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2008年の4〜5月にかけ、パリ4区の閑静な一画に位置するアニエスbの画廊、ギャルリー・ドゥ・ジュールでポスト・パンク期回顧展が開催されていた。イベントの正式名称は「モダン青年たち:フランスにおけるポスト・パンク、コールドウェーヴ&ノヴォ・カルチャー - 1978‐83」。目が痛くなるほど真っ白な壁には往時のレコード・ジャケット、ライヴ演奏写真やプライヴェート写真が碁盤のように配置されていた。オープニングの招待日には関係者が多く集まり、インタビューやサイン攻めにあって忙しそうにしている。〔註1〕 |
〔註1〕 |
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「モダン青年たち:フランスにおけるポスト・パンク、コールドウェーヴ&ノヴォ・カルチャー - 1978‐83」 |
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パトリック・ユデリン、エティエンヌ・ダホ…歴戦の強者たちが勢ぞろい。とはいえ名前を列挙していってもあまり意味はなさそうである。状況をUKに置き換え、ジャン・ジャック・バーネル(ストラングラーズ)、アンディ・パートリッジ(XTC)、スティング(ポリス)、スージー・スー(スージー・アンド・ザ・バンシーズ) 、アントン・コービン(映像家/写真家)、ジェイミー・リード(『勝手にしやがれ』ジャケット・デザイン担当)…が一堂に会したイベントを想像してもらえればインパクトのようなものは伝わるのではないだろうか。イベント開催に合わせ、回顧展と同名〔註2〕のコンピレーション・アルバム『モダン青年たち』(CD2枚組、全40曲収録)も発売されている。 |
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副題に含まれている「1978-83年」の区切りは重要である。フランスでは通例、この時期がポストパンク〜ニュー・ウェーブ期として位置付けられている。2004年にタイガースシから発表されたコンピ盤、『ソー・ヤング・バット・ソー・コールド』の副題も「仏アンダーグラウンド・ミュージック/1977-83」だった訳で、同じ時期を射程内に収めているのが良く分かる。 |
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ところが回顧展自体の評判が芳しくない。アニエスb主催ということもあり「とても上品で」、「カタログの完成度は非常に高かった」。この点では多くの意見が一致している。CDへのレヴューも軒並み好意的である。 |
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反応が早く、口調に棘があったのは先鋭的なオンライン・カルチャー誌「フリュクチュア・ネット」だった。オープニング・セレモニーから半月も経たない4月14日にはイベント初日の映像がポストされている。「かつての同志が再会して仲間内で誉めあっているだけ、連中が以前批判していた68年世代〔=ヒッピー世代、安保世代に相当〕と大差ないよね」、いきなり某氏が手厳しい意見を開陳、これに追随し「(パンク期の)美術館化に拍車がかかっているよ」の声が上がる。挙句の果ては「アートなアニエスbにロックを期待するのが間違っている」と一蹴される始末。〔註3〕 |
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暇人のやっかみ、毒舌の類だろうか。決してそんなことはない。インタビューやライヴリポート、レビューで健闘を見せている音楽フリーペーパー、PPP(パンク-ポスト-パンク)マガジンの第7号(08年6月公刊)でも同イベントへの感想が次のように綴られていた。 |
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数週間前に開催されていた「モダン」青年たちのイベントには参った。何よりこのイベントは当時(1980年)の胡散臭い宣伝文句を再利用している。この謳い文句に従うと若者連中はクールでありモダンなのであり(大体後は予想できるのではないかと思う)、屈強で野心に満ちている。そう謂いながら、たまたま華やかな道とは無縁だった多くのグループはほったらかしにしたままになっている。〔註4〕 |
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状況は明快である。現在でもこの種の音楽を追いつづけている連中にとって、08年春のイベントはパンク・セレブによるパンク・セレブのための自愛的な同窓会でしかなかったのである。功なり名を遂げた先人を称えるのはやぶさかではないとはいえ、目先で開かれつつある新しい風景とは大きな体温差が生じている。 |
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1978〜83年。ポスト・パンク〜コールドウェーヴ期の主要音源は既に相当数CD化されており、今更「再」評価するという対象でもない。この数年来地元で盛り上がっているのはその後、これまであまり注目されてこなかった「1983〜92年」の発見である。本稿では仮にこの期間を「仏ニュー・ウェーヴ後期」あるいは「ポスト・コールドウェーヴ期」と名付けておく。 |
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2004年に復刻専門のレーベル、インフラスティシオンが始動。創立以来5年間で50枚に及ぶCDを発表していく。例えばアサイラム・パーティーの『グレイ・イヤーズ』Vol.1&2はバンドが発表したアナログ音源全てを網羅、なおかつ未発表のライヴ・トラックも収録。いわゆる「全集」の形の濃密な復刻作業である。同レーベルのカタログで2枚以上CDが出されているバンド名を挙げていくと: |
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アサイラム・パーティー、バベル17、バローク・ボルデロ、クレール・オプスキュール、コンプロ・ブロンスウィック、ディー・プッペ、リトル・ネモ、ルーシー・クライズ、マルタン・デュポン、ノーマ・ロイ、ヴォクス・ポプリ。 |
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以上10バンドの内70年代デビュー組はノーマ・ロイ一つ。82〜83年登場組(バローク・ボルデロ、クレール・オプスキュール、コンプロ・ブロンスウィック、マルタン・デュポン)と85年以降デビュー組(アサイラム・パーティー、バベル17、リトル・ネモ、ルーシー・クライズ、ヴォクス・ポプリ)が半々の割合になっている。 |
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復刻ブームと期を一にし、当時この手の音楽を貪り聞いていた連中がバタバタと動き始める。ダンボール底に眠らせてあったアナログを取り出してきて埃を吹き飛ばす。万を超える大金を払って手に入れたカセットが廉価でCD化されてしまい唖然としている者もいる。 |
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やはり同時期、各地に散らばっていた同好の士がインターネットを起点としてネットワークを作りを開始する。カラーの異なった幾つかの情報サイト・掲示板(「フレンチ・ニュー・ウェーヴ」〔註5〕「コールドウェーヴ/ポスト・パンク」〔註6〕「G・カルチャー」〔註7〕)が誕生したのも05〜07年にかけてだった。既に活動を停止しているグループへの紹介サイトやMySpace上のオマージュ・ページも次々と誕生。重要グループを簡単に紹介していくと: |
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1) DZ・レクトリック/マグネティーク・ブルー |
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クリスティアン・デゼールを中心としたエレクトロ・ノイズ・プロジェクト。今回紹介する中では仏オリジナル・ポストパンクの最も近くに位置している。83〜84年にはディー・フォルム運営によるレーベル「バン・トタール」を拠点としていた。バン・トタールは仏版インダストリアル・レコードとも呼べる重要なノイズ・レーベルであり、DZ・レクトリックも当初はテープ・コラージュを中心とし、砕破する律動と変調絶叫を練りこんだテクノイズを産出していた。一方でドラム、サックス、ベースを加えたバンド形態のエレクトロニクスに触手を伸ばし始め、こちらの音源をマグネティーク・ブルーの名で発表していくようになる。87年、キャリアの最末期に発表された『ビー・エクレクティック』はDZ・レクトリックとマグネティーク・ブルーの方向性を統合した一作。デジタル・カントリーからファンキーなダーク・ロック、エレクトロ・アコースティカまで含んだ錯乱した内容となるもハード・エレクトロ・ポップの名曲「ゲイザー」を含んでいる点で貴重。同系の楽曲「プロキシー」も完成度高し。 |
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2) ブリガード・アンテルナシオナル |
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80年代前半にフランスで最も内省的でスロウコア寄りの音使いを見せていたエレクトロ・ユニット。84年にメルツバウなどの音源を手がけていたウァーレンベルグ・プロダクションからデビュー・カセット(『極限の視線(ルガール・エクストレーム)』)を発表。やや軽目に設定されたリズムボックスの音が特徴で、エリ&ジャクノ〜ミカドのような仏インディー・ポップ勢の打ち込みよりさらに柔らかく、メロディアスにリズムを歌わせている。ここに伸びやかなシンセ音やギター音、愁いを帯びたヴォーカルがかぶさってくる。85年頃まで存在するが他に音源発表の形跡はなく、キーボード奏者のセシルが別ユニット、メリー・ゴーズ・ラウンド(1986-93)に参加したことで自然解消している。編成は異なるがヤング・マーブル・ジャイアンツに匹敵する唯一の仏NW音楽体ではないかと思われる。 |
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3) バローク・ボルデロ |
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ヴォーカルのウィーナ嬢とギターのアラン君を中心とした4ピース。バンド名はストラングラーズの楽曲より。口を大きく開きながら言葉をうねるように吐き出すウィーナ嬢の歌い回しはパティ・スミスの影響有り。引き締まったリズム・セクション、かきむしるような弾き方と綺麗目のアルペジオを引き分け、さらに多重録音で曲にニュアンスを与えていくギター…84年のデビューシングル「トゥデイ」の段階で既に頭一つ抜けた力量を見せつける。85年〜86年に2枚のアルバムを発表。1st『ヴィア』はヴォーカルの七変化が素晴らしく、中でもボルデロ流にネオアコを調理した「ロートル」は初期代表曲の一つに位置付けられる。リズム・セクションの交替が激しかったこともあって音の変貌もめまぐるしく続き、中近東風のT1で始まる2nd『パラノイアック・ソング』はエレポップとギターポップの合いの子のような奇妙な佇まいを漂わせている。86年末に解散。ポップソングとしての完成度が高かったこともあり、この時期のバンドとしては早い段階(2004年)で再評価の動きが訪れている。 |
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4)ザ・グリーフ |
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今回紹介のメンバーでは最も奇怪な異音を生み出していたユニット。他のバンドと違い、英米に似たような参照例が見当たらない。サン・マロ出身の3人組という以上の情報は不明。85年デビュー。鐘の音、マーシャル・アンビエント系の音使い、ピアノの強打やヒスノイズがシンセ音に編みこまれ、「バックの演奏」に使われている。ボーカル・パートには録音された人声のサンプリングと、ヴォーカル担当者と思われる男性によるデス呪詛声を組み合わせている。普通の発想でいくとインダストリアル音楽となるはずが、どの楽曲にもグルーヴ感とダイナミックな物語感が備わっていて実験度の高いロックとして聴けてしまう。バンドの資質が最もバランス良く結晶化したのが2nd『ユイ・クロ』(1987年)と初期音源を集めた『オ・ドゥラ』(1990年)。この後バンド内部でダンス/実験の要素が二極化してしまい、初期の求心力は失っていく。91年に最後の音源を発表。この後メンバーの一人がノルスク(Norscq)名義で後期ザ・グリーフの音作りを受け継いでいく。 |
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5) リトル・ネモ |
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80年代後半にフランスで最も人気のあったパリ拠点の3ピースバンド。83年結成、86年デビュー。当時昇り調子だったレーベル「ニュー・ローズ」と契約。同社創設者の一人(ルイ・テヴェノン)が社内に新たなポップ・レーベルの新設を決定。ライブラリー・アートと名付けられた新組織は「タッチング・ポップ」の名前で新しいバンドを宣伝し始める。リトル・ネモはアサイラム・パーティー、マリー・ゴーズ・ラウンドと並んでこの潮流の中心と見なされていく。ライブラリー・アートからは初となる2ndアルバム『サウンド・イン・アティック』は艶やかで芯のあるギター音を中心とし、ピアノやシンセを立体的に組みあわせた風通しの良い新型ギターポップとなった。この作品は各誌で絶賛され、バンドはさらなる躍進に乗り出していく。90年に発表された『トルコワーズ・フィールド』はミュゼットの響きからジャズ・フレーヴァーまで呑みこみつつ、なおかつネオアコ寄りのカラフルなポップ・ロックとしてソリッドな姿で立ち上がってくる。同作の評判は海外まで及び、メロディ・メーカーに掲載された新作レビューではモノクローム・セットやインスパイラル・カーペッツが引き合いに出されていた。91年、契約レーベルのルイ・テヴェノンが会社を離れ、新レーベル「シングルK.O.」を創設したのにあわせリトル・ネモも移籍。このレーベルが倒産した余波を受け、92年にバンドも活動を停止している。 |
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6) コレクシオン・ダルネル・アンドレア |
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コクトー・ツインズ/デッド・カン・ダンス・フォロワーとして出発しながら独自の音楽性に到達、なおかつデビュ−以来ほぼ途切れることなく現在まで活動を続けている貴重な音楽ユニット。88年に自主制作EPを発表した段階ではヴォーカルのクロエ嬢とキーボード&パーカッションのジャン・クリストフ・ダルネルの2人編成。以後チェロやクラリネット奏者を含む形で次第に大所帯になっていく。89年に『ロロワの秋』でデビュー。冒頭から音圧の高いバンドアンサンブルで畳みかけ、そこに超透明なフィメール・ボーカルが重なってくる。『ブルーベル・ノール』に影響を受けた音作り(ベースの動き方は酷似)ながらもエレキ・ギターのアルペジオは使用せず、勢いのある生音アンサンブルで歌を支えていく。この後2年に1枚のペースで新作を発表。緩やかな愁いで貫かれた2nd(『薔薇舞踏会で』)、管弦の響きを重視、トラッドと古楽の美しさに接近した6th(『鬼神の悲しみ』)、ノイズギターとサイケデリアを混ぜこんだ7th(『絶望の木陰』)…アルバムごとに異なった響きを模索しながら自己革新を続けている。 |
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7) アシュガ・ネイ・ウォデイ |
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音響実験集団「ブルボネーズ・クワルク」とも接点を持つアヴァンギャルド演奏体。パリ男4人を中心として83年に音楽活動を開始。レジデンツ、ノイ、ビーフハート、トイポップ、民族音楽など雑多な音楽を吸収消化、ポップさを備えた洒脱なポスト音楽、反音楽を実践していく。正式な音源発表は86年のカセット音源と87年の3枚組みマキシセット『トリプティーク』のみ。後者は10人の画家に委託した大きな布製絵画を分割したものを封入した特殊なボーナスが付いていた。ライブでは「黒人への経緯」と全員が顔を黒塗りにして登場。どこまで本気でどこまで冗談なのか見分けがつかないのは『トリプティーク』の音も同様。アコーディオンをバックに声明めいた一斉唱和が始まったかと思うと、軽快なトイピアノのリフに合わせ子供声が何語ともつかぬ言葉で調子外れに歌い始める。金属パイプから壊れたヴァイオリン、スチールドラム、ガラス片…音が出る物なら何でもコラージュしていまい、それでも個々の楽曲の統一性と構成感は維持していく。予想していなかった音色、律動、旋律の断片が次々現れるのに唖然としている間に40分はあっという間に過ぎてしまう。ハプニング型フレンチ・ローファイ・ポップの魔法ここに極まれり。 |
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10) センペル・エアデム |
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90年代フランスを代表するダーク寄りのネオ・クラシカル音楽ユニット。中心人物はダヴィド・ヴァレ。92年夏、短編映画を撮影するために集まったメンバーを起点として音楽活動を開始。ボードレールの詩篇からグループ名を借用。95年にファースト・デモカセット『イン・リメンブランス』発表。基本は深い反響を帯びたシンセ音。安易に持続音を引き伸ばしていくのではなく、雪山の木立の合間で揺れているような空気の細波が音の表面を覆い尽くしヴェール化していく。ビートの発想はなく、時折挿入される重低音の打楽器はメロディの素材の一つとして扱われている。この後女性ボーカルのラシェル・Bを正式メンバーとして加え第2デモカセット『悲しみへのオード』(96年)を発表。音響テクスチャの編みこみが複雑化し、女性の声とシンセ音がアトモスフェリックに溶けあって所々泡状のドローンになっている。デビュー作に比べ旋律と楽曲構造がやや単純化し、緩やかな起伏自体の美と冷たさを際だたせる形になっている。以後も単発的に音源を発表していくが、ラシェル・Bの離脱もあり00年代前半は活動を停止、ダヴィド・ヴァレ氏は現在ノイズ・プロジェクト「リト(Lith)」に活動の比重を移している。なお、09年にMP3レーベル「ノイズ工房」で公開されたフリー音源『ポスト・モルテム・フォトグラフ』の音作りはセンペル・エアデムの延長上に位置している。 |
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他にもソニック・ユースやサブポップ近辺の影響を垣間見せる希少種のトロ・タール、直情型のルーシー・クライズ、エレポップの老舗トリゾミ21など挙げていくときりがない。情報サイト「フレンチ・ニュー・ウェーヴ」に登録されているバンドの紹介ページだけでも250を超えている。全貌を見通すのはさすがに不可能なのでピンポイントの紹介と相成った次第。 |
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多彩さという点で言えば80年代中盤〜90年代初頭の仏インディー界も中々だったことになる。UKインディと張り合うつもりはない。重箱の隅を突いていけば随分と足りないものが出てきたりする。ビリー・ブラックのような社会派フォーク詩人の姿が欠けているし、サイモン・フィッシャー・ターナーのような奇矯なポップ職人の姿もない。 |
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さらに言ってしまうとUKシーンの一流バンド(スミス、ワイヤー、フェルト、フォール、キュアー、ニュー・オーダー、ジーザス&メリーチェイン、プライマル・スクリーム、コクトー・ツインズ、U2、ザ・ザ、ストーン・ローゼス、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン…)と比べると小粒な印象も否めない。時代のイコンとして機能する特筆すべきキャラを生みだせなかったのが押しの弱さにつながっている。バンド・オブ・ホリー・ジョイやスープ・ドラゴンズと並べて聴いても全く遜色はないよ、という話である。 |
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この数年の「80年代再発見」で問題となっているのは「質」ではない。当時のあのバンドとこのバンドを比べた時にどちらが上、とか英国とフランスのバンドを比べてどちらが優れているか、といった議論はされていない。 |
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インタビュアー: 過去を称えるというのは良いことだと思いますか。 |
〔註8〕 |
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問題はもう少しこみいっている。記憶喪失から蘇り、仏インディが一つのジャンルとして最認知され、あまつさえ(フレンチ・コールドウェーヴの名で)盛り上がりを見せている状況を前に当事者たちはどこか当惑した表情を浮かべている。ノスタルジーと好奇心で捏造された一過性の盛り上がりなのではないか。実体のない、すぐ忘れ去られてしまう現象ではないのか。どこかで猜疑心が頭をもたげてくる。インタビュー記事で頻繁に見られる「今回のリヴァイヴァル・ブームをどう思いますか」の質問にはそんな猜疑心、不安が透けている。 |
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80年代初頭、コールドウェーヴとは(スイス、ベルギーを含んだ〔註10〕)フランス語圏のニューウェーヴを指す「異名」だった。現在は意味領域が拡張され、国籍や時期に関係なくある種の怜悧な質感を帯びた音楽の総称として、「ダークウェーヴ」や「オブスキュア・ウェーヴ」と同義に使用されている。ただしこの話はあくまで一般論である。上に見たように、フランス本国ではまず英パンク・ムーヴメントの「熱さ」へのシニカルな反応として、「機械化・テクノロジー化していく身体と音楽」として「冷たさ(コールドネス)」が誕生している。再度引用するが『ソー・ヤング・バット・ソー・コールド』(2004年)の「コールド」はそういった意味合いで使われている。 |
〔註10】 |
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05年にインフラスティシオンから発表されたコンピCD『トランスミッション 81-89:フレンチ・コールドウェーヴ』はこれに対する仏本国からの回答となっている。タイトル然り、選曲然り。アサイラム・パ−ティー、バローク・ボルデロのように比較的ストレートなロック、ポップを演奏している連中でもリズムセクションの切れ方、削ぎ落とされたタイトな質感に冷たさが入りこんでくる。アルバム・タイトルに引用されたジョイ・ディヴィジョンだけではなく、アンド・オルソー・ザ・ツリー、キリング・ジョークを含めたUKインディの冷気をフランスの80年代にも見て取っていく。「これこそが81年以降のフランス・インディの冷たさなのだ」と再定義してみせる。82年以降の仏ニュー・ウェーヴはコールドウェーヴとはまた異なった冷たさに移行していった。『トランスミッション 81-89』とその続編『トランスミッション・コンティニュード』が提示したのはそんなロック史観だったのではないかと思う。 |
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この歴史観そのものが最初から行き詰まりの気配を漂わせている。「仏ポスト・コールドウェ−ヴ」と言った時、単語の一つ一つが胡散臭い。ドイツでもイタリアでもポーランドでもなく「フランス」を殊更に強調する意味があるのかどうか果たして疑問だし、81-89年という区切りで「ポスト」の位置付けを強調してみても先行者への距離感が大して見えてくるわけでもない。 |
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「コールドウェーヴ。ひんやりしていて、シンセサイズされていて、死の味がしていて、美しくも悲しい、そんな全てを兼ね備えた音楽。コールドウェーヴが流行っている。時代の空気、この80年代の音楽だから」〔註9〕 |
〔註9】 |
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この発言は1981年、仏コールドウェーヴ期にその当事者の一人によって書かれた一文である。ただし書き手はすぐにこの言い回しを「皆々様のがらくた置き場にまた名札が一つ追加」と冷ややかにあざ笑ってみせる。 |
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一方でこの「名札」、タグを拠り所にして新しい聴き手が集まってくるのだからあながち全否定もできない。言うまでもなく、大事なのは一旦緩やかに大きな枠組を設定し、それから個々の現象が孕んでいるミクロの物語に耳を傾けていくことである。時に対立、矛盾し、異様な切断線や横断線に満たされ、時にお互いを補っていく微細な「冷気」の物語が集積されていき、最初あったように見えた「大きな全体の物語」を凌駕したとき、おそらくはこの「名札」すら不要となっていく。 |
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試行錯誤は始まったばかりだが、上記に紹介したバンドの説明文には幾つかのヒントを含ませておいたつもりである。 |
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【書誌】(紙ベースの引用原典のみ) |
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- Interpretation Subjektive 00 (Free Magazine, 1981.4) |
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- PPPzine 5 (Free Magazine, 2007.11) |
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- PPPzine 7 (Free Magazine, 2008.6) |
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【ディスコグラフィー】 |
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【1982年】 |
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【1983年】 |
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【1984年】 |
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【1985年】 |
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【1986年】 |
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【1987年】 |
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【1988年】 |
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【1989年】 |
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【1990年】 |
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【1991年】 |
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【1992年】 |
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【1993年】 |
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【1994年】 |
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【1995年】 |
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【1996年】 |
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【2004年】 |
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【2005年】 |
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【2007年】 |
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【2008年】 |
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【2009年】 |
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] Noirs [ - フランスのもう一つの文学 by Luj, 2008 - 2010 |
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