

 

─────かくして。

巡り始めたそれぞれの運命の輪は、二つの魂に再びの邂逅をもたらす───。

 

 

Fine.

 

 

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