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『Wish You Were Here』 byRiko
第四章① その夜のこと。再び訪れた三蔵に、悟空は長椅子に座ったままの体勢で緩やかに背中から抱き込まれていた。既に寝間着は薄い肩が剥き出しになる辺りまで下げられてしまい、目の前の小さな背中に三蔵は戯れのような口付けを繰り返していた。 「さん…ぞ、オレ…話したいことが…あっ…て…」 甘さを含んだ吐息の合間から、悟空が懸命に言葉を繋ごうとする。その間も三蔵の唇は止まることなくきめ細かな肌の上を滑り続けていた。 「話…?そんなモン、後で幾らでも聞いてやるよ。」 悟空の身体が逃げを打つように前へ前へと屈み込む。しかし三蔵の腕はそれを許さない。 「後で…じゃ、ダ…メ…ん…っ」 我が物顔で動き回る三蔵の手に翻弄されながら、悟空が大きく首を振る。 「後で」では駄目なのだ。この熱情に攫われてしまった後では、せっかくの決意が鈍ってしまう。 溺れてしまいそうになる甘い熱を振り切るように、悟空は身体ごと三蔵の方へと振り返った。 「オイ…」 「話、聞いて。」 突如蜜月の時を断ち切られて不機嫌極まりない表情の三蔵を、真っ直ぐに悟空が見上げる。その場違いなくらい神妙な表情に、三蔵は渋々悟空から離れた。 「…何だ」 「うん、あのさ…俺、このお城に来て結構経ったし、元々一人でいるの馴れてるし、だから…心配いらないから…三蔵、他の夫人の人達のトコへ行っていいよ…?」 たどたどしいながらも、悟空は実に真剣な様子で自分なりにまとめた考えを口にした。しかし悟空のその一言は、中途半端な状況でお預けを食らう形となっていた三蔵の機嫌を更に急降下させてしまった。 「…すると何か?テメェは今のこの状況が不服なのか?」 地を這うような三蔵の声音に、悟空は音がしそうなくらい何度も首を振った。 「そんなワケねーじゃん!!そりゃ俺だって、毎日三蔵が会いに来てくれる方が嬉しいに決まってるけど…」 「だったら何でいきなりそんな寝言を言い出しやがった?」 「寝言じゃねーもんっっ…だって、さ…三蔵って昼間はすっごい忙しくて、夜くらいしか自由になる時間なくて、それをずっと俺が一人占めしてたら、他の人達は全然三蔵に会えてないってコトじゃん…三蔵は、俺がまだ外の世界に馴れてないから、そうしてくれてたんだろうけど…でも俺ばっかり三蔵の時間をもらっちゃってるのは、やっぱどう考えてもズルイもん…」 三蔵はいつでも満遍無く忙しい。昼間に乗馬の話が出た折も、三蔵は「時間を作る」と言ったのだ。「時間がある」とは決して言っていない。その三蔵が毎 晩自分の元を訪れているということは、他の十二人の夫人は彼の顔すら碌に見ていないということになる。そんな当たり前のことすら、先刻悟浄に指摘されるまで自分はまるでわかっていなかったのだ。ひとかけらの疑問すら抱くことなく、只々三蔵の気持ちに甘えるまま、今日に至ってしまった。 その事実に気付いてしまった以上、このままズルズルと寄りかかったままではいけない。 一方の三蔵はといえば、思い詰めたような表情の悟空とは対照的に、苦々しい思いで内心舌打ちを漏らしていた。 (あいつの余計な一言で、このサルは無い知恵絞ってこんな見当違いなことを言い出したわけだな…あの野郎、後で絶対シメてやる。) 「…俺が顔を見せなくても、他の連中にはそれ相応の物を与えている。だから いいんだよ。」 根本のところから、悟空は大きな勘違いをしている。三蔵が夫人達の元へ足を向けないのは、昨日や今日始まったことではない。そもそも色事への欲が極めて薄い三蔵にとって、十二人もいる夫人の大半は政治的な駆け引きも含めて身分上の契約をしているだけの、半ば飾りのようなものに過ぎない。国王の夫人としての地位と、それなりに自由になる財を与えているのだから文句はあるまい、というのが三蔵の考えである。姜氏・黄氏の両者はその限りではないが、あの二人は三蔵にとって「夫人」というよりも寧ろ、国政を動かしていく上での良き理解者という色合いの方が強い。そう考えていけば、三蔵の真の意味での情人というのは悟空一人だけなのだ。 そして悟空という存在を手にした今、面倒なしがらみさえなければ、この棟に住む女性のほとんどが大して必要のない存在だというのが、正直な三蔵の本音なのである。 三蔵の、あまりと言えばあまりなその物言いに、俯きがちだった悟空がカッと目を見開いた。 「よくないっっ、三蔵と一緒に暮らす為にここにいる人達にとって、三蔵が会いに来てくれる以上に大事なことなんかあるわけないじゃん…!」 何処までも真っ直ぐな悟空の言葉に、三蔵は眩暈すら覚える。何の躊躇いもなく、自分が会いに来ること以上に大切なことなどないと言い切る子供。おそらくどれほどの言葉を使って説明したとしても、ここに暮らす女達がその胸に抱える権力への野心や欲望などというものは、彼には到底理解しえないものなのだろう。ついさっき三蔵が考えていたことをそのまま口に出したなら、おそらく目の前の子供は「何てひどいことを言うんだ」と、それこそ烈火の如く怒り出すに違いない。 言うまでもなく、三蔵は君主である。君主たる彼が誰を寵愛しようと誰の存在を無視しようと、本来悟空にはそれについて口を挟む権利はない。だからその申し出に対して全くの無視を決め込んでも問題はないのだが。 (…それじゃ承知しねぇだろうな、このバカは…) そんな風に己の我を通したとしても、この子供は捨てられない荷物のように、見当違いな罪悪感を持ち続けるに違いない。三蔵はあきらめにも似た溜め息を一つ吐いた。 「…とにかく、他の連中のとこを一巡してくりゃ文句ねぇんだな?」 「…!うん!!」 三蔵の妥協から出た一言に、ずっと曇りがちだった悟空の表情がパッと輝く。三蔵は全く気乗りしない様子で、それでも立ち上がった。 「だったら、早速今夜から行ってくるか。」 面倒だと思うことは早めに済ませてしまうに限る。とりあえずここから一番近い女の部屋に行ってみるかと、三蔵は怠惰極まりないことを考えていた。 「あっ…あともう一つ!」 突然思い出したという風に、既に立ち上がってしまった三蔵へと悟空が慌てて声をかける。 「ンだよ、まだ何かあんのか?」 「うん…あのさぁ…お姫様のお見舞い、行ってあげて。」 「あ…?」 全く予想外だった悟空の言葉に、一瞬何を言われているのかわからず訝しげな声を上げた三蔵は、その言葉を暫く頭の中で反芻し、ようやく三人目の別邸の住人のことに思い至った。誰から聞いたのか、どうやら桂花姫のことを知ったらしい。悟空は先刻よりも更に神妙な面持ちになっていた。 「家から出られないくらい身体が弱くてずっと一人ぼっちなんて…すっげぇ淋しいじゃん…お見舞い、行ってあげなよ。」 「な?」と念を押すように呟いた悟空は、下から三蔵の顔を覗き込む。だが、悟空の単純ながらも精一杯の気遣いは、三蔵の口許に自嘲気味の笑みを上らせただけだった。 「生憎だが、先の話には譲歩できても、ソレに関しては承服しかねるな…あちら方は天地がひっくり返っても、俺の見舞いなんざ喜ばねぇだろうよ。正統な王家の血筋でもない俺の、上辺だけとはいえ夫人呼ばわりされてること自体、舌噛んで死んじまいたいくらいの屈辱だろうからな…」 何か苦いものを吐き出すような声は、その内容に反してひどく冷静で。それは却って、他者が容易く踏み込むことの出来ない領域なのだということを、悟空に悟らせた。 気落ちしたように視線を落としてしまった悟空の顎に、三蔵が指をかける。 「テメェがンな面するこたぁねぇんだよ…オラ、顔上げろ。」 その声に促されて悟空が顔を上げるのと同時に、三蔵の秀麗な顔が近付いてきた。額に、頬に、鼻先に、柔らかなキスの雨が降り注ぐ。悟空は静かに瞼を閉じて、暫しその甘さに身を委ねた。 最後に下唇を軽く甘噛みして、三蔵の指が離れていった。悟空がゆっくり目を開くと、穏やかな紫の瞳とかち合った。 「じゃあな…一巡したら、また来る。」 「うん…お休み。」 穏やかに笑い返して、悟空は三蔵を送り出す。その後ろ姿が扉の向こうへ消えるまで、悟空は瞬きもせずじっとみつめ続けていた。 一人残された広い部屋に訪れた静寂の中、悟空は小さな溜め息を一つついた。沈んでしまいそうになる気持ちに自ら活を入れるように、パンッと両頬を軽く叩く。「淋しい」などと思うのはあまりに身勝手だ。大丈夫だから行ってくれ と言ったのは、自分の方なのだから。 「もう寝よ…」 ポツリと呟いた悟空は、灯りを消して寝台へと潜り込んだ。この城へやって来たその日から、眠る悟空の傍らには必ず三蔵がいた。今夜初めて、この寝台で一人で眠る。隣りのぽっかり空いた空間に、ポスッと腕を投げ出してみる。 「ココって…こんな広かったんだ…」 いつも当たり前のようにあった、彼の温もり。冷えたシーツに寝返りを打ちながら、それがどれほど自分を安心させてくれていたのかを、悟空は痛いほど実感した。 一人で使うには広すぎる寝台の上で、悟空は小さく身体を丸めて眠った。 次の夜からも約束どおり、三蔵は各夫人の部屋を廻った。滅多に通いのない王の不意の訪れに舞い上がった女達は、上辺だけの笑顔でしなを作り、空々しい美辞麗句で媚びてみせる。三日も過ぎる頃には三蔵は完全に辟易してしまい、一人自室で眠った方が余程マシだと思わずにはいられなかった。だが、あれほど真剣な表情をしていた悟空との約束を違えるのは何となく憚られ、結局三蔵はかなり食傷気味になりながらも律義に毎夜の通いを続けていた。 「不思議な子を、お連れあそばしましたね…」 幾日目かの夜に訪れた東の館にて。鏡に向かいゆうるりと髪を梳いていた姜氏が、穏やかな声で語りかけてきた。 「会ったのか…?」 軽く目を眇めながら問い返してきた三蔵に、姜氏は艶やかに微笑んでみせた。 「…黄氏も交えまして、庭で茶会など致しました…御君は輝くばかりにお美しいが、私も庭の白牡丹の如く美しいと…邪心のかけらも無い笑顔で、そう申しました。」 姜氏の言葉に、三蔵の口許に軽い苦笑いが刻まれる。 「…いかにもあのバカらしい言い草だな。」 呆れ気味の口調とは裏腹に、その様を思い浮かべているであろう瞳の色は、姜氏が驚きの瞬きをせずにはいられないほど柔らかだった。 「黄氏もいたく気に入られたご様子で…今度槍の稽古をつけてやろうと、そう仰っておられました。」 「卿らにそう受け入れられたのなら、もう心配ないな。」 大臣家の出身で高い教養を持つ姜氏と、将軍家の出身で自らも優秀な武人である黄氏。幾多いる三蔵の夫人の中でもこの二人の扱いは別格で、それは周知の事実である。その両者が好意的に受け入れた以上、他の者も悟空を正式な王宮の住人として認めざるをえない。一安心した、といった様子で思わず漏らした三蔵の呟きに、姜氏は今度こそ黒曜石の瞳を丸く開いた。 「御自分でお気付きになっておられまして…?今までどんな御身分の、どんな御息女をお迎えしようとも、御君が私にそのような仰りようをなさったこと、一度たりともございませんでしてよ…?」 「そうだったか?」 「そうですわよ。」 全く無自覚な三蔵に、姜氏はさもおかしそうに小さく声を上げて笑った。 「悟空ですか?いい子ですわねぇ、あの子は。明るくて素直で、とても健やかな瞳をしています。」 次の夜、三蔵は西の館へと黄氏を訪れた。昨夜の姜氏との会話から、何気なく悟空の話へと水を向けてみると、予想以上の好感触が返ってきた。生来の気質もあるのだろうが、黄氏には自分を上流階級だと思い上がっている女特有の、粘着質のしつこさやいやらしさといった負の感情が、全くといっていいくらい見られない。そんな女性だからこそ、三蔵にとってもこの王宮内で気の置けない会話の出来る、数少ない一人であるわけなのだが。その爽やかな人柄故に、彼女が他者を悪しざまに罵るようなところを三蔵は一度も見たことがなかったが、思いの外手厳しい部分も併せ持つが故に、これほど手放しで誰かを誉めることも、そうそうあることではなかった。 「自分が出来ることで、陛下のお役に立てることをみつけたいのだと…それは清々しい眼差しで、そう申しておりました。」 その言葉と共に見せた黄氏の実に鮮やかな笑みに、三蔵も得心がいったように微かな笑みを口許に上らせた。三蔵の夫人であると共に軍部の指導者という一面を持つ彼女は、悟空のその向上心を評価したのだ。 「…人物の評価に際しては中々に厳しいところのある卿が、そこまで気に入るとは珍しい。」 「あら、それを仰るのなら姜氏の方でしてよ?あの御方はどなたに対しても物腰の穏やかな方ですけれど、それでいて他者には容易く心を許さない面もおありです…私ね、姜氏の館の前を通りかかりました時、本当に驚きましたのよ?あんなに和やかに笑っていらっしゃる姜氏のお顔、久しぶりに拝見致しましたもの…あの子の一点の曇りも無い真摯さは、向き合う相手に心地よい幸福感を与えるものなのですわ。」 「そうお思いになりません?」と言いたげに三蔵の顔を覗き込んだ黄氏は、もう一度ニッコリと笑った。 三蔵がウンザリしながらも悟空との約束を日々果たしていたある日のこと。悟浄は廊下でばったりと旬麗に出会った。 「よぉ旬麗、今日も変わらずキレイだね。そちらの小さなご主人サマはお元気かい?」 「ごきげんよう、悟浄様。それが…近頃の悟空様、何だかお元気がなくて。心配をかけまいと思ってらっしゃるのか、私には笑顔を向けて下さるのですが…あんなに活発だった方が、このところぼんやりと空を眺めてらっしゃるような時間が多くて…」 悟浄の問い掛けに答える旬麗の表情が、心配げに曇る。その様子に、悟浄は前髪を掻き上げながら軽く首を傾げた。 「ふーん…?んじゃまぁちょっくら、ご機嫌伺いにでも行ってくっかな。」 「ありがとうございます、きっと悟空様も喜ばれますわ。」 明らかにホッとした表情で、旬麗は悟浄に深く頭を下げた。 悟浄はそのまま悟空の部屋へは向かわず、敢えて外へと廻った。中庭へと直接繋がる大きな窓を目指すと、そこには旬麗の言葉どおり、露台の手摺りに寄りかかるようにして空を見上げる悟空の姿があった。確かにその表情には、先日のような覇気が見られない。 「よぉ、おチビちゃん、なーんか元気ねぇじゃん?」 悟浄の明るい呼びかけに、悟空がぎこちなく振り返る。軽く手を上げる悟浄の姿を認めると、悟空は薄く笑った。 「悟浄…ううん、別に。そんなことないよ…?それより悟浄の方こそどうしたの?隊長さんのお仕事は?」 「ん?あぁ、今ちょっと時間空いててさ…ほら、この間馬に乗りたいって言ってたろ?だからまぁ、どうかなぁ~と思って。そんなに遠くまでは行ってられねぇけど。」 「ホント?ありがと…。」 悟浄のその申し出に、悟空がようやく本来の彼らしい笑顔をみせた。 悟空を前に乗せ、悟浄は城から程近い小さな森へと馬を走らせた。風を切って木々の間を駆け抜けるうちに悟空もいつもの活発さを取り戻し、子供らしい大きな声を上げて笑った。 馬を一休みさせる為、二人で木陰に腰を下ろす。すっかりはしゃぎ回った悟空は、頬を上気させたまま大きく息をついた。 「やっぱ馬で走るのって気持ちいいよなぁ~…なぁ、俺も練習すれば一人で乗れるようになるかな?」 「あぁ、お前さん身のこなしが軽いし、すぐコツが掴めるだろ…ところでさ、三蔵サマは元気かよ?俺も帰ってきてからバタバタしてて、アレからゆっくり話もしてねぇからさ…」 悟浄のその言葉に、たった今まで楽しげだった悟空が不意に俯いてしまった。 「ん…俺もここんとこ、あんまり三蔵の顔見てないんだ。三蔵忙しいし…三蔵の時間が欲しい人、いっぱいいるしね…」 手元の草をいじりながらたどたどしく紡がれた言葉は、悟浄に説明するというよりも寧ろ、自らを納得させているような響きを帯びている。そのあどけない容貌には不似合いな静かな横顔を、悟浄は怪訝そうな表情でみつめていた。 優しいキスの雨を残して三蔵がこの部屋を出て行ってから、十一日目の夜。 桂花姫を除いた十一人の夫人の元を一巡したらまた来るとの三蔵の言葉に偽りがなければ、今夜は三蔵の訪れがある筈である。そう思うと悟空は夕餉の席に着いた頃から気もそぞろで、いつもなら楽しんで味わう筈のせっかくの夕食も何を食べたのかも碌に覚えていなかった。入浴を済ませた後もどうにも落ち着かず、長椅子にぼんやりと腰かけながら、何度も何度も開かぬ扉に目を遣っていた。 あれ以来三蔵とは、ほとんど顔を合わせていない。昼間の三蔵はいつも忙しそうで、意識して会いに行かなければ、顔を見ることもままならない。だがそんなことをすれば仕事の邪魔になってしまうのはわかりきっているので、偶然歩いているところを見かけるといったようなこと以外には、悟空は敢えて三蔵に会おうとはしなかった。 ひたすら待ち続けるだけの時間を持て余した悟空が、長椅子にゴロリと横になりかけた頃───不意に扉をノックする音が響いた。ガバッと起き上がった悟空が、前につんのめりそうな勢いで扉へと駆け寄る。内開きの扉を思い切りよく開けた悟空の視線の先には、平素と変わらぬ仏頂面の彼が立っていた。 「あ…」 たかだか十日やそこらのことなのに、その目映さに堪らないほどの懐かしさを感じる。悟空はそれ以上言葉も無く、体当たりのような勢いで三蔵に抱きついた。一切の手加減なく全身をぶつけるように抱きつかれて、一瞬三蔵の息が詰まる。しかし三蔵は悟空を責めることなく、小さな頭をそっと撫でた。 「…とりあえず、一度離せ。これじゃ中に入れねぇだろうが。」 諭すような三蔵の声にも悟空はふるふると首を振り、離れようとしない。ほんの僅かの間離れることすら厭うように、細い腕に力が込められる。「しょうが ねぇな」と呟きながらも、三蔵の機嫌は決して悪くない。この城に来て以来、ずっと何処か遠慮がちだった悟空が初めて自分から見せた三蔵への「欲」は、彼の胸に甘い満足感をもたらした。 一向にそこから動こうとしない悟空の小柄な身体を、そのまま上へと抱き上げ部屋の中へ進んだ三蔵は、悟空に見せるつもりで持ってきていた小さな箱を、寝台の脇の台へと置いた。その身を静かに寝台へ横たえてもなお、悟空は三蔵を離そうとしなかった。 「…わかったから、とにかく一度手を緩めて顔上げろ。まだ一度もまともに、お前の面見てねぇぞ。」 三蔵のその言葉に、ようやく手の力を抜いた悟空がおずおずと顔を上げた。淡い潤みを帯びた瞳で見上げられて、思わずむしゃぶりつきたいような衝動に駆られる。そんな三蔵の思いを知ってか知らずか、まだ子供らしさを残す丸みのある指先が、そっと三蔵の頬に触れた。 「さんぞ…ホントに三蔵?」 少し舌足らずな声で呟いた悟空が、目の前の存在を確かめるように頬のラインを指で辿る。三蔵は途中でその手を奪い、指先に唇を押し当てた。 「人を勝手に夢や幻扱いしてんじゃねーよ…ココに、いるだろうが。」 いかにも彼らしい物言いと共に、少し熱の低い唇が下りてくる。吐息さえ奪い尽くされそうな乱暴な口付けに翻弄されながらも、悟空は精一杯それに応えようとする。息苦しさから三蔵の上着を掴む悟空の手から力が抜けかけた頃、長い長い口付けは終わった。ぼんやりと目を開いた悟空は、頬を上気させて息を継ぎながらも、なおも名残惜しいように、三蔵の顔全体についばむような口付けを繰り返す。少し驚いた様子で僅かに目を瞠った三蔵だったが、そのまま悟空のしたいようにさせる。最後にチュッと軽い音を立てて唇にキスを落とし、悟空はようやく唇を離した。より一層の潤みを帯びて不安定に煌く金の瞳が、真っ直ぐに三蔵を見上げた。 「……不思議だよね…俺、あんなに長いこと一人でいたのに…だから絶対大丈夫って思ってたのに…三蔵が来なくなってから一人で空を見てた時間て…すっごい長かった……」 たどたどしくも懸命に紡がれる悟空の言葉は、清涼な雫のようで。はにかむように微笑った悟空は、華奢な腕でギュッと三蔵の背中を抱き寄せる。言葉で、表情で、その全てで、ありったけの気持ちを伝えてくる子供。自分でもどうにもならないくらい、愛おしくて愛おしくて堪らなくなる。 「…安心しろ、今夜は空見てるヒマはねぇよ。」 軽いからかいの響きを含んだ三蔵の一言に、その意味を察した悟空は耳朶まで赤く染めながら、小さくコクリと頷いた。 「うん…沢山キスして、沢山抱きしめて…?また暫く会えない時にも大丈夫なように、俺の中にいっぱい三蔵を残して…」 三蔵の訪れのなかったこの十日あまりは、悟空にとって何か大切なものを剥ぎ取られてしまったような、とてつもない空虚の日々だった。ごく当たり前のように与えられていた穏やかな声、数え切れないほどの抱擁、確かな温もり。 それがどれほど大切な、かけがえのないものだったのかを、悟空は心の底から実感した。それと同時に、自分がどれほど贅沢な時間を他の人から奪っていたのかを、まざまざと思い知ったのだ。三蔵との時間を欲している人は、他にも大勢いる。ならば自分は「彼のいない時間」を一人で上手く過ごせる術を、身に付けなくてはいけない。 「お前なぁ…そーゆー台詞をそーゆー面して言うのは反則だぞ。歯止めが効かなくなっちまうだろうが…」 三蔵の顔に、如何ともしがたい苦笑いが浮かぶ。そんな風に言われたら、この衝動を抑えきる自信がないではないか。一方の悟空はといえば、何故そんなことを言われているのかわからないといった表情で三蔵を見上げている。 「歯止め…?どうしてそんなモンが要るの?三蔵は俺と一緒にいることで、何か我慢してるの?…そんなの、俺はイヤだ。」 「テメェ…自分が言ってる意味、わかってんのか?俺が全部の我慢を取っ払ったら、お前を壊すトコまで行っちまうかもしれねぇぞ…?」 一切の打算も駆け引きも無く、あるがままの想いだけを口にするあまりに無垢な魂。それが故に、目の前の子供には己の胸の内に潜むドロドロとした昏い欲望など、到底わかるはずもない。 暫し瞬きもせず三蔵を見据えていた悟空は、やがてふうわりと笑い、その額に優しいキスを一つ落とした。 「俺は…壊れたり、しないよ?だから心配しないで…三蔵が本当に思っていること、本当にしたいこと…歯止めなんてかけないで…全部見せて、全部聞かせて…?」 「きっと大丈夫だから───」そう言ってもう一度笑いかけた悟空は、更に深く三蔵の身体を引き寄せる。悟空の肩口に顔を埋める形となった三蔵は、軽い敗北感にも似た思いを感じながら、その細い身体を抱きしめた。 初めて彼を抱いた時にも感じた、何処までも包み込まれるような、限りの無い豊かさ。腕の中の子供は、自分などよりもずっと永い歳月の、様々な移り変わりをみつめ続けてきた賢者のような瞳をしている。本当の意味で懐に抱かれているのも、甘えているのも、おそらくは己の方なのだ。 三蔵は肩口から顔を上げ、今度は自分から悟空の瞳を見据えた。 「今夜はたぶん…加減なんてできねぇぞ…?」 ぽつりと呟かれた一言。悟空は言葉で答える代わりに、その唇をねだった。 互いの吐息が溶け合って区別がつかなくなるくらい、時に緩やかに、時に激しく、飽くることなく繰り返される口付け。身体中に散らされた韓紅の花は、触れていない場所など無いと言うばかりに、長い後ろ髪に隠された襟足から踝の内側にまで及ぶ。眩暈すら起こしそうなとびきり甘い熱に溺れながら、幾度も幾度も、じわりと湿り気を帯びた手足を絡ませ合い、上ずった掠れ気味の声で互いの名を呼びながら、迸る激情を解放する。周りの世界の全てを遮断したような、濃密な二人だけの時間は、悟空が朧になった意識を手放すまで続いた。 悟空がゆっくりと目を開けると、傍らの三蔵は半身を起こして煙草を吹かしていた。目を覚ましたことに気付き煙草を消した三蔵に、「大丈夫か?」と前髪 をクシャリと撫でられる。「大丈夫」と答えた声はすっかり枯れていて、いつ もの半分も出なかった。「そうか」と応えた三蔵が、寝台の脇にすっかり置き 去りにされていた小さな箱を手に取った。 「おい…手出せ。左手だ。」 手にした箱を開けながら、いつものぶっきらぼうな口調で三蔵が言い放つ。身体を起こす力も残っていないのか、悟空は小首を傾げながら横になったまま左手を差し出した。その手を取った三蔵が、パチンと音を立てて箱の中身を華奢な手首に填めた。 「コレ…何?」 疑問符を飛ばしながら悟空が己の目の前に翳してみせたのは───繊細な彫金の施された、金の腕輪だった。金具できっちりと填める様式のそれには、中心に一つ、色鮮やかな宝石が輝いている。 「そこに彫り込まれているのは国王だけが用いることを許される紋章で、填め込まれているのは俺の護りの石だ…俺が何処にいても、お前が何処にいても、俺とお前を繋ぐ『印』になるものだ。」 「三蔵と俺を…繋ぐ『印』?」 三蔵の説明を繰り返した悟空が、まじまじと腕輪を見上げる。やがてその表情が、花が零れるような笑みに変わった。 「キレイだね…この石、三蔵の瞳の色とおんなじだ…コレがあったら、会えない間も、きっと頑張れるね…ありがとう、絶対大事にする。」 半ば独り言のように呟いた悟空の手を取り、三蔵はその指先に戯れのような口付けを落とした。 「バーカ…もう十日以上なんて空けねぇよ。」 「さんぞ…?でも…」 戸惑いがちに顔を覗き込んでくる悟空から、三蔵がフイと視線を逸らす。 「ゴチャゴチャうるせーな、ダメなんだからしょうがねぇだろ」 照れと怒りが入り混じったような表情で、三蔵はそう言った。 「ダメって…何が?」 悟空は何故三蔵がそんな表情をしているのかが掴めず、きょとんとした様子で問い掛ける。悟空の間の抜けた問いにキッと視線を戻した三蔵は、不本意極まりないといった態度で口を開いた。 「テメェのマヌケ面を十日以上も見ねぇと、俺の方が落ち着かねぇんだよっ、何か文句でもあんのか!?」 悟空は文字どおりずっと一人の夜を過ごしたわけだが、三蔵の方は毎夜各夫人の部屋を巡っていたわけで。平たく言ってしまえば身体の欲に関してだけなら問題がある筈もない。だが─── 駄目なのだ。この声で、この瞳で、この笑顔でなければ駄目なのだ。そうでなければ、本当に心からの充足は得られない。この存在が傍らにないと、とてつもない空虚に押し潰されそうになるのだ。 一方、いきなり八つ当たりのように怒鳴りつけられた悟空は、零れ落ちそうなほど目を見開いて、目の前の彼を見上げていた。 (『会いたい』って…思ってくれてた…?) 一人夜空を眺めながら自分が思い続けていた譬え何分の一かでも、彼も思ってくれていたのだろうか。ただ、『会いたい』と───。 悟空の顔が、泣き笑いのようにクシャリと歪む。自分の手を掴んでいた三蔵の手を引き寄せ、その手の甲にそっと唇を押し当てた。 「文句なんか…あるわけねーじゃん…どうしていいかわかんないくらい、嬉しい…」 ぽつりと零れた呟きに、不貞腐れ気味だった三蔵の瞳の色が、急激に穏やかなものに変わる。上から覆い被さるようにして、三蔵は小柄な身体を腕の中に抱き込んだ。 「だったら、テメェもつまんねぇ遠慮なんかすんな。会いたい時は会いたいって言えばいいし、傍にいたい時は素直にそう言えばいいんだよ。わかったな?わかったら返事しろ。」 一切の迷いの無い三蔵の言葉は、ともすれば留まりがちになる自分を、いつも新しい場所へと引っ張っていく。そしてそこからは、今まで見たこともない、新たな景色が見えるのだ。 悟空は淡く滲んだ瞳を三蔵に向け、「うん…」と小さく頷いた。両の瞼に軽い キスが送られ、促されるように金の瞳が閉じられる。 久しぶりに感じる、息が詰まりそうなほどの三蔵の温もりの中で、悟空は緩やかな眠りへと誘われていった───。 To be continued… |
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