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『Wish You Were Here』 byRiko
第五章 美鈴がひっそりと王宮を去って以来、悟空の周囲には穏やかな時間が流れていた。三蔵が美鈴へと下した裁定により、彼の決意が本物であることをまざまざと思い知った夫人達は、決して悟空に近寄ろうとはしなかった。ちっぽけな孤児風情が一心に王の寵愛を受けていることは、それなりに格式のある家柄の出身で、高い自負心を持つ彼女達にとっては正に歯噛みする思いであったが、己の立場そのものが危うくなっては元も子もないとの考えからか、遠巻きにして陰口を囁き合うのがせいぜいだった。 淋しくない、と言えば嘘になるが、悟空が避けられているのは今に始まったことではない。その代わりに悟空には悟浄や八戒、姜氏や黄氏といった心強い味方がいたし、それに何より、揺らぐことのない三蔵の存在があった。 そんな中、悟空は自分なりに王宮での日々を過ごしていた。 そんなある日のこと。新たな遊び場を求めて外を散策していた悟空の視線の先に、草叢の中で微かに動いている、フワフワとした小さな固まりが見えた。 「雛鳥…?」 近くに駆け寄ってその正体を確かめようとしゃがみこんだ悟空の瞳に映ったのは、頼りなげな小さな雛鳥。振りかぶって空を仰ぎ見た悟空は、細かな枝の間に作られた巣を確認した。 「あそこから落ちたのか…待ってな、今すぐ戻してやるからな。」 ピィッと弱々しい声で鳴く雛鳥に笑いかけ、悟空は実に慎重な手つきでその小さな体を掬い上げた。雛鳥を落とさぬようそっと掌で包み込み、悟空は片手で器用に目の前の木に登っていく。軽い身のこなしであっという間に巣と同じ高さまで辿り着いた悟空だったが、その肝腎の巣は、めいっぱい腕を伸ばしてギリギリ届くかどうかという、何とも微妙な位置にあった。悟空は片方の腕で幹に掴まり、雛を包み持っている方の腕を懸命に巣の方へと伸ばした。 「うっ…もうちょい…おっ…と…よーしっっ、入ったぁ!!」 無事に雛鳥を巣に戻すことに成功した悟空が歓声を上げる。が、そちらの方へと注意を向けすぎたあまりに自分の身体のバランスを取ることが疎かになっていたらしく、次の瞬間、悟空の身体は完全に幹から離れていた。 「え…?うわぁ~~~~っっ!!」 派手な叫び声と、バキバキと枝の折れる音と共に、悟空の身体がまっ逆さまに地上へと落ちる。下が柔らかな草叢だったことと、悟空自身の反射神経の良さが幸いして大事には至らなかったが、完全に無防備な状態で落ちる形となった悟空の身体は、打ち身と擦り傷だらけになっていた。 「あー畜生っっ、ドジったなぁ…あ~、痛ェ…」 そんな悪態をつきながら、薄く血の滲んだ手の甲をペロリと舐める。その時、何処からかバタン!と大きく窓を開け放つ音が聞こえた。 「誰ですか騒々しい!此処が桂花姫様の御館内と知ってのことですか!?」 窓から顔を出した女官らしき女性が、いきなり悟空を怒鳴りつける。悟空は驚きと焦りの入り混じったような表情で、そちらを振り返った。 (ヤバッ…ココ、お姫様んトコの庭だったのか…アイツにばっか気を取られてたから、周りなんか全然見てなかった…) どうやら此処はもう、桂花姫の住まう北の館の敷地内らしい。悟空は未だに桂花姫とは面識が無かったが、周りから聞いた話から照らし合わせるに、おいそれと近寄れない女性であることだけは何となく理解していた。 悟空が慌てて立ち上がり、その場を立ち去ろうとすると。 「何事です…?」 落ち着いた静かな声が、窓の向こうから聞こえてきた。思わず、といった様子で悟空がそちらに目を遣る。 (あ……) 窓のすぐ近くまで寄ってきたその人物と、視線が重なる。少し青みがかった透けるような肌、亜麻色のフワリとした髪と、淡い鳶色の瞳───この女性が桂花姫その人なのだと、悟空はほぼ直感的にそう思った。 「姫様…いえ、あの子供が、庭先で騒々しくしていたものですから…」 「あ…あの、うるさくしてゴメンなさい、雛鳥が巣から落ちちゃって、それを戻そうとして、今度は俺が落ちちゃって…」 「雛鳥が…?」 ペコリと頭を下げた悟空に、桂花姫が静かな眼差しを向ける。その様子を一通り確認し終えてから、桂花姫が再び口を開いた。 「怪我をしていますね…簡単にではありますが、手当てをさせましょう。中にお入りなさい。」 淡々とした口調で紡がれたその言葉に、悟空が驚きを隠せない表情で顔を上げる。そのまま動こうとしない悟空に、桂花姫は訝しげに瞳を眇めた。 「何をぼんやりしているのです?早く門の方へ廻っていらっしゃい。」 もう一度そう声をかけられ、先程の言葉が聞き間違えでなかったことを理解した悟空は、大きく頷いて急ぎ入り口の門へと向かった。 「それで…雛鳥は無事に巣へと戻れたのですか?」 侍女に包帯を巻いてもらっている悟空に視線を向け、桂花姫が問い掛ける。悟空は嬉しげに笑って頷いてみせた。 「うんっ、ちゃんと巣に入ったのを確かめてから落ちたから…」 「何です、姫様に向かってその無礼な口のきき方は…っ」 傍らに寄り添うようにして立つ女官にきつい調子で窘められ、悟空がビクリと首を竦める。確か初めて姜氏と出会った時にも付き従っている侍女に同じようなことを注意された。姜氏は笑って許してくれたが、今相対しているのは姫という身分の女性である。もしかしたら、ひどく機嫌を損ねてしまったかもしれない。 しかし悟空の予想に反して桂花姫は軽く首を振り、女官を制しただけだった。 「こんな子供にいちいち目くじらを立てるのも大人げないでしょう…良いのですよ、お前の話しやすい言葉で構いません。ところで…お前は誰です?」 「姫様、これは例のあの子供ですわよ、国王陛下が……」 特別な言葉遣いをする必要はないと告げられホッと胸を撫で下ろしていた悟空へ無遠慮な視線を向けながら、女官が桂花姫に小さく耳打ちをする。それを聞いた桂花姫の視線が再び悟空の存在を確かめるように巡らされ、最後に左手首で止まった。 「そうですか。お前が…噂には聞いています。名前は確か…悟空、といいましたか…お前は孤児だそうですね。両親はいつ頃亡くなったのですか?」 「へ…?あ…えっと…俺さ、自分でもよく知らないんだ。気が付いた時には、自分一人だったし…」 悟空のことを「孤児を拾った」ということにしたのは三蔵だが、実際悟空には『親』という存在の記憶は無い。悟空の記憶は、いきなりあの塔での生活から始まっている。それまで自分がどんな風に暮らし、どのような経緯であの塔で暮らすこととなったのか。悟空自身も全く覚えていないことなのだ。 悟空の困ったような笑顔での答えに、桂花姫の瞳に微かではあるが、愁いの色が滲んだ。 「…それは気の毒なことを訊いてしまいましたね…私も、お前と同じようなものです。父上は私が生まれた時には既にこの世の方でなく、母上も早くに亡くなられました…そういう意味でなら、国王も同様ですが。」 「三蔵も…?」 「そうです…まだ赤子であった国王を、伯父上が川岸で拾われたのだと、そう聞いています。ところで…お前は国王をそう呼んでいるのですか?」 「うん。俺さ、ここに来るまで三蔵が王様だって知らなくて、みんなが『国王様』って呼んでるから、俺もそうした方がいいかって訊いたら、それは役割で名前じゃないから、お前は『三蔵』でいいって。」 「王であることを知らなかったというなら、何故お前はそのような全く知らない者について来たのですか?」 怪訝そうな表情で小首を傾げる桂花姫に、悟空は一点の曇りもない金の瞳を向け、花が零れるように笑った。 「だってさぁ、三蔵は『一緒に来い』って、手を差し出してくれたから。さっきも言ったけど…俺、ずーっと一人だった…一人で空を眺めて、一人で風の音を聞いて、一人で毎日が過ぎていくのを見てるだけだった…三蔵が、来てくれるまでは。三蔵がここに連れて来てくれて、色んな人に会って、嬉しいことや楽しいことが沢山あって…そりゃ中には嫌なことや哀しいこともあったけど、でもそれも、一人でいる時にはわからないことだった…三蔵は、俺に数え切れないくらい沢山のモノをくれた。だから『王様』とかそういうのは関係なく、三蔵は俺の、一番『特別』な人。」 今はここにはいない「太陽」へと想いを馳せる悟空の眼差しは、限りなく澄んで明るい。それをみつめる桂花姫は、困惑とも苦笑いとも判じ難い表情を、その口許に形作っていた。 『コホコホ』と、その喉元から軽い咳が漏れる。傍らに付き添っていた女官がその薄い背中をさすった。 「いけませんわ姫様、少しお休みになりませんと…」 「あ…ごめんなさい、お姫様は身体が弱いって聞いてたのに、いっぱい話して疲れさせちゃって…俺もう帰るね。手当てしてくれて、どうもありがとう。」 軽い咳と共に苦しげな呼吸を繰り返している桂花姫の様子に、悟空が慌てて席を立つ。ペコリと頭を下げて扉の方へと向かった悟空の背中を瞳に映した桂花姫が、その口を開いた。 「悟空」 まさか呼び止められると思っていなかった悟空が、慌てて振り返った。 「もし…みだりに騒いで私の周囲を乱したりしないと約束できるなら…お前には特別、この館への出入りを許します。」 暫しの間、悟空はきょとんとした表情で、たった今告げられた言葉を頭の中で繰り返していた。淡い鳶色の瞳は、真っ直ぐに悟空に向けられている。ハッと目を見開いた悟空の顔に、満面の笑みが浮かんだ。 「うん…!絶対うるさくしたりしないって、約束するっ…じゃあ、お大事に!また遊びに来るから!」 少々大袈裟なくらい大きく頷いてみせた悟空が、桂花姫に向かって手を振る。彼にしては珍しいくらい気を遣って静かに閉じられた扉へと目を向けたまま、桂花姫は僅かに微笑った。 「…おかしな子供だこと…」 ぽつりと呟いたその声は、周囲の侍女達が驚きに顔を見合わせるほど、柔らかな響きを帯びていた。 その夜のこと。悟空は風呂上りの濡れた髪を拭きながら、今日初めて出会った桂花姫のことを思い返していた。淡々とした話し方で表情の変化が乏しい印象はあったが、決して冷たい人ではない。帰り際のあの言葉も、非常にわかりにくいが「また遊びに来ても良い」と言ってくれたのだ。悟空の口許に、自然と笑みが上った。 「ナニ思い出し笑いしてんだよ?」 そんな問い掛けの声と共に、背中からすっぽりと温かな腕に抱き込まれる。悟空は首を反らすようにして、顔をそちらに向けた。 「三蔵…今日はもう仕事終わったの?」 「あぁ…お前、その包帯どうした?」 耳元に軽いキスを落としていた三蔵の目線が、悟空の手に巻かれた包帯へと向けられる。悟空はバツが悪そうに笑い、軽く肩を竦めた。 「へへ…巣から落ちた雛鳥を戻そうとして、ちょっとドジってさ…だから今日は、旬麗に髪洗ってもらっちゃった。あ、コレねぇ、お姫様んトコで手当てしてもらったんだよ?」 「『お姫様』って…桂花姫が…か?」 悟空の口から出たありえない人物の名前に、三蔵の声に珍しく動揺の色が混じる。悟空はクルリと身体ごと三蔵に向き直り、ニッコリと笑った。 「うんっ。あのさ、今までみんなお姫様のことって話したがらなかったから、俺てっきり、すっごく厳しい、怖い人なのかと思ってた…そしたら、全然違うのな。ちょっと取っ付きにくいけど、キレイで優しい人だったよ…?うるさくしないって約束できるなら、また遊びに来てもいいって。」 悟空の紡ぐ言葉の数々は、どれも予想だにしなかったことばかりで、三蔵はどう反応を返していいのかすらわからない。クルクルとよく動く明るい金の瞳に下から覗き込まれても、三蔵の端正な作りの顔には、困惑の色が浮かぶばかりだった。 その日を境にして、悟空は週に一回程度の割合で、桂花姫の館を訪れるようになった。近頃の悟空は姜氏に読み書きを教わったり、黄氏に体術の稽古をつけてもらったり、悟浄に乗馬を習ったりと、それなりに忙しい日々を送っていたし、それに何より、幾ら「遊びに来ても良い」と言われたとはいえ、病弱な桂花姫にそう頻繁に会いに行っては負担をかけてしまうと、彼なりに考えたからである。 「遊ぶ」とは言っても、特に何をするわけでもない。大体は悟空が日々起こったたあいのない出来事を話し、桂花姫がそれに静かに相槌を打つという形で緩やかな時間が流れていった。 一緒に過ごす時間を積み重ねていくうちに、悟空は「あること」に気付いた。皆が一様に「近寄り難い」と思い込んでいる桂花姫と、何故これほどあっさりと打ち解けることが出来たのか。それは悟空にしてみれば至極自然な流れだった。目の前の姫君は他の誰でもない、彼の一番大切なその人───三蔵に似ているのだ。 確かに桂花姫は、高貴な身分の女性特有の気位の高さが言動の端々に感じられることも事実である。だが、それをして余りある穏やかな温かさを、悟空は確かに感じ取ることが出来た。 一見素っ気無くも取れる淡々とした話し方、感情の起伏がわかりにくい表情、しかしその根底に流れている、不器用だが偽りの無い優しさ───それらの全てが、悟空には三蔵と繋がっているように思えてならなかった。 おそらく二人は、心底互いを嫌い合っているわけではないのだ。ただ気持ちを上手く表すのが不得手な故に生じてしまった小さな誤解が少しずつ重なって、今に至ってしまっているだけなのだろう。だからといって、長い年月の末に形作られてしまったその関係を、一朝一夕でどうにかできるなどとは悟空も思ってはいない。ただ───自分が間に入ることで、ぎくしゃくとした二人の空気を少しでも和らげることが出来たらいいと、そんな風に思っている。 そんなある日のこと。桂花姫の元を訪れていた悟空は、茶器に注がれた茶から立ち昇ってきた香りに目を細めた。 「何だろコレ…?すごくいい匂い…」 その何とも言えない甘い香りの正体を確かめるように、悟空がクン、と湯気の上で軽く鼻を鳴らす。如何にも子供らしいその仕草に、桂花姫が微かに口許を綻ばせた。 「このお茶を飲むのは初めてですか?」 「うん。姜氏のお姉さんのトコで淹れてくれるお茶もいい匂いだけど、コレとはちょっと違う…コレ、何の匂いだろ?」 不思議そうに小首を傾げている悟空に、桂花姫が軽く手招きをした。促されるように席を立った悟空が、桂花姫の傍らに寄り添うようにして立つ。桂花姫は侍女に取らせた缶の入れ物を受け取り、悟空に見せるようにその蓋を開いた。 「うわぁ…っ」 その中味を見た瞬間、悟空の口から感嘆の声が漏れる。缶の中いっぱいに詰められていたのは、小さな愛らしい柑子色の花弁。 「この花をお茶に混ぜて淹れると、甘い香りが出るのです。」 「ちっちゃくて可愛い花…この花、何て言うの?」 「この花の名は、『桂花』と言います。」 「え…?それって…」 金の瞳が、桂花姫の横顔を覗き込む。悟空の疑問を察したように、桂花姫は軽く頷いてみせた。 「私の名前と同じです。亡き母上が大変お好きで、この花から私の名前を取ったのだと…伯父上からそう聞かされたことがあります。」 「そっかぁ…こんな可愛い花の名前を付けてくれたなんて、お姫様のお母さんは、優しい人なんだな。」 嬉しげに笑う悟空に、桂花姫は僅かな戸惑いを含んだ表情を向けた。 「さぁ…母上は私がまだほんの小さな頃に亡くなられてしまったので、私もよく覚えてはいないのです…お前は何故、そう思ったのですか?」 「ん?だってさぁ、こんなキレイな匂いの花の名前を選んでくれたお母さんなんだもん、優しい人に決まってる。」 迷いのかけらもない笑みが、真っ直ぐに桂花姫へと向けられる。桂花姫は一瞬だけその瞳を見開き、その後静かに微笑った。 「そうですね…もしそうなら、私も嬉しいです…お前の『悟空』という名は、『空を悟る者』という意味ですね…。」 明らかに言葉の意味をわかりかねている様子の悟空に、桂花姫は蓋を閉めた缶を茶卓へと置き、椅子ごと悟空の方へと向き直った。 「…『空を悟る』とは、目には見えぬものに気付き、それをわかることが出来るという意味です。お前にこの名前を授けてくれた方も、おそらくはそこに様々な願いを込めていたのでしょう…。」 桂花姫のその言葉を聞いた悟空の顔が、泣き笑いのようにクシャリと歪む。内側から湧き上がる思いを抑えきれないように、悟空は桂花姫の細い腕にギュッと縋りついた。 「……っ」 突然のことに驚きを隠せない桂花姫の薄い肩が、ビクリと震える。それでも桂花姫は、悟空を払いのけようとはしなかった。 「…俺さ…ホントにずっと一人で…名前を付けてくれた人のことも、覚えてなくて…そんな大事な意味があったなんて、知らなかった…教えてくれて、ありがとう…すっげぇ…嬉しい…」 俯いたままの悟空の唇から紡がれた途切れ途切れの言葉は、くぐもりがちで聞き取り難いものだったが、込められた思いは痛いほど桂花姫の胸にも伝わってきた。躊躇いがちに伸ばされた桂花姫の繊細な指先が、ぎこちなく悟空の髪を撫でていく。物慣れない仕草の中に感じられる不器用な優しさが、暖かな風のように悟空を包み込んだ。 「悟空…顔を上げなさい。」 暫く悟空の好きなようにさせていた桂花姫が、不意に声をかける。悟空が顔を上げると、いつの間にか桂花姫の前には裁縫道具が揃えられていた。 「お姫様…何するの?」 縋りついていた手を離し、悟空が問い掛ける。それには答えぬまま、小さな布のハギレを手に取った桂花姫が針を動かし始めた。悟空は興味深そうに、流れるように動く桂花姫の指先をみつめ続けていた。 程なくして、掌にすっぽり収まるくらいの小さな袋が出来上がった。そこに先程の柑子色の花をいっぱいに詰め込み、袋の口を飾り紐で結ぶと、桂花姫はそれを悟空に差し出した。戸惑いがちに手を伸ばし、悟空が袋を受け取る。顔を近づけると、袋の中から桂花の甘い香りが広がった。 「ずいぶんと気に入ったようですから、それを上げましょう…そうすれば自分部屋でも、香りを楽しむことができるでしょうから。」 悟空は手の中の袋をギュッと握り締め、弾けるような笑顔を見せた。 「ありがとう、お姫様…!絶対、大事にするから!」 溢れる嬉しさをそのまま伝えてくる悟空に、桂花姫は穏やかな眼差しで頷いてみせた。 その夜、部屋を尋ねてきた三蔵の姿を認めた途端、悟空は浮き立つ気持ちのままに思いきりよくその身体に抱きついた。 「どうした…?ずいぶんと上機嫌じゃねぇか。」 少々面食らいながらも、三蔵がポンポンと小さな背中を叩く。 「…?…何かお前…甘い匂い、してねぇか?」 怪訝そうな表情で、三蔵が僅かに首を傾げる。悟空は花が綻ぶような笑みを浮かべ、手の中の物を三蔵の目の前に翳してみせた。 「…匂い袋?」 悟空が見せた小さな袋からは、甘い花の香りが漂っている。悟空は下から三蔵の顔を覗き込むようにして、大きく頷いた。 「うんっ!あのさあのさ、コレ、お姫様が作ってくれたんだよ!」 嬉しさを堪えきれない様子の悟空の声に、三蔵は呆気に取られるしかない。 「この中に入ってる花の名前さ、お姫様の名前とおんなじなんだって。俺が凄くいい匂いだって言ったら、気に入ったみたいだからって、この袋作ってくれたんだ。」 そう言われてみれば、この独特の甘さを含む香りは、秋頃に咲く桂花という花のものだ。そんなことをぼんやり考えていた三蔵の頬に、悟空は満面の笑みのままキスを送った。 桂花姫の小さな心遣いは、その夜の悟空に終始幸福をもたらしているようだった。甘い桂花の香りに満たされた緩やかな空気の中、悟空はゆったりと微笑んで三蔵の腕を受け入れた。 指を絡ませあい、掠れ気味の声で互いの名を呼びながら、飽くることなく口づけを交わし合う。悟空の金の瞳に滲む柔らかな色に、三蔵の瞳にも自然と笑みが浮かんでくる。 互いの熱を放出し終えた後も、二人は名残惜しさを抑えきれないように、幾度も幾度もついばむような優しいキスを送りあった。 「…あの花の名前の話した時さ…お姫様が…俺の名前の意味…教えてくれたんだ…」 温かな三蔵の腕の中、半分まどろみながらぽつりぽつりと悟空が言葉を紡ぐ。 「俺さ…名前を付けてくれた人…覚えてなくて…だから、今まで意味なんて知らなくて…お姫様さぁ…この名前を付けてくれた人は、きっと沢山の願いを込めてくれたんだろうって…そう言ってくれて…俺さ…泣きそうなくらい、嬉しかった…」 何とか最後まで伝えたいことを話し終えた悟空が、そのまま眠りへと入っていく。そのあどけない寝顔を見下ろす三蔵の秀麗な顔には、何とも複雑な表情が浮かんでいた。 悟空の口から語られる桂花姫の人物像は、それまで三蔵が信じてきたそれとはあまりにもかけ離れていた。 正統な王家の血筋を受け継ぐ者であるという誇りに縋っているだけの、つまらない女だと思っていた。先代の王の実子でもないのに王位に就いた己を蔑んでいるのだろうと、そんな男の、形式だけとはいえ夫人扱いされていることは、この上ない屈辱だろうと思っていた。三蔵自身、桂花姫という人物そのものには全く興味がなかったし、ただ亡き父王との約束───姫の身分と生活を守るということを果たしさえすれば、お互いを反目し合ったまま一生を終えても構わないと、そう思っていたのだ。 三蔵は肩口にかかっている大地色の髪をゆっくりと梳いた。この子供の濁りの無い瞳は、真実のみを見抜く力を持つ。もしあの姫が自分が思っているような利己的で高慢な女なら、どれほど物を与えようとも、悟空は決してこれほど心を許しはしないだろう。 腕の中で眠る、限りない豊かさと、温かさを併せ持つ者。止め処も無い「愛おしさ」と、本当の「幸せの意味」を教えてくれた、この世で唯一人の存在。 この存在を得たことで、自分はかつてないほどの安らぎと、満ち足りた心を手にすることができた。その一方で、あの姫だけを何一つ心を満たすものの無い昏き淵に追いやったままでいるのは、正しいことなのだろうかと。 三蔵は、そんなことを考え始めていた。 それから数日が過ぎたある日のこと。三蔵はある決心を胸に桂花姫の館へと向かった。季節の節目や特別な行事の際の挨拶以外には顔を見せることのなかった三蔵の突然の訪問は、大きな波紋を巻き起こした。しかし三蔵はそれを全く意に介さず、女官達に人払いを命じた。 「わざわざ国王自ら足をお運びとは…どのような御用向きでしょうか?」 相変わらず目の前の姫君の口調は儀礼的で、淡々と抑揚が無い。三蔵は萎えそうになる気持ちを奮い立たせるよう、背筋を伸ばして口を開いた。 「…私が連れ帰りました子供が、近頃こちらでお世話頂いているご様子…寛大な御所存、痛み入ります。」 「…その事でしたら、こちらが出入りを許したのですから…国王がお気に病まれる必要はございません。お話は、それだけでしょうか?」 「…あれはよく、貴女の話をします。穏やかな、優しい方だと…近寄り難いと思っているのは、皆の誤解なのだと。そんな話を聞き続けているうちに…私は今まで余りに偏った物事の捉え方をしてきたのではないかと、そんな事を考えるようになりました。」 三蔵の紫の瞳が、しっかりと淡い鳶色の瞳に合わされる。これほどきちんとこの女性を正面から見据えたのは、おそらく初めてのことではないだろうかと、三蔵はそんなことを思っていた。 「私は貴女が、拾われた孤児の分際で王位に就いた私を、軽蔑しているのだと思っていました…ただこの王宮で暮らしていく為に、捨て子風情の夫人扱いされる屈辱に耐えているのだと…ならば私も一切余計な感情を挟むことはなく、先代の王との約束を守り、貴女の生活のお世話だけをしていけば良いのだと…それが互いにとって一番いいことなのだと、そう信じてきました。」 表情を崩すことなくこれまでの経緯を語る三蔵をみつめながら、この男は今更何を言っているのかと、桂花姫はそう思っていた。 そう、自分達は互いを忌み嫌っていて、目の前の男は亡き父王との約束を果たす為、そしてこちらは身分以外の確かな後ろ盾も無いこの身を守る為、こうして上辺だけの関係を結んでいる。それでいいではないか。そうやって表面だけを取り繕いながら、自分達の一生は終わっていくのだ。 「だが…私は先代の王との約束を守るということに囚われすぎて、それが本当に貴女の『幸せ』に繋がっているのかということを、一度も省みることなく、今日まで至ってしまった気がするのです…その事実を…大変申し訳なく思っています。」 その時───桂花姫は自分の心の奥底で、何かがピシリと音を立てて割れていくのを感じていた。三蔵が自分に謝罪をする日など、一生涯訪れることはないと、そう信じきっていたのだ。 「貴女が虚しく過ごした歳月を返すことは適いませんが…これからは、貴女が本当に望む生き方をみつけて頂きたいと、そう願っています…私の夫人だということには囚われることなく、です。無論、私にお世話できることがあれば、出来うる限りのことを致します。」 (…私の…「幸せ」?私の…望む「生き方」?この男は…一体何を言っているの…?) 桂花姫はこれ以上はないほど大きく瞳を見開いて、目の前の「王」と呼ばれる男を見つめていた。不遜で傲慢で、他人の思惑など歯牙にもかけなかったはずのこの男が、誰より疎んじているであろう自分に、このような言葉をかける時が来るとは。 突然桂花姫の脳裏に甦ったのは、花の綻ぶような、あの笑顔。 あの子供が───この男を変えたのだ。幾多の夫人を持ちながら、その実誰一人として本気で愛してなどいなかったこの男を。何もかもを持つ絶対の権力者でありながら、どうにもならない虚しさを抱え続けていたこの男を。 あの輝くような笑顔が、あの何処までも透明な魂が、変えてしまったのだ。 そして一人先に救われた気になっている尊大なこの王は、「だからお前も変わ れ」と、そう言っているのだ。 「国王の深き御心遣い…痛み入ります。少し考える時間を頂いても…よろしいでしょうか。」 少しも気持ちの込もらない声で、桂花姫はそれだけを口にするのが精一杯だった。とにかく今は一刻でも早く、三蔵にこの部屋から出て行ってほしかった。 「勿論です。幾らでもお考え下さい。そして…貴女が一番望んでいるとおりになさって下さい。」 静かにそう告げた三蔵が席を立ち、部屋を後にする。一人残された桂花姫は、まるで魂を抜かれてしまったような表情で、あてどもない視線を宙に漂わせていた。 (…私が一番…望んでいること…?) 三蔵の最後の言葉を、頭の中で反芻する。 少しの間を置いて。淡い鳶色の瞳に、奇妙な歪みを帯びた光が宿った───。 あくる日のこと。桂花姫は初めて自らの意思で、王宮へと向かった。余程重要な公式行事でもない限り、桂花姫自らがわざわざ足を運ぶことは滅多にない。そもそも北の館は先代の王が亡き妹君の為に建てさせた物で、桂花姫は生まれた頃からその館で暮らし、現在までほとんど外に出たことがなかった。その彼女が女官達にも一言も告げずに自分の館を出て、ひたすらに足を進めていく。 その目指す先は───夫人達が住まう別棟だった。 目的の場所へと辿り着いた桂花姫が、扉を軽く叩く。「はい」という返事が聞 こえた後、程なくして目の前の扉が開かれた。 「桂花姫…様…?」 扉を開けて応対に出た侍女───旬麗の口から驚きの声が上がる。一応はこの王宮で働く者である以上、勿論旬麗も桂花姫の顔くらいは知っている。しかしかの姫君をこれほど間近で見たのは初めてだったし、それに何より、目の前の女性が一人の供も連れずにこの棟にやって来ているという事実が、信じられなかったのだ。 「お姫様…!?遊びに来てくれたの?」 旬麗の声を聞きつけた悟空が、急いで扉へと駆け寄ってくる。嬉しさと驚きが入り混じった表情で自分を見上げてくる子供を、桂花姫は感情の読み取りにくい、淡々とした表情で見下ろしていた。 「突然で、迷惑でしたか…?」 「まっさか!遊びに来てくれて、すっごい嬉しいっっ…ねぇ、入って入って。あ、お姫様さぁ、こんな遠くまで歩いてきて大丈夫?疲れてない?」 病弱な桂花姫を気遣いながら室内へと招き入れた悟空は、長椅子へと席を勧め向かい合うようにして自分も腰を下ろした。 「あ…では私は、温かいお飲み物でも…」 ようやく状況を把握することのできた旬麗が、慌てて奥の部屋に向かう。旬麗の気配が完全に去ったのを確認してから、桂花姫がその口を開いた。 「昨夜国王が…私の館に参られました。」 「三蔵が…?」 何か特別なことがない限り、三蔵が桂花姫の元を訪れることはないことを、悟空は以前聞いている。軽く身を乗り出した悟空に、桂花姫は静かに頷いた。 「…今まで大変申し訳なかったと…これからは自分が本当に望む生き方をしてほしいと…そう仰せになられました。」 「…そっかぁ…」 そう応える悟空の顔に、思わず笑みが零れる。今は無理でも、いつかは歩み寄ってくれたらと、そう思っていた。まさかこれほど早く、三蔵がそれを行動に移してくれるとは。 「何をそれほど嬉しげに笑っているのです…?私は…そのような言葉を望んではいなかったのですよ。」 「え…?」 弾んでいた悟空の声とは対照的に、桂花姫の声は抑揚が無く乾ききっていた。 「私達は…お互いを忌み嫌い、蔑みあうことで現在までの日々を重ねてきました…私の中にはあの男が所詮捨て子だという意識があり、逆にあの男からは、正統な王家の血筋という言葉に縋っているだけの女という気持ちが、ありありと見て取れました。伯父上が亡くなられて…あの男は王位に就き、あっという間にその才覚を表していきました…片や私は『姫』という身分以外には何も持たない、心許ない存在…でも、それはそれで構わないと思っていたのですよ。…私にはね、わかっていたのです…あの男が何もかもをその手に掌握している絶対者のような顔をしながら、その実何一つ持ってなどいないことを…亡き伯父上以外に本当に心を許している者などおらず、その胸の奥底には、ぽっかりとした昏い空虚が巣食っていたことを…私と…同じように。お互いに埋まりようのない空っぽの闇を抱え続け、反目し合いながら一生が過ぎていけば良いのだと…私はそう思っていたのです。ところが…」 それまで面が張り付いているかのように全く変化のなかった桂花姫の表情が、動いた。その淡い鳶色の瞳は、真っ直ぐに悟空に向けられていた。 「…突然、お前が現れたのです。お前という『輝き』を手にして、あの男は変わってしまったのですよ。自分だけが安らぎを得たような顔をして、自分だけが救われたような気になって…『今まで申し訳なかった』などと…そんな薄っぺらな言葉を、どうして受け入れることができるでしょう…?」 桂花姫の口許が、ゆうるりと笑みを形作る。その笑みはひどく痛々しく、同時にそら寒いほどの虚しさに溢れていた。その右手が、懐から「何か」を取り出す。そのままピタリと悟空へと向けられた物───それはいつか三蔵が手にしていた、銃という武器だった。 「あの男はこれを持っているのが自分一人だと思い込んでいるようですが…私も同じ物を持っているのですよ。母上が嫁ぐ際に、伯父上が護身用に持たせたのだそうです。あの男は最後に『私が一番望んでいるとおりに』と言って帰りました…私は暫く考えました。そして…私の今一番の望みは…」 そこで一旦言葉を切った桂花姫は、もう一度悟空をみつめ直してから、再びその口を開いた。 「───あの男が、お前を失うことです───」 桂花姫の手元から、カチャリという音が響く。悟空は小さく息を呑んだ。 「お前という『輝き』を失えば、またあの男の心には、埋めようのない空虚が戻る…そうすればまた、私と同じ深き淵まで、堕ちてくることでしょう…」 この時、悟空はようやく全てを理解した。 どうしてわからなかった。 どうして今まで気付けなかったのか。 目の前のこの人の世界には、最初から三蔵以外の人間などいなかったのだ。 一番憎んでいたのも、一番嫌っていたのも、一番蔑んでいたのも、 そして一番…愛していたのも。 その全てが最初から、三蔵唯一人だけだったのだ。 あの塔から出てきた自分にとって、三蔵だけがこの世界の全てであるように。 あの閉ざされた館で一人きりだったこの姫君にとって、三蔵の存在こそが 「外の世界の全て」だったのだ───。 あまりにも痛ましいその笑みをみつめていることが苦しくて、悟空はそっと金の瞳を閉じる。 それを見た桂花姫の細い指先が、ゆっくりと動き出す。 ……そして。 一発の乾いた銃声が、城内に響き渡った─────。 |
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