第二章『瞬きの邂逅』
悟空と焔の別離の後に起きた争乱は天界全体を巻き込む大規模なものとなり、
結果は金蝉、天蓬、捲簾の死、及び悟空の天界からの追放、五行山への幽閉と
いう形で幕を閉じた。そして悟空が五行山を訪れた唐亜玄奘三蔵法師によって
その封印を解かれるまでに、実に五百有余年の歳月を要した。
三蔵に連れられて悟空が下界に下りてから、半年の歳月が流れたある日のこと。
寺院から程近い山の中の花咲き乱れる草原に、悟空はいた。その小さな手の中
には、あの日と同じように、編みかけのいびつな花の輪が一つ。
「なかなか上手いものだな…その花輪は、誰の為の物だ?」
背後に降り立った人物は、あの日と同じように声をかける。
「三蔵に、だよ。三蔵って忙しくて外に出る暇もないからさ…こうすれば三蔵
も、花が見られるだろ?」
全く警戒心のない声でそう答えた悟空が、背後を振り返る。太陽の眩しさに顔
を顰めながら声の主を確かめようと目線を上げるが、逆光の為によく見えない。
辛うじて背の高い、若い男性だということがわかった。
「アンタ誰…?寺にお参りに来た人?」
「まさか。俺は…お前に会いに来たんだよ。」
人影がゆっくりと首を振り、笑ってみせたのが気配でわかった。
「俺に会いに来たって…あんた、俺のこと知ってるの?」
編みかけの花を膝から下ろして、悟空は思わず立ち上がる。五行山へ幽閉され
るに際して、それ以前の記憶の一切を封じられてしまった悟空には、三蔵と過
ごしたこの半年以外に拠り所となりうる物が何一つない。それでもいいと、悟
空は思っていた。振り向けば、必ず三蔵はそこにいてくれたから。不本意そう
な表情で「仕方がねぇな」と差し出される手は、それでも温かだったから。
過去の記憶などなくとも、三蔵と過ごしていく『これから』があればいいのだ
と。だが目の前のこの男は、自分に会いに来たのだと笑う。それはつまり……
此処に来る以前の自分を知っているということなのか。
「そうか…今のお前は、記憶の全てを封じられているのだな。それでもお前が
呼び続けたのは『あいつ』で、お前の声を聞き届けたのも『あいつ』だったの
か…。今は確か、玄奘三蔵と言ったかな…どうだ?玄奘三蔵に人間界に連れて
来られて、今のお前は幸せか…?」
目の前の男───焔は、悟空の問い掛けには直接答えず、反対にそんなことを
訊いてきた。その声音に何か哀しげな響きが混じっていることを、悟空は幼い
ながらに感じ取っていた。
「…『幸せ』とかって、俺にはあんまりよくわかんないけど…俺しょっちゅう
三蔵に怒られてるし、よく叩かれるし、寺の奴らが本当は俺を置いときたくな
いこともわかってる…でもさ、三蔵は俺の手、取ってくれたから…『あ、人の
手ってあったかかったんだな』って、思い出させてくれたから…だから、それ
でいいんだと思う。」
成長を止めてしまっていた幼い外見には不似合いな、奇妙なほどに大人びた瞳
が、儚く微笑う。焔は身を屈め、幼子の小さな身体を固く固く抱きしめた。
「…どうしたの…?」
いきなり痛いくらいに抱きしめられ困惑を覚えながらも、悟空は焔を突き放す
ことが出来なかった。広い胸に抱き込まれてしまいその表情を窺い知ることは
出来ないが、この突然の抱擁に何か強い想いが込められていることを、悟空は
無意識の内に理解していた。
「…お前を解放する者が、俺でありたかったよ…」
苦いものを胸の底から吐き出すように、焔はぽつりと呟いた。
「俺はお前が五行山に幽閉されていることを知っていた…だがあの山に施され
た結界はあまりに強力で、俺はあそこに降り立つことすら適わなかった…お前
が気が遠くなるほどの歳月をあの岩牢に封じられているのを知っていながら…
俺は何一つ、出来なかった…すまない…。」
抱きしめる腕の強さとは正反対な、途切れ途切れの消え入りそうな声。
「…俺があそこにいること、知ってたの?」
「あぁ…」
「…俺のこと出してやりたいって、思ってくれてた…?」
「あぁ…」
「…そっか…ありがとう。」
予期せぬ悟空の言葉に、焔の腕の力が一瞬緩む。悟空は焔の胸から顔を上げて、
苦しげな表情を滲ませる焔の顔を覗き込んだ。
「何故礼など言う…?俺は結局、何一つ出来なかったというのに…」
「…あんたの言ってること、嘘じゃないってわかるよ。俺、自分でもどれくら
い経ったのかわかんないくらいあそこにいたけど…ホントに誰も、来なかった
もん。偶然山で迷ったなんて人ですら、誰も。だからあんたの言うとおり、あ
そこはわざとそーゆー風になってたんだと思う。だから来られなかったあんた
が悪いんじゃなくて、ズカズカ入って来られた三蔵が『特別』だったんだよ。
俺さ…あんまり長いこと一人であそこにいたから、もう俺を知ってる人なんて
誰もいなくて、俺のこと気にしてくれている人なんて絶対いないと思ってた…
そうじゃなかったんだってわかっただけで、充分嬉しいよ…ありがとな。」
先刻とは異なる、力強い意思を伴った瞳が、焔に笑いかける。ぎこちないなが
らも、焔もようやく笑い返した。ふと何かに気付いたというように、悟空が焔
に手を伸ばす。未だ子供らしいふっくらとした指が、焔の右頬に触れた。
「あんたの右の眼…俺と同じ?腕の枷も…?じゃああんたも、何処かに閉じ込
められてたのか?」
背後でシャラリと音を立てた鎖に一瞬目を向けた悟空は、再び焔へと向き直る。
悟空の問いを耳にした焔の口許には、皮肉げな笑みが刻まれた。
「いや…そういう意味でなら、俺は未だ囚われたままなのかもしれないな…」
『天界』という名の、腐りかけた牢獄に。
「あんたには…まだ連れ出してくれる人が、来てないの?」
心配そうに自分を見上げてくる悟空の髪を、焔はそっと撫でた。
「俺は『誰か』を待ってなどいない…必ず自分自身の手で、自らをあの檻から
解き放ってみせる。今はまだ『その時』ではないが…きっと、な。」
静かな、しかし確かな強さを感じさせる焔の声に悟空が頷く。しかしその表情
が次の刹那、突然つらそうに歪んだ。
「…!どうした…!?」
「…痛、い…痛い、いたい、イタイ……」
大きく開かれた金の瞳から、止め処なく涙が零れていく。予想だにしなかった
悟空の変調に戸惑いながらも、焔はその小さな背中を労るように撫でる。だが
悟空の変調の理由にふと思い至った焔はその手を離し、間近から悟空の瞳を覗
き込んだ。
「…五百年もの間閉じられていた感覚が一気に解放されている分、無意識の内
に俺の意識が流れ込んでしまったようだな…俺もお前には警戒心を解いてしま
う故に、普段なら心の底に埋没しているような意識が表層に出てしまっていた
のかもしれない…すまなかったな…。」
「平気…こんなのは、平気…」
小さな声でぽつぽつとそう答えるが、悟空の涙は止まらない。
「もう大丈夫だろう…?意図的に感覚の流れを閉じたから、もう俺の意識は伝
わっていないはずだ。」
穏やかに語りかけて、泣き止まない悟空をあやすようにもう一度抱き寄せる。
そんな焔を悟空は濡れた瞳のまま、じっと見上げている。
「どう…して…」
「…?」
「どう…して…泣かない…の?こんなに痛いのに…こんなに苦しいのに…どう
して泣かないの?どうして『苦しい』って言わないの…?」
澄みきったその魂はこのほんの僅かな間に、焔が永い間内側に抱え込んできた
様々な『想い』をいっぺんに感じ取ってしまったらしい。焔は悟空を抱きしめ
る腕に少し力を込めて薄く微笑った。
「…そうだな…俺にはもう、それが『痛み』や『苦しみ』なのだということす
ら…わからなくなっているのかもしれないな…」
焔のその一言に、悟空の涙は更に溢れ出した。
「どうした…?もう痛みはなくなっただろう?何故まだ泣く?」
「だっ…て…あんたが、泣けない…から…」
『泣かないから』ではなく『泣けないから』と、悟空は言った。痛みを痛みだ
とわからず、泣くことすら出来なくなってしまっている焔の姿がつらいのだと、
悟空はそう言っているのだった。焔は悟空の丸い頬に唇を寄せ、零れる雫を掬
い取った。
「頼むから…もう泣かないでくれ。俺は、お前が幸せに笑っている姿を確かめ
たくて、ここへやって来たんだ。本当に俺のことを思ってくれるなら、お前の
笑顔を見せてくれ。」
焔の切実な想いが込められた言葉に、悟空はこれ以上涙を零さないようぐっと
唇を噛みしめる。少々乱暴な仕草で両目をこすり、泣き腫らした紅い目許で、
それでも悟空は気丈に笑ってみせた。焔はそっと悟空の頬を指で拭い、安心さ
せるように笑い返した。
「…あんたさ…ずっと俺のこと覚えててくれたんだよな。でも俺さぁ、あそこ
に入る前のこと、全部忘れちゃってるんだ…ゴメンな、思い出せなくて。」
「それはお前のせいじゃない。都合の悪い『澱み』を全てお前に押し付けた、
腐り果てた連中のせいだ…お前が気に病むことはない。」
「でも俺一つだけ…覚えてたことがあるんだ。ずっと昔に誰かが付けてくれた、
自分の名前。俺の名前…知ってる?」
僅かに潤みを残した瞳が、小首を傾げて焔を覗き込む。焔は静かに微笑んで、
小さく頷いた。
「悟空…『空を悟る者』、だったな。俺の名は、焔…『火の群れ』という意味
だ。」
「『ほむら』…キレイな名前だな。」
あの日と同じ感想を漏らして、同じように悟空は笑った。
二人は草原に並んで腰を下ろし、悟空は途中で放っていた作りかけの花輪を再
び編み始めた。二人の間で五百年もの歳月が流れてしまったことが嘘のような、
何一つ変わらない光景がそこにはあった。
「完成っ!三蔵、何て言ってくれるかなぁ?」
何とか形になった少しいびつな花輪を持って、悟空は焔を振り返る。焔は何処
か淋しげな瞳で悟空をみつめた。
「お前が心をこめて編んだ物だ…それはきっと伝わるだろう。さて、では俺も
行くとしよう。」
「あ…焔、もう行っちゃうの?また遊びに来てくれる?」
疑いのカケラもない満面の笑みが、焔に向けられる。焔は僅かに左右の色合い
の異なる瞳を眇め、静かに首を振った。
「焔…?」
「本当は…ここへは来ないつもりだった。だが解放されて笑っているお前の姿
を、どうしてもこの目で確かめたかった…しかしもう時が満ちる『その時』ま
で、お前の元には現れまい。封じられているお前の記憶に今日の俺との出会い
だけが残っては、歪みが生じてしまうかもしれないな…再び会うその日まで、
今日のことはお前の意識の片隅に仕舞っておこう。」
「仕舞っておくって…忘れちゃうってこと?今日焔に会ったことを!?嫌だよ
そんなのっ、せっかく名前教えてくれたのに、また忘れちゃうなんて、そんな
の嫌だよ…っ!!」
今一度、悟空の顔が泣き出しそうに歪む。焔は自分のことを覚えていてくれた
のに、何一つ思い出せない自分が歯痒かった。それなのに今再び、覚えたこと
を忘れろと焔は言う。そんなことを納得出来るはすがなかった。
「悟空…俺は『記憶を消す』とは言っていない。暫くの間、仕舞っておくだけ
だ。お前は覚えていないだろうが、俺達はある『誓い』を一つ立てている。俺
達だけの『印』に…な。俺はきっとまた、お前に会いに来る…その時はもう決
して、お前の手を離さない。」
まるで託宣を告げるような凛とした声でそう語った焔は、悟空の両の瞼に唇で
触れた。
焔の口づけをおとなしく受けていた悟空は、そうするべきなのだと心の何処か
で知っていたかのように、自分から焔の右の瞼にそっと口づけた。たとえ神々
に記憶を封じられていても、全てを忘れ去っているわけではないという何より
の証に、焔はひっそりと笑みを滲ませた。
「悟空、また会おう……。」
悟空の額の金鈷に手を当てて何かを呟いた後。一陣の風のように焔の姿は消え
去った。
暫し魂を抜かれたように放心していた悟空が、ハッと我に返る。
「アレ…俺、何してたんだっけ…?えっと…そうだ!三蔵に花輪を作ってたん
だっけ…よーし、完成したぞっ、早く三蔵に見せなくちゃ!」
勢いよく立ち上がった悟空は、元気に山道を下っていく。誰の姿もなくなった
草原には、何事もなかったかのような静寂が戻っていた───。
「ただいまー、三蔵っ!!」
バタバタと賑やかな足音と共に、悟空が執務室へと駆け込んでくる。三蔵は眉
間に深い皺を刻んで、目を通していた書類から視線を上げた。
「うるせーっつってんだろ!!もちっと静かに入って来いっ…何だそりゃ?」
帰って来て早々に怒鳴りつけられながらも全く気にした様子はなく、悟空は満
面の笑みを向けて三蔵に花輪を差し出した。
「お土産!三蔵忙しくて外にも行けないから、こうすれば部屋でも花が見られ
るだろ?」
「…下手クソ」
さして面白くもなさそうな顔で、手渡された花輪をクルクルと回す。素気ない
言葉と共に悟空に向けられた眼差しは、日頃の彼に接している僧侶らが見たら
驚くであろうぐらい柔らかい。しかし悟空は満足出来なかったらしい。子供ら
しい丸い頬を、更にぷくりと膨らます。
「何だよその言い方!……は『なかなか上手い』って誉めてくれたのにさっ」
「…?誰が、だって…?」
「だーかーらっ、……アレ?えっと…誰だっけ…?」
自分でも何を言ったのかわからないといった表情で、悟空は茫然としている。
「アレ…?俺に会いに来たって言って…色んなコト話して…すげぇ優しくて…
なのに何で、覚えてねぇんだろ…何で…?」
つじつまの合わない自らの記憶に混乱してしまっている悟空は、とりとめのな
い独り言を呟く。そんな悟空の顔を見て何かに気付いた三蔵は、小さな身体を
引き寄せて、膝の上に抱き上げた。
「…さんぞ?」
「お前…泣いたのか?」
三蔵がそっと指を這わせた悟空の目許は、僅かに腫れて紅く染まっている。三
蔵の指が触れた処を、悟空は同じように自らの指で辿った。
「よく覚えてないけど…何か、いっぱい泣いた気がする…そしたら…泣かない
で、笑ってくれって言われて…誰だったんだろう…何だか…どんどんぼんやり
してきちゃってる…」
悟空が出会った人物が何者なのかは皆目見当もつかないが、その記憶が意図的
に封じられていることは三蔵にもわかった。三蔵は悟空の両頬を包み込むよう
にして顔を上げさせ、心ここにあらずといった様子の悟空に、目を逸らすこと
を許さない強い視線を向けた。
「今、お前の目の前にいるのは誰だ?」
「…三蔵。」
「テメェの足りねぇ頭でそれだけわかってりゃ充分だ。他の事なんざ要らねぇ
よ…そうだな?」
コツンと額を押し当てられ、深い紫の瞳が真っ直ぐに金の瞳を見据える。何だ
か妙に気恥ずかしくて、悟空は首まで紅く染めて、コクリと小さく頷いた。
悟空の身体を腕に抱き込んだまま、三蔵が不意に立ち上がった。悟空の零れ落
ちそうに大きな瞳が「どうしたの?」と問い掛ける。
「夕飯、街に食いに行くぞ。」
「え…だって三蔵、仕事は…?」
「ゴチャゴチャ言ってると気が変わっちまうぞ。行きたくねぇのか?」
「い、行きたい!絶対絶対、行きたいっっ!!」
「だったら最初っからそう言やいいんだよ。行くぞ。」
そのまま三蔵は部屋を出ようとする。悟空は焦った様子で足をバタつかせた。
「ンだよ、うるせーぞ」
「オ…俺、自分で歩くからっ、下ろしてよ三蔵っ」
「…テメェはこの状況が不満なのか?」
「そうじゃない…けど…何か、小さい子みたいだし…三蔵疲れちゃうから…」
三蔵が珍しく甘やかしてくれているのはわかるのだが、小さな子供が親に抱っ
こされているようで照れ臭いし、第一自分はもう、幾ら何でもそれほど小さく
はない。どう考えたって三蔵が疲れてしまう。
「テメェなんぞ充分子供の部類だよ、チビザル。いいからつかまってろ。」
三蔵がそう言い切った後も暫し逡巡の表情を見せていた悟空だったが、やがて
おずおずと三蔵の肩に腕を回した。三蔵は微かな笑みを口許に刻んで、執務室
を後にした。
自分に会いに来たと言っていたと、悟空は言った
つまりそれは、ここに来る以前の悟空を知っているということ
色々な話をして、すげぇ優しかった?
泣かないで笑ってくれと言われた?
フザケんな。こいつはもう、俺のだ。
今更誰が来ようが何を言おうが、こいつは俺のモンなんだ。
初めてこの手を取った瞬間からの、それは奇妙なまでの確信
他人に触れることなど大嫌いな俺が、
らしくもなく手なんざ繋いだ時
はっきりとわかった
こいつは最初から俺のもので
だから俺にはこいつの声が聞こえたのだと
どれほど「それはただのエゴだ」と詰られようと
余所見など出来ないように手足を引っ掴んででも
誰にもやらない 『絶対』に─────…
第二章・終
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