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『Wish You Were Here』 byRiko
第四章② 「そーいえばさぁ…お前さん、小ザルちゃんと何かあったワケ?この間会った時、みょ~にヘコンでたけど…?」 「…ンだと?何でテメェがあいつに勝手に会ってんだ!?」 「あらヤダ三ちゃんたら。そーんな凶悪な面しなくたって、ただお馬に乗せただけだって。別にチューとかしてねぇってば…それにさぁ、そんなに首ったけなおチビちゃんをほっといて、他の御夫人方への通いに精を出してる御方に、ンなコト言われる覚えないんですケド…?」 「え?僕ソレ初耳です。まさか悟空とのことで開眼して、絶倫王へと路線転換なさったわけじゃないですよね…?」 久しぶりに揃って顔を合わせた三人のそんな会話が聞こえてきたのは、八戒の仕事場である医務室。いつもの如く悟浄が油を売りに来ていたところへ、軍の物資の薬剤についての相談に、三蔵が赴いた為だった。チラリと視線を投げて寄越してきた二人を、三蔵はキッと音のしそうな勢いで睨み付けた。 「…終いにはコロスぞテメェら…大体なぁ、テメェが只でさえ脳みその容量の足りねぇあのサルに、余計な情報を刷り込んだお陰でこんなコトになったんだろうがっっ」 明らかな怒りを露わにした三蔵が、悟浄の鼻先に人差し指を突きつける。悟浄は「はて?」と言いたげな表情で軽く肩をすくめてみせた。 「ワタクシ、何か申しましたっけ…?」 「俺が他の女の所へ全然足を向けてねぇとか何とか、どうでもいいことをわざわざあいつに言いやがっただろっっ…お陰であの単細胞が、見当違いな罪悪感を持ちやがったんだよっっ」 腹立たしいことこの上ないといった様子での三蔵の言葉に、八戒が翡翠の瞳を丸くしてみせた。 「すると何ですか…悟空本人が、それは不平等だから、他の御夫人方の所へも行ってくれとでも言ったんですか…?」 「…そーだよ。」 「…で?三蔵サマは、そのおチビちゃんの進言を呑んだワケ…?」 「そうだっつってんだろっっ…しょうがねぇじゃねーか、そうでもなきゃあのバカがいつまでも無駄に落ち込み続けちまうからな…とりあえず、その件は解決済みだからいいんだよ。」 約束した手前一巡の義理は通したが、もうゴメンだというのが三蔵の本音で、片や悟空はやはり自分だけが三蔵との時間を独占するのは駄目だと、頑ななまでに言い張る。結局二人は互いがどうにか譲歩出来るところで納得し合った。それは二日ないし三日を三蔵が他の夫人の元へ通った後、一日悟空と過ごすというものだった。全くの平等というわけにはいかないが、これなら悟空の良心の呵責も軽減されるし、三蔵としても二、三日のことならば以前ほど苛々することもない。そんなわけで、最近の二人の間は比較的安定している。 「二人して何を呆けた面してやがんだよ…八戒、じゃあこの書面に目を通して足りない物をチェックしといてくれ…悟浄、テメェもいい加減に戻れよ。」 八戒に書面を受け渡し必要事項を伝えた三蔵は、さっさと医務室から出て行った。その足音が完全に聞こえなくなったのを見計らってから、二人は同時に大きな溜め息をついた。 「八戒さん…どーよ、アレ…?」 「驚きましたねぇ…あの人でも、人の意見で自分の意に染まない妥協をするなんてことあるんですね。長い付き合いになりますけど、おそらく初めてのことだと思いますよ?」 「さすがの三蔵サマも、あのおチビちゃんには形無しだな…いやー参った。」 『参った』と口にしながら、その実面白くて堪らないといった表情で、悟浄が取り出した煙草を咥える。 「吸い殻、ちゃんと灰皿に捨てて下さいね。でないと、ぶっ飛ばしますよ…?ところで悟浄…貴方、さっきの話は何処で知ったんですか?」 「ん?あぁ、だってさぁ、あそこの棟をフラフラ歩いてれば、あっちから勝手にベラベラしゃべってくれるもん。曰く『国王サマがこのところマメに足を運んで下さるようになった、これは私への寵愛が深くなった証』…だってさ。自慢タラタラでおんなじコトしゃべってる女が何人もいるんだもんよ。おそらくみんな自分だけが選ばれてるって思い込んでるから、夫人同士の席ではおくびにも出さないんだろうけど…真実を知らないが故の幸福ってのも、この世にはあるね…それがアノ『みすぼらしい孤児』の進言に『国王サマ』が妥協なさった結果の産物だと知った日には、自尊心ばかりが異常に高い御夫人方は、烈火の如く怒り狂うだろうねぇ…おぉ~怖っっ」 細く煙を吐き出しながら、悟浄が冗談めいた仕草でブルッと身を震わせる。そんな悟浄に灰皿を差し出しながら、八戒は軽い苦笑いを浮かべた。 「しかし…知れば知るほど、不思議な子ですねぇ…自分から他の夫人の所へも行くべきだ、なんて。普通あれだけ別格の寵愛を受けていれば、もっと居丈高に権勢を誇ってもいいんですけどね…まぁ、らしいと言えばこの上なく『らしい』ですけど。」 「そーゆーとこが、姜氏黄氏の御両人にまで気に入られたゆえんなんじゃねーの?…この間黄氏と話した時、そうとう好感度高かったぜ?あの御二方は一見誰にも人当たりが柔らかいけど、君主サマに負けず劣らず結構人の好みがはっきりしてるからねぇ…お陰で俺なんか、未だに姜氏の御館に呼ばれたことないんだぜ~?」 「何言ってるんですか。それは貴方が以前、姜氏付きの女官にまで手を出そうとしたからでしょう?全く手当たり次第なんですから…」 たあいのない軽口の応酬をしながらの二人の笑い声が、廊下まで届く。「皆が躊躇せず入って来られるように」との八戒の配慮から、医務室の扉は常時開いている。扉をきっちり閉めるのは、重篤な怪我人・病人がいる場合のみである。だから当然、近くで耳をそばだてれば中での会話も容易に聞き取ることが出来るのだが。 その時二人は、壁際で身体を震わせながらそのやり取りを聞いていた人物がいたことなど、知る由もなかった───。 「悟空に、王の御紋入りの腕輪を与えられたそうですね。」 隣国よりの書簡から目を離さぬまま、姜氏が三蔵に声をかける。斜め向かいの席で同じように書面に目を通していた三蔵が、やはり顔を上げぬままその口を開いた。 「…王たるこの身が誰に寵愛を向けようと、別段憚ることはないはずだが…?卿ともあろう者が、そのような無粋なことを口にするとは意外だな。」 姜氏の物言いは至って穏やかだったが、その中に僅かに含まれる小さな棘のようなものが、三蔵の耳に引っかかった。自ずと返答にも険が篭る。 「無論、仰せのとおりでございます。何者にどれほどの寵愛を向けようとも、全ては御君の御心のまま…この王宮に居を構える者は、そのようなことは当然承知致しているはずとお思いでしょうが…ですがそれでも、不当な妬みを抱く者はおりましょう。」 悟空が紋章入りの腕輪を付けていたという噂は、次の日にはあっという間に広がっていた。三蔵は「自分と相手を繋ぐ印」とだけしか説明をしなかったが、彼の夫人全てにそれが与えられているわけではない。王の紋章をその身に付けることを許されているのは、これまで別邸の三夫人のみであった。その特別な意味を持つ腕輪を新参者同然の、しかも拾われてきた孤児風情に王自らが与えてしまった。それまでもあちこちで燻っていた悟空への反感の炎は、一気に燃え広がる業火となりつつあった。 「そしてあの子供は…そのような苛烈な感情の渦の中に身を置くには、少々清らか過ぎます。」 姜氏の気遣わしげな声に、三蔵が書面をめくっていた手を止めて顔を上げる。その視線の先では、愁いを帯びた黒曜石の瞳が、真っ直ぐにこちらを見据えていた。 「真に護りたいとお考えなら…どうぞあの子の想いを、お察し下さいませ。」 最後まで静かなまま、姜氏は一言だけそう言った。 「そうですか…さすがに姜氏は、核心を突いた仰りようをなさいますね。」 後日、黄氏と顔を合わせた三蔵は、姜氏との会話について大まかな部分を語って聞かせた。そして神妙な表情で話を聞いていた黄氏の口から出た第一声が、それだった。三蔵としては数日経った今も姜氏の言動の真意を掴みかねているというのが正直なところだったので、何故黄氏までもがこうもあっさりと賛同の意を示しているのか、困惑するばかりだった。 「…すると卿らは、あいつが女共のくだらんやっかみ如きで、本気で傷つくと思っているのか?」 訝しげに柳眉を寄せながらの三蔵の問いに、黄氏はきっぱりと首を振った。 「そういうことではないのです…そういう意味でなら寧ろ、悟空は決して理不尽な妬みに屈したりはしないでしょう。あの子は強き心の持ち主です。ですが…強き心を持っているからこそ、却って深く傷つくこともあります。」 「強いからこそ…傷つく?」 「強き心が故に、不当な暴力には打たれ強い…しかし…真正面から真の憎しみをぶつけられた時…おそらくあの子は、自分を憎んだ相手を責めることは出来ないでしょう。相手の心の弱さを責めるのではなく、『憎ませてしまった』己 の至らなさの方を責めてしまう…あの子はそういう子です。その清らかさが仇となり、深く傷ついてしまうことになりはすまいかと…姜氏はその事をこそ、愁いておられるのだと思います。」 悟空の真っ直ぐな気性を理解しているからこその気遣い。やはりこの二人は、他の女達とは明らかに物事の捉え所が違うのだと、三蔵は軽い驚愕を覚えながら、目の前の女性をみつめた。 「陛下の寵愛を望む者があれだけの人数で暮らしているのですから、多少の感情のぶつかり合いや醜い妬みは当然ありましょう…その程度のことで済めば、それに越したことはないのですが……」 黄氏は彼の人には珍しい伏し目がちの表情で、静かに言葉を紡いだ。 「悟空」 廊下を歩いている途中で、明るい声に呼びかけられた悟空が振り返る。 「美鈴…」 声の主は、この棟で初めて自分から悟空に話し掛けてきた少女・美鈴だった。三蔵に拾われた孤児ということになっている悟空に向けられる視線は冷ややかに見下ろすようなものが大半だったが、その中で美鈴は好意的に悟空を励ましてくれた、唯一の夫人だった。 「あのね、私の部屋に頂き物の珍しいお菓子があるんだけど、よかったら食べに来ない?」 「ホント?あっ…でも俺、これから黄氏のお姉さんに槍の稽古をつけてもらう約束が…」 「だったら、その帰りにでもいらっしゃいよ。お稽古の後の方が美味しく食べられるでしょうし。」 「いいの?じゃあ、終わったら絶対行くから!」 「ええ…じゃあ、また後でね。」 美鈴の誘いに、悟空は心底嬉しそうに目を輝かす。美鈴はそんな悟空に小さく頷いてみせた。跳ねるような足取りで、悟空が再び歩き出す。その小さな後ろ姿を、美鈴はひどく静かな眼差しで見送っていた。 「さてと…じゃあ今日は、このくらいにしておきましょうか。」 「ハ…ハイッ、ありがとうございました!」 構えていた槍を下ろした黄氏に、悟空は馴れぬ言葉遣いで礼を述べながらペコリと頭を下げた。たどたどしいながらも懸命な悟空の姿勢に、自然と黄氏の口許も綻ぶ。 「何かいいコトあった?凄くウキウキしてるみたい。」 「あのねっ、美鈴が珍しいお菓子をもらったから一緒に食べようって、誘ってくれたんだ!」 三蔵があの腕輪を与えて以来、元々良くなかった悟空への風当たりが益々強くなったことは、勿論黄氏の耳にも聞き及んでいる。そんな状況での美鈴の誘いがどれほど嬉しかったのか、悟空の表情がその全てを物語っている。 「そう…じゃああまり待たせちゃ悪いわね。早く行っておあげなさいな。」 「うんっ、じゃあ、今日はどうもありがとう。また教えてね!」 慌ただしく挨拶をした悟空が、小さく手を振って踵を返す。軽く手を振り返す黄氏の瞳には、逸る気持ちを抑えきれない様子で軽快に駆けていく悟空の姿が映っていた。 軽く息を弾ませて到着した悟空を、美鈴は穏やかな笑顔で迎える。既に円卓に茶の用意がされており、目にも鮮やかな色とりどりの菓子が並べられていた。美鈴はゆったりとした手つきで茶を注ぎ、悟空は遠慮なく菓子に手を伸ばす。暫くの間、たあいのない話をしながら、二人の時間は流れていった。 「腕輪…頂いたのね…」 悟空の左腕へと視線を落とした美鈴の唇から零れた、小さな呟き。悟空は食べかけの菓子を一口で詰め込んでから、コクリと頷いた。 「うん…何処にいても、お互いを繋ぐ印だからって。コレさ、みんなが持ってるのって、ちょっとずつ違うのかな?姜氏や黄氏のお姉さんがしてるのって、太さとか石の形なんかが微妙に違うんだけど…」 目線の位置まで上げた左手首をヒラヒラと翻しながら、のんびりとした口調で悟空が答える。未だ事の真相を聞かされていない悟空は、当然全ての夫人がこの腕輪を所持していると思っている。この棟に住む夫人の面々は悟空に対し露骨なまでに疎遠な態度を取っている為、他の夫人がどんな装飾品を身に付けているかなど、まじまじと意識して見たことはない。その悟空が唯一親しくしている両氏は無論同じ物を持っているわけで、悟空の誤解はそのまま確信になってしまっていた。更に間が悪いことにはこの日の美鈴の服装が、袖口が手の甲の辺りまでを覆うような様式の物だったので、悟空には美鈴の手首は確認出来なかったのである。 「…綺麗な石ね…」 窓から差し込む陽光を受けて煌く宝石を、美鈴は眩しそうに見上げる。美鈴のその言葉に、悟空はニッコリと笑ってみせた。 「うんっ、この石、すっげぇキレイだよな。三蔵の瞳の色とおんなじ…三蔵の瞳ってさぁ、普段もキレイだけど、笑ってる時はもっとキレイだなぁ…って思うんだ…。美鈴は?そう思わない?」 屈託のかけらもない笑顔で振り返られた美鈴は、その顔から目を背けるように伏し目がちに俯いた。 「さぁ…私は…国王様の笑ってらっしゃるところなんて、ほとんど見たことがないから…」 三蔵が滅多に笑顔を見せたりしないというのは紛れも無い事実なので、悟空は美鈴の言葉の陰に隠された、物哀しい響きに気付けなかった。 「んー…まぁ、そうだよな。普段は圧倒的に機嫌悪そうな顔してるし…でも、その中でもさ『あ、今日は機嫌良さそうかも』って時って、何となくわかるんだよな…で、そーゆー時って、瞳の感じがちょっと違うの…なーんて、俺が勝手に思ってるだけかもしれないけど。」 軽くこめかみの辺りを掻きながら照れたように笑う悟空には、傍らに座る少女の胸の内で、「何か」が音を立てて壊れていっていることがわからない。 『自覚が無い』ということが、時に人を傷付ける、とてつもない『刃』となり得ることを、悟空が知る由もなかった。 ───程なくして、悟空がしきりに目許をこすり始めた。 「腹…いっぱいになったからかなぁ…何か俺…すっげぇ眠い…」 「…長椅子で少し休んでいったら?私なら構わないから。」 「ん…でもあんま遅いと…旬麗が…心配しちゃうし…何にも言わずに…こっちに来ちゃった…から…」 そこまで何とか言葉を紡いでいた悟空の上半身が、円卓の上へと突っ伏すように倒れこむ。 自分の席を立った美鈴は、その邪気の無い寝顔を、それまでの表情からは信じられないほど冷たい視線で見下ろしていた。 ドサリと、何か硬い物の上に身体を投げ出された感覚に、朧ながら悟空の意識が覚醒する。まだ完全には眠気が抜けきらないらしく、瞼も薄らと開けることしか出来ない。頬に当る風の感じから、今いるのが屋外で、それも緑の多い場所だということはわかった。 (水…?) 僅かに開いた目線の先に、ぼんやりと水面のようなものが見える。すると此処は、何処か池のほとりのような所なのだろうか。 「…貴方がいけないのよ…」 意識のはっきりしない頭でそんなことを考えていた悟空の耳に、不意に小さな呟きが飛び込んできた。どうやら自分の傍らには、誰かが立っているらしい。聞き覚えのある声のような気もするが、その声音はあまりに無機質な感じに乾いていて、誰が発しているものなのかよくわからない。 「自分は特別の寵愛を受けてますって顔して、これ見よがしに国王様の紋章入りの腕輪を身に付けて…その腕輪はね、そんな簡単に頂けるような代物じゃないのよっっ、今までにそれを持っていらしたのは、別邸の三人の御夫人だけ…高貴な御身分の方や、国王様のお役に立っている方だけが持つ事を許される、特別な物なのよっっ…それを何よ、ちょっと姜氏や黄氏の御二方に上手く取り入ったからって、高貴な身分なわけでもない、何の役に立っているわけでもない貴方が、どうしてそれを持つことが許されるのよ…!!」 始まりは淡々としていた口調は、最後にはまるで溶鉱炉の炎の如く、熱く険しい怒りと憎しみが溢れ出さんばかりの激しいものとなっていた。姿がはっきり見えなくとも、いや、はっきり見えないからこそ、傍らの声の主が肩で息をしながら、とてつもない憤りに全身を震わせている気配が、空気を通して悟空の身体全体に伝わってくる。その憤りはあまりに鮮烈で、同時にあまりに痛々しかった。 「…国王様は家族を一度に失ってしまった私を気の毒に思って夫人の一人にして下さったけど…結局はそれだけのことで、国王様が私の元に足を向けて下さることはほとんどなかった…贅沢な調度や美しい衣装…確かにそれは、私にはもったいないくらいの待遇だったけれど…国王様のお通いもなく、親しく話せる人もいないあの王宮は…私にはとても淋しい所だった…」 潮が引くように怒りの感情が萎えた後のその声から滲むのは、只々深い哀しみだけ。彼女は他の者のように「権威の象徴」としての腕輪を妬んだのではないことが、そこから感じ取れる。彼女が羨んだのは、そこに込められた「三蔵の想い」そのものだったのだ。 「…近頃国王様が、以前よりずっと頻繁にお顔を見せて下さるようになって…とても嬉しかった…譬えそれがほんの気まぐれであっても、申し訳程度に御言葉を下さるだけで、笑顔なんて見ることが出来なくても…それでも充分…嬉しかったのに…それが何もかも、貴方のお情けだったなんてっっ…何よ、こんなもの…っっ!!」 乱暴な手つきで左腕を取られ、カチャリと腕輪が外されたのがわかる。次の刹那、ポチャン…と何かが水の中に投げ込まれたような音が辺りに響いた。 少しの間を置いて、堪えきれなかったような啜り泣きが聞こえてきた。 「…友達に…なれると思ったのに…気位が高くて冷たい人ばっかりのあの王宮で…やっと友達になれそうな人ができたって、そう思ったのに…友達に…なりなかったのに……っっ」 ポタリと、熱い雫が悟空の手の甲に零れ落ちる。悟空は力の入らない身体で、必死になって瞼を押し上げようとする。やっとの思いで半分ほど開くことのできた金の瞳に映ったのは、様々な想いが入り混じったような、ボロボロの泣き顔。暫し泣き顔のまま悟空を見下ろしていた彼女は、踵を返してその場を離れていった。遠ざかる蹄の音を聞きながら、悟空は言葉を紡ごうと、思うように動かない口を開く。 「…ゴメン…な、美鈴…」 途切れ途切れの呟きの後、悟空は懸命に開いていた瞼を再び閉じた。 それからどのくらいが過ぎたのだろうか。悟空がようやく身体を動かせるようになった頃、既に辺りにはすっかり夜の帳が下りていた。まだぎこちない動作で身体を起こした悟空が、静かな水面へ視線を向ける。 「腕輪…探さなくちゃ。」 短くそう呟いた次の瞬間、悟空は何の躊躇いもなく目の前の池へと飛び込んだのだった。 同じ頃、夕食の話などをしながら廊下を歩いていた悟浄と八戒は、いつになく焦りを隠せない表情で走っている旬麗に出会った。 「旬麗…どうしました?そんなに慌てて…」 「あっ…八戒様、悟浄様…あの、どちらかで悟空様をお見かけしませんでしたでしょうか?」 「おチビちゃん?いや、今日は会ってないけど…まだ戻って来ねぇの?」 「はい…昼食の後、黄夫人に槍のお稽古をつけて頂く約束があるからと仰ってお出かけになったきり、まだ…今までどんなに遅くとも、こんな時間までお帰りにならないことなどなかったので…もしや何処かで怪我でもなさって、動けずにいらっしゃるのではないかと…」 八戒と悟浄に事の経緯を説明しながらも、旬麗の顔に浮かぶ心配の色は、益々深くなっていく。八戒と悟浄は顔を見合わせ、ほぼ同時に頷いた。 「八戒、お前さんひとっ走り三蔵サマんトコへ行って、事情を説明してきてくれ。俺はこのまま黄氏の館に向かう。」 「了解しました。三蔵を捕まえ次第、僕らもそちらに合流します。」 そう言い終えた途端、すぐに走り出した八戒を見送ってから、悟浄は旬麗の肩をポンと軽く叩いた。 「…というワケだからさ、旬麗は部屋に戻っててくれよ。もしおチビちゃんが戻って来た時に誰もいないと、可哀想じゃん…な?」 「わかりました…どうか、よろしくお願い致します。」 安心させるように笑いかけた悟浄に向かって、旬麗は深々と頭を下げた。 八戒の説明を聞いた三蔵は残りの公務もそこそこに切り上げ、まさしく疾風の如き勢いで黄氏の館へと向かった。突然の訪問に驚きながらも、黄氏は三人を好意的に迎え入れてくれた。 「あらまぁ、王宮きっての美男子が三人お揃いで…如何致しました?」 「夜分に突然押しかけまして申し訳ありません、黄氏…あの、今日悟空にお会いになりましたか?」 「…?ええ、午後に二時間ほど槍の稽古を致しまして…その後、美鈴と茶会の約束があると言って、それは嬉しそうに戻っていきましたけれど…何か?」 「美鈴…?誰だそれは?」 「…陛下」 三蔵のその一言に、滅多に彼を非難したりすることのない黄氏でさえ、思わず呆れたような声を上げる。悟浄は溜め息を一つ落とし、大袈裟に肩をすくめてみせた。 「…お前さんてそーゆートコ、サクッと残酷だよね…悪気がない分、尚のこと酷ぇよ。あ~、俺もし女に生まれ変わっても、絶っっ対お前さんみたいな王の夫人になるのなんかゴメンだね…俺様だってあの棟に住んでる十人の名前と顔くらい一致してるぜ…いい加減にしとけよ、オイ」 「まぁまぁ悟浄…ほら三蔵、あの娘ですよ。先代の王の頃から王宮に品物を納めていた豪商のお嬢さんで、一家が夜盗に殺されて、貴方が引き取った…」 八戒の説明を受けた後も、三蔵は「そういえばあの娘の名がそうだったか」と思う程度だった。彼女の父であった商人は、先代の父王の頃から厚く礼を尽くしてくれた人物で、それは三蔵が王位に就いた後も変わらなかった。そんな故人の礼に少しでも報いることになるならば、との思いで三蔵は彼女を夫人の一人に加えたのである。三蔵にとっての美鈴とは、それ以上でもそれ以下でもない存在だった。 次の情報を得て、急いで踵を返した三蔵の背中に、黄氏が「陛下」と声をかける。振り返った三蔵に、黄氏は愁いがちな表情を向けた。 「美鈴は…あの棟に住む者の中では珍しいくらい、素直で純朴な娘です。どうぞあまり追い込むような真似は、なさいませんよう。」 暫し訝しげに瞳を眇めてみせた三蔵は「事と次第による」とだけ言い残し、黄氏の館を後にした。 そのまま三人で、美鈴の部屋へと向かう。まさか三蔵本人が直接来るとは思いも寄らなかった美鈴は、心の動揺を隠しきれないでいた。 「…暫く一緒にお茶を飲んでお話など致しましたが…日が暮れる前には帰られました…」 答える言葉は歯切れも悪く、俯きがちの視線は三蔵に合わされることがない。一瞬落ちた沈黙の後。微かに震えている美鈴を見下ろしたまま、三蔵が口を開いた。 「…お前がそう言うのなら、これ以上の詮索はしない。但し…お前が万に一つでも偽りを述べていて、あいつにもしものことがあれば…その時は…俺はひとかけらの迷いもなく、お前を殺す────。」 矢のように放たれた三蔵の言葉に、美鈴の肩がビクリと大きく跳ね上がる。 驚愕の思いで恐る恐る顔を上げた美鈴の瞳に映ったのは───…一切の同情の余地など許さない、美しいまでに凍りついた、昏い紫の瞳。 「……っ」 これ以上はないほど目を見開いた美鈴の口からは、もはや叫び声すら出ない。両親と弟を一度に失ったあの日、この城へ来いと言ってくれたのと同じ唇が、今は迷いなく自分を殺すと告げている。 美鈴は絶望にも近い思いで、あの日から自分にとって「神」にも等しい存在であった男を見上げていた。 「美鈴…三蔵は悟空が心配なあまり、少し気が立っているだけなんです…ですからね、もし貴女が知っている事があれば、僕らに教えてもらえませんか?」 萎縮しきってしまった美鈴を和ませるように、八戒が穏やかに語りかける。 美鈴は一気に緊張の糸が切れてしまったように、そのまま床に崩れ落ちた。 「…お茶に薬を混ぜて眠らせ…北の森の…池の近くに、置き去りにしました…その後は…知りません…」 「よく話してくれましたね…ありがとう。三蔵、今は悟空を探す方が先です。急ぎましょう。」 短く頷いた三蔵が、足早に美鈴の部屋を出て行く。その厳しい眼差しが、床に崩れ落ちたまま嗚咽を上げる美鈴へと向けられることは、二度となかった。 三蔵達が全力で馬を駆っていた頃。悟空はようやく岸辺へと手をかけたところだった。やっとのことで水底から探し出した金の輪を、月の光に翳してみせる。 「やっとみつかったよ~…傷とか付いてなくて、よかった…」 視線を上げてそれをみつめた悟空が、安心したように笑う。岸の淵にかけた手に反動をつけ、水から上がった悟空は、ふるりと身を震わせた。 「遅くなっちゃった…早く帰んないと…旬麗が心配しちゃうな…」 夜の冷えた空気の中、長いこと水に潜ったことで疲弊しきった身体を何とか動かして、悟空は森から出ようと試みる。勿論悟空は帰り道を知っているわけではない。だが、周りの木々の気配で、何となく見当は付くのだ。おぼつかない足取りで前へと進みながら、悟空は全身が小刻みに震え出していることに気付いた。 「ちょっと…寒ィ…かな…さんぞーがいれば…『冷えてんじゃねーか、バカ』…って言って…ギュッ…てしてもらえるのに…な…」 そんな独り言を呟きながら、悟空は薄く微笑う。吐き出す息が荒い。足下がフワフワと頼りなく、寒いのに熱いような、奇妙な感覚。不意に小石にけつまづいて倒れそうになった、その時。 「悟空────!!」 突然前方から響き渡った、力強い声。転びそうになるのを何とか踏み止まって視線を前へと向ける。近付く蹄の音と共に、夜空の下に『太陽』が現れた。 「さん…ぞ…」 「悟空…!?お前、一体何が…っ」 髪から足の先までびしょ濡れの悟空の姿に、三蔵の瞳が見開かれる。 「…ヘーキ…だよ?ちょっと…寒ィけど…でも少し…疲れた…かな…」 笑ってそう応えた悟空の身体が、ゆっくりと前へと傾ぐ。急いで馬から飛び下りた三蔵が、寸でのところでその身体を受け止める。腕の中で荒い息を継ぐ悟空は、完全に意識を手放していた────。 それから数日の間、高熱を出し続けた悟空は、ぼんやりとした様子で時折目を開くことはあっても、ほとんど眠りどおしだった。その間八戒はほぼ付ききりで看病し、旬麗は甲斐甲斐しく身の回りの世話をし、三蔵もまた忙しない公務の合間を縫って、極力経過を覗きに来ていた。 そして────ようやく悟空が寝台の上で身を起こせるまでに回復したのは、事件から五日目の朝のことだった。 「うん…熱もずいぶん下がりましたし、後はおいおい良くなっていくでしょう…よかったですね、悟空。」 「うん。色々ありがとうな、八戒…あの…さ…」 明るい声で礼を述べた悟空が、不意に口篭もる。悟空が何を知りたがっているのかを何とはなしに察した八戒は、自分から静かに問い掛けた。 「美鈴のこと…ですか?」 「えっ…あ、うん…俺、あれから全然動けなかったからさ、会いに行くことも出来なかったし…」 「美鈴は今、この棟には居ません。黄氏にお願いして、西の館で預かって頂いています…そして諸々の用意が整い次第、美鈴はこの王都から離れた小さな村に屋敷を与えられ、そこで暮らすことが決まっています。」 敢えて情を交えず淡々と事の結果だけを伝える八戒の言葉に、悟空が弾かれたように顔を上げた。 「何だよそれっ!?だって美鈴は…っっ」 「悟空…貴方もわかっているとおり、三蔵は『王』です。彼が王として下した裁定は、決して何人たりとも覆すことは出来ません…それが譬え、貴方であってもです。美鈴が…決して財力や権威の為でなく、ただ純粋に三蔵を慕っていたことは僕も知っています…でもね、だからこそ、この方がいいんだと思うんです。」 「何でっ…!?」 「どれほど精神的に追い詰められた上でのこととはいえ、貴方を傷つけようとした者を、三蔵は決して許さないでしょう…これから先何十年と続く人生を、金輪際自分を振り返ることのない王の元で暮らすことが、美鈴にとって幸せなことだと思えますか?それならば…全く新しい場所で、新しい人々と、新しい人生をやり直した方が、美鈴の本当の幸せに繋がるんじゃないかと…僕は思うんですよ。」 「そうは思いませんか?」と優しく問い掛けながら、八戒が悟空の顔を覗き込む。悟空はその胸に交錯する思いをどう言葉にしていいのかあぐねた表情で、黙って唇を噛むばかりだった。 その夜。身を起こせるようになった悟空を見た三蔵は、上機嫌でその小さな身体をすっぽりと抱き込んだ。 「やせたな…」 大地色の髪に顔を埋め、三蔵がぽつりと呟く。元々細い身体は、ここ数日の高熱のせいで一層頼りなげな印象になってしまっていた。 「大丈夫…いっぱい食べたら、すぐ直るから…心配かけて、ゴメンな。」 三蔵の仰々しいまでの心配ぶりに、悟空は面映そうに微笑って応える。美鈴のことを思えば、こんな風に三蔵に甘えているのはズルイとわかっているのに。それでもやはり、自分を一番安心させてくれるのは、この人の腕以外にはありえなくて。 本来ならこの城を出て行くべきなのは自分の方で。それなのに、何処までも浅ましいこの身は、この眩い『太陽』の下を自ら離れることは出来ないのだ。 ならば、せめて。 「三蔵…?」 「…何だ?」 額やこめかみに軽いキスを送りながら答える三蔵に、悟空がある物を差し出す───それはあの日水底から探し出して以来、一度も身に付けないままだった金の腕輪だった。 「コレ…返す。」 一言だけそう呟いて、悟空は顔を俯かせてしまう。三蔵は腕輪を握る悟空の手首そのものを掴んだ。 「これは…俺とお前を繋ぐ印だって、そう言ったよな?」 「うん…」 「絶対大事にするって…そう答えたよな?」 「うん…だから、返す。」 悟空は俯いたまま、三蔵と視線を合わせようとしない。三蔵は敢えて無理じいをせず、ゆっくりと髪を梳いて話の続きを促した。 「俺…この腕輪、みんなが持ってるんだと思ってた。でも、そうじゃなかったんだね…俺さ…ホントに何にも知らなくて、俺が何にも知らずにいたことで、美鈴はいっぱい哀しんで、いっぱい傷ついた…偉いお姫様でもない、難しい本も読めない、戦いで手柄を立てたわけでもない…何にも三蔵の役に立ってない俺が、コレもらう資格なんて…ない…」 途切れ途切れに言葉を紡ぎ出す声には、いつもの明るさや力強さの片鱗も感じられない。三蔵は手首を掴んでいた手を移動させ、腕輪を握っている指を開かせる。寝台の上に落ちた腕輪の変わりに、三蔵は自らの指をグッと絡ませた。 「何ワケわかんねぇこと言ってんだ…俺がいつ、お前に役に立ってくれなんて言った?」 「言わないよ…っっ…三蔵は、何も言わない…何も言わないからっ…俺はそのままいい気になって甘えてばっかで…それで…周りの人を傷つけて…」 「…お前は俺と来ることを選んで、あの塔を出た…それは俺が国王という立場で、好き放題甘えられると思ったからか…?」 あまりに予想外な三蔵の言葉に、思わず悟空が顔を上げる。久しぶりにまともに正面から見た金の瞳は、困惑の色を宿していた。 「何で…?だって俺…三蔵に会うまで『王様』って何だか知らなかったよ?」 そのまま素直に答えた悟空の目許に、三蔵が軽いキスを落とした。 「…なら、俺も同じだ。俺がお前を連れて来たのは、俺がただそうしたかったからだ。お前が物珍しくて哀れだと思ったからでも、何かの役に立ちそうだと思ったからでもねぇ。そしてお前も…俺が何をしてるどんな奴かも全く知らずに、ただ俺の手を選んで此処に来た…だったら、お前が最後の最後に信じるのは、俺一人でいい。」 「さんぞ…」 「…他の誰が何を言おうと、お前が最後に信じるのは、この腕とこの声だけでいい…『役に立つ』だとか『資格』だとか、そんなくだらねぇ台詞は、二度と口にするな。」 この圧倒的な「光」の前では、些細な迷いや躊躇いなど、瞬く間に掻き消されてしまう。 絡めていた指を外した悟空が、ありったけの力で三蔵に抱きつく。胸に顔を埋める形となった悟空の顎に、三蔵が手をかける。 この夜二人は、数日ぶりの優しいキスを交わした。 「美鈴さ…一番最初に、俺に声かけてくれたんだ…他の人が俺の陰口言ってて …そしたらポンて肩叩かれて…『気にしちゃダメよ』って笑ってくれて…最後に見た美鈴…いっぱい泣いてた…友達に…なりたかったのにって…俺も…友達になりたかったのに…どうしてこうなっちゃったんだろう…」 悟空の丸い頬を、スゥー…ッと一筋の雫が零れ落ちた。三蔵の唇が、そっとそれを拭う。 「唯一人を選ぶってのは、そういうことだ。俺はお前を選んだ。お前は俺を選んだ。俺はお前を離さない。譬えそれが…誰のどんな痛みの上になりたったと しても────。」 あの日美鈴に向けた言葉は、決して苛立ちから生じた脅しなどではない。もし悟空に取り返しのつかないことが起きていたら───自分は迷わず、あの娘を手にかけていた。 朧に霞んだ金の瞳が、一瞬だけ開く。次の刹那。悟空は濡れた瞳のまま、それでも静かに微笑った。 その次の朝。まだ空も明けきらぬうちに、見送る者もない一台の馬車が、華やかな王宮の門をくぐり抜けて行った────。 |
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