境界面
〔ハメット型知覚について〕
2003年3月
Tag: 論考。英米ハードボイルド、ダシール・ハメット
ダシール・ハメットは掌編「悪夢の街」(1924年発表)で架空の街「イザード」を想定している。実在する都市を背景にした他の作品群とは異なり、この短編では都市空間の想像力が単純な形で前面化している。「悪夢の街」から伺える知覚構造がハメット著作全般と結びついている事実を確認していく。
1] 無身体都市「イザード」
3年前、砂漠の中に忽然と姿を現した街イザード。全般を通じてオフィス街的な佇まいを漂わせている。昼の世界に限定されないことは描写の細部(食堂に隣接した《遊戯室》、夜のポーカーの場面)から理解できる。通りに面した《住宅》の言及もあり、ハメットの想定は住空間、ビジネス空間、歓楽街全てを包括した《普遍的都市》だったと思われる。
作家の記述は街の機能的側面に重点を置く。「赤煉瓦の壁」を持つ《イザード銀行》、主人公の滞留する《イザード・ホテル》、ヒロイン・ノヴァの勤めている《電報局》、後に密造酒工場と明かされる化学工場。筋の展開に促されるように主人公は要所を点々と移っていく。
社会的機能を行う《点》の説明が行われる一方、《移動》に関わる描写は最低限に抑えられている。幾つかの章段は主人公が通りに出た一瞬で途切れてしまう(「男と一緒に通りを下り始めた」、「踵を返して電報局を出た」etc.)。《移動》を省略する傾向はハメット著作全般で確認される。例)『ダイン家の呪い』、第13章冒頭部、「荷物をまとめガレージから車を出すと通りを走らせ始めた」、コンチネンタル・オプは次の行で目的地ケサダに到着している。
《通り》が体感として経験されることはない。「悪夢の街」には通りに関わる描写が数ヶ所ある。1)事件、事故の起こる場所として《点》的な記述をされる、2)主人公が人の出入を観察する。通りは時‐空間的な持続や広がりを持った体感ではなく、街の機能の一部として認識されている。
機能性の重視は実体的な記述の欠落とも対応している。街の規模に関わる記述は皆無に近い。架空都市の設定にも関わらず、イザードの人口、面積、形状の説明は欠けている。「幽霊会社が百社はある」の記述から田舎町ではないと予想はできる。だがこれも会社数という社会的な視点に基づいた記述になっている。街は即物的な要素から定義されない。ハメット的《リアリズム》に裏付けられているにも関わらずイザードには抽象的な印象が付きまとう。
位置関係の不在。短距離間の移動(「通りを横切って銀行に向かった」)を別として、方位や距離感を演出する記述が欠けている。《架空の街》の設定上、通りの名称や番地表記、名所旧跡で具体性を与えることが出来ない。この短編を書いている際、イザードの地図は作家の念頭になかったと思われる。
この作家特有の《省略の感覚》。イザードの記述全体は物語の展開に促されて現れてくる。筋と関係の薄い部分を省略した可能性は高い。結果、街の全体像が犠牲にされている。
ハメットは省略している。だが一貫性を持つよう何かが残されている。これは機械的な省略ではなく《抽出/抽象》の作業に当たる。イザードをめぐる記述は都市全体から《機能》の部分を抽出している。諸々の機能が集合した総体として街を定義すること。 登場人物たちもまた、社会機能の網目(不動産屋、医師、銀行化、会社員)に位置している。仮に《機能主義型リアリズム》という概念を導入すればイザードをめぐる言説は一貫性を持つ。
[2] ファサード(装飾的正面)
建物には内部と外部がある。西洋建築では両者の間に精神的な関連性が成り立つのが望ましいという人間主義的な前提が存在する。《正直な》ファザードは背後の活動を語ってくれる。
『錯乱のニューヨーク』、レム・コールハース
結末部分で架空都市の嘘が明かされていく。深夜勤務番で働く労働者たちは密造酒作りに関与している。硝酸工場は密造酒工場の「良い隠れ蓑(the
good front)」になっている。街を経済的に支えているのはこの《嘘》になる。
第二の暴露は大掛かりな保険金詐欺である。保険屋‐医者‐検死官‐葬儀屋が結託し、「書類上で、時に本物の人間が」殺されていく。人物に留まらず、「車、家、家具。保険を掛けられる全て」が細工されている。
実体の5倍以上に水増しされた人口。百社に及ぶ幽霊会社。名目と内実が不対応の様子が強調されている。前半部で具体的な数値(人口、会社数)を挙げなかった理由も納得がいく。最終的に辻褄が合わなくなってしまうからである。ハメットは意図的に数値を言い落としている。
虚像の背後に何も存在しない場合もある。「住宅の立ち並ぶ通りから別な通りへ。家々は空っぽで正面窓しか見えない(nothing
in them out of sight of the front windows)」。表面しかない。イザードは機能する幽霊都市の様相を呈し始める。
この短編には2箇所、《人を欺く正面》の意味で《front》が用いられている。知覚認識と事物世界の間に現れた境界面であり、建築用語のファサードに対応する。 ファサードは建物内部‐外部の連関だけではなく、観察者を含んだ主観的な関係上で捉えられている。
主人公はファサード上の事象を読み取っていく。分析は背後の実体、或いは空虚を見通すには至らない。期待とは裏腹に主人公は「イザードの謎」を独力で解くことに失敗する。完成度を高めたファサードは優れた観察者を欺き通すことが出来る。
《ハメット的リアリズム》、事物を即物的に描写していく手法はこの対=ファサードとの関係上に成立する。先の《機能主義型リアリズム》と区別して《視覚的リアリズム》と呼ぶことができる。この《視覚的リアリズム》は目に見える部分、事物世界の表面を対象にしている。
実体ではなく機能の側面を抽出する。深部ではなく表面部を解読していく。両者に《抽出/抽象》の作業が含まれている。ここで区別した2種類の《リアリズム》は背景となる全体/実体を想定していない点でハメット特有の性格を帯びている。ハメットの《ファサード》は背後‐奥から自立して存在している。
[3] ハメット風オープニング
リアリズムの力、同時に《抽象》の力をハメットは熟知していた。長編『ダイン家の呪い』(1929)、『ガラスの鍵』(1931)の冒頭部で確認できる。
『ガラスの鍵』は「サイコロ(骰子)」で始まっている。この時、ハメットの視線は「台」と「骰子」の関係を最小限の要素(色、点と線、運動)で記述している。「出目は一だった」と書かずに「点を一つ上に向け」と表現している[註1] 。幾何的な把握で描写の精度が高まった印象がある。
〔1〕
The other [dice] tumbled out to the center of the table and came to rest
with a single spot on top .
The Grass Key, Chapter 1:
The Body in China Street
《背景となる全体、実体を想定していない》の指摘はこの冒頭部にも当てはまる。賭け事をする人物や室内の記述が欠けている。唐突な切り出し、親切とは言えないが読み手の好奇心を引く役割を果たしている。
精密な細部だけを提示する。この冒頭部は不安定さを備えている。二段落目以降、背景が現れて(「勝者がテーブルの金を引き寄せる」)緊張感が解消される。細部から背景へ、緊張から緩和への展開は意図的に用いられている。
『ダイン家の呪い』の冒頭部も同型になる。作品の一行目は、「青色の煉瓦癖から5、6フィート手前、芝生で輝いている」ダイヤモンドだった[註2] 。色彩、点と面の関係を捉えようとする視線を確認できる。やはり一瞬の唐突さを解消するように具体的な説明が続いている。
〔2〕
It was a diamond all right, shining in the grass half a dozen feet from the blue
brick walk .
The Dain Curse, Chapter 1:
Eight Diamonds
ハメット的な《リアリズム》で必ずしも《リアリティ》は最優先ではない。骰子の大きさや形状、材質や質感を付せば《リアリティ》は増したはずである。作家は《正確さ》、《不必要な要素の削除》を重視している。対象を熟視し、視点を絞って記述を進めていく。 ハメットは事象間の《連関》を正確に描いている。先に区別した《機能主義的リアリズム》、《視覚的リアリズム》双方に当てはまる。社会機構や上下関係といった社会内部の連関を正確に描く。事物の運動や配置を正確に描く。《リアリズム》の語は《生々しさ》、《正確さ》両方のニュアンスを兼ね備えているがハメットは後者に比重を置く。
描写に象徴的なニュアンスは付されていない。形態、運動だけを純粋に記述している。《背後》に何も隠れていない(例えば骰子は運命の象徴ではない)。象徴性を排除することで描写に独特の軽みがもたらされる。
色彩‐幾何図形(点、線、面)‐運動、ハメットは最小限の要素で《リアルな》細部を組み立てる。精密な細部だけの冒頭は不安定さを帯びている。緊張を解消する説明を補っていく。抽象から具体へ、緊張から緩和へ。この導入を《ハメット風オープニング》と名付けておく。幾つかの短編でこのオープニングや変形(ヴァリエーション)を観察できる。
「悪夢の街」の冒頭はこの原型になっている。イザードの大通りに走りこんできた「フォード」。「塵のように流れるように、不安定に、道幅一杯をジグザグとしながら」[註3] 、道の真中に立ち止まった女性を轢きかける。比喩、修辞が多用されていること、具体的な描写(女性の服装、車の状態)を多く含んでいる点でまだ《具象的》な印象が強い。この冒頭に見られた幾何的把握を中心とし、具体性を削ぎ落としていくと《ハメット風オープニング》が完成する。
〔3〕
A Ford - whitened by desert travel until it was almost indistinguishable from
the dust-clouds that swirled around it - came down Izzard's Main Street. Like the dust, it came swiftly, erratically, zigzagging the breadth of the roadway. Nightmare Town
[4] 審美フィルター、パターン認識
ハメットは色彩‐図形‐運動を組み合わせている。事象から色彩‐図形‐運動を抽出している。この指摘はハメットの描写技術が19世紀の《リアリズム》と一線を画していたこと、同時代的な芸術思潮と隣接していた事実を伺わせる。
『ガラスの鍵』の冒頭部、骰子の記述は物語の大筋に関係は無い。「室内で数人の男が骰子の賭けをしていた」で済ませることも出来る。なぜ細密な描写が必要だったのか。一つは緊張‐緩和の流れを必要としたからである。読者の好奇心をひきつけ、作品世界に入り込ませていく技術の一つである。
だがそれだけではない。骰子の動きが読者の興味を引く。ハメット自身も「綺麗に書き出した」と感じていたと思う。一見即物的な描写に美学的フィルターが掛けられている。場末での賭博という文脈を無視してしまえば色彩‐図形‐運動の構成(コンポジション)が残される。この発想は同時代のモダニズム絵画の影響を強く受けている。19世紀のリアリズム作家たちが《描写》でリアリズム絵画を自明の前提としていたように、ハメットの《描写》も同時代の抽象絵画(キュビスム、ロシア構成主義)と連関を持っている。
絵画とのアナロジーは深い部分では成立しない。絵画のコンポジションは対象間の緊張‐調和関係と同時に背景(例えば画布)‐対象のバランスも考慮している。言葉‐概念を直線的に並べていく小説の原理と対等には扱えない。この保留を踏まえた上で、『ガラスの鍵』冒頭部はハメットの書いた最もキュビスム的な文章だと言うことはできる
細部の描写に美的なフィルターを多くかけている。短編「悪夢の街」では煙草を吸っている人物を「細い鼻から煙が分かれ、灰色をした二枚の羽になっていた」[註4] と描いてみせる。若干のユーモアを込めつつ対称性を正確に描き出している。鼻と羽とを組み合わせた(マグリット的な?)奇妙なオブジェにも見える。
〔4〕
[...] his thin nose splitting the
smoke into two gray plumes .
一見無秩序に配置されている事物、風景から幾何的な《型》を読み取っていく。「頭部大の楕円が窓の灰色に黒く映っていた」等が典型になる。不要な細部の記述は省略されている。全体からオブジェクトの連関を抽出していくのである。
パターン認識の操作を連鎖させることもある。事物の一部から一部へ視線を移動させ、同型のパターンを次々見つけだしていく。『マルタの鷹』(1930)冒頭部は有名である。ハメットは主人公サム・スペードの顔だけを考えている。視線は「顎」から「口」へ、「鼻」から「目」へ、「眉」から「髪」へと上昇し、大小様々な《V》字型を読み取っていく[註5] 。
〔5〕
Samuel Spade's jaw was long and bony, his chin a jutting v under the more flexible v of his mouth. His nostrils curved back to make another, smaller, v . His yellow-grey eyes were horizontal. The V motif was picked up again by thickish brows rising outward from twin creases
above a hooked nose, and his pale brown hair grew down-from high flat temples-in
a point on his forehead.
The Maltese Falcon,
Chapter 1:
Spade & Archer
〔6〕
Her face was an oval of skin whose fine whiteness had thus far withstood
the grimy winds of Izzard; her nose just missed being upturned, her violet.black eyes just missed being too theatrically large, and her black. Brown hair just missed being too bulky for the small head it crowned.
Nightmare Town
同様の発想が「悪夢の街」に登場している。主人公がノヴァを観察する場面、視線は鼻から目、そして髪に移動していく。記述は「鼻はひっくり返り損ねていた」のように「損ねていた」を重ねている[註6] 。記述がランダムに陥るのを避け、共通項を見出そうとする指向は現れている(純粋なパターン認識には辿りついてない)。6年後の『マルタの鷹』、冒頭部の原型になっている。
色彩‐図形‐運動に焦点を当て、時間軸に沿った描写を進めていく(骰子)。或いは視点を移動させつつ共通パターンを読みこんでいく(《V》字型)。ハメットは描写に必然性と一貫性を与えようとしている。20世紀初頭の文学で問題になったテーゼ、《小説は無秩序/不均質である》(ヴァレリー、バフチン)への対抗措置になっている。
[5] インターフェイス、走査性
ハメット著作では《視線》対《ファサード》の関係が重要な意味を持つ(第2節参照)。前節では事物世界の表面一般まで拡張される。作家は主観上に現れる記号を読み取っていく。記号が《背後》や《メタ》と対応している必要はない。顔に表れた《V》が何かの象徴(例えば《vicious》や《victory》)として扱われている訳ではない。記号は戯れている。
《複数のシステムの境界面/インターフェイス》概念を適用することも出来る。視線はインターフェイス上の記号を読み取っていく。この時、視線は縦横に動きながら《走査(スキャン)》を行っている。文字/記号を組み合わせ顔を表現する顔文字と、主人公の顔に《V》字を読み込んでいく作家の手付きに類似性があっても驚くには当たらない。
[6] 対=精神、対=肉体
「ハメット[著作]には心が欠けていると言われる。でも最も自分をさらけ出している話では友に心を捧げる人々の姿が記録されている」
レイモンド・チャンドラー
主体間の関係を射程に入れると《ファサード》/《インターフェイス》概念は別な意味を持ってくる。諸々の指摘は人と人の境界面、《間主観的関係》にも妥当する。
作中、《恋愛》や《友情》は言葉の戯れ、記号の遊戯に埋没する形で現れている。(後に犯罪文学一般のイディオムとなる)含みや言い落としの多い発話が利用される。登場人物が感情を吐露する場面は少ない。感受性の強い人物は病的な扱いを受けてしまう(例:『ダイン家の呪い』、ガブリエラ嬢)。
感情は《説明》されない。一瞬の動作、迂遠な表現で《代弁》される。『ガラスの鍵』で描かれた手紙のエピソード(第五章五節)が興味深い。主人公は女性への手紙を書き終えた後、再読し、副詞2ヶ所の位置を書き直す[註7] 。ハメット著作の登場人物は記号の微調整が死活問題の世界で生きている。
〔7〕: MY DEAR MISS HENRY--
You've quite overwhelmed me with your kindness--first your coming to see
me, and then the fruit. I don't at all know how to thank you, but I hope
I shall some day be able to more clearly show my gratitude.
Sincerely yours,
NED BEAUMONT
When he had finished he read what he had written, tore it up, and rewrote
it on another sheet of paper, using the same words, but rearranging them
to make the ending of the second sentence read: "be able some day to show my gratitude more clearly ."
The Grass Key, Chapter 5 :
The Hospital
表面だけで構成された人物も登場する。 イザードで建物が「空っぽで正面窓しか見えな」いのと同様、背後に《リアルな精神》が存在するとは限らない。『マルタの鷹』のブリジッド嬢が典型例になる。この場合、「心が欠けている」の批判は妥当する。人は表面だけで存在することもある。魅力的な表面だけで構成された人物をハメットは肯定的に扱っている。
《精神》と同様に《身体》も隠されている。顔、姿形、衣服や化粧など表面は解析される。「痩せている(thin)」「肥えている(fat)」など視覚的な幅は強調される。だが《肉体感》は欠けている。死体描写で顕著に見られる特徴で、記述は厳密だが生々しさを備えていない。
セクシャリティは抑制される。性道徳規制の強かった当時の米社会で必要な措置でもあり、特にこの作家に該当する指摘ではない。「肘に手を置いた」のような断片的記述は、読み方によって幾らでも性的に解釈できる。
感情や肉体の希薄さは主人公にも当てはまる。初期の一人称(コンチネンタル・オプ)の時期から既にそうだった。主人公は平坦な感情を維持しつづける。暴力沙汰に巻きこまれても血生臭さを感じさせない。常に三人称的な客観性で自己把握がなされている。(ジェームズ・ケインと対照的に)三人称小説への移行がスムーズだったのも納得がいく。
ハメット著作では心や肉体が他人にある、自分(主人公)にあるという一般常識は部分的に保留されている。人と人の間で記号が戯れ、「感情」や「身体」らしき何かが関わっている様子が描写されている。記号に投影された欲望を介して他者の把握、自己の把握を進めていく。 感情や身体は主体の側からではなく、《インターフェイス》から把握されている。ハメットは徹底して《境界面》の作家である。
[7] 対=言葉
境界面をめぐる議論は最終的に《作家》対《言葉》に拡張することが出来る。紙面上で文字を扱う作家の手付きがこれまでの議論と反響している。
「悪夢の街」と同時期の短編「ハウス・ディック(邦題:やとわれ探偵)」には数字の「609/906」を利用したトリックが用いられている。アルファベットや記号、数字の操作を時折発見できる。数年前生じていだダダイズム(ニューヨーク・ダダ)ほど実験的なものではなく、筋の展開に即して使われている。ハメット著作は大半がミステリー形式を遵守しているが、ハメット的な《謎》は論理的な謎解き以上に認識力のトリックを多用している。 戯れる記号に意識的だから可能な技になる。
特に会話の中で、スラングや個性的な口調を表現するため特殊な記号操作を行うこともある。特殊なアポストロフ(《‘》)の使用法も多い。短編《ラフィアンの妻》では一語毎にハイフンを挿入する手法が採られている。音声的な配慮と同時に記号性も考慮されている。吃音や撥音を表現する以上に諸記号を扱う動作を楽しんでいる。
記号の戯れ、背後は《虚》ではないかいう発想は文学創造一般にも当てはまる。『マルタの鷹』がどれほどの《虚》(虚の人物、虚の発言、虚の出来事)で成り立っているか…本稿では繰り返さない。
小説が作者にとってインターフェイスとして働く可能性はある。対《言葉》の関係を考えた時、この境界面は《鏡》に近い役割を担っている。小説は《鏡》として作家の心性の一部を映し出している。《ファサード》から《間主観性》までを貫く《虚》の主題がハメット自身を反映している可能性は高い。テクスト分析から言えるのはここまでになる。問い掛けは開いたまま残しておく。
[8] 結語、補足
冒頭で述べたように、本稿の目的は短編「悪夢の街」から伺える知覚構造がハメット著作全般と結びついている事実を確認することだった。
1)架空都市イザード造形に見られる《ファサード》の重要性。背後/全体/メタレベルの不在を前提とし、抽象された記号の運動や連関を読み取っていく感覚が2)対象世界への振舞い、《インターフェイス》の概念に結びついて独自の《ハメット風オープニング》を可能とし、3)この発想が主体‐主体の《間主観性》にも当てはまり、身体性と精神性を保留した独自の世界観と連動しつつ、4)言語創造に回収される可能性へと繋がっていく。議論の骨子は以上になっている。
ハメット著作では《表面/境界面》が重要性を持っている。街の《ファサード》、人間身体の《表面部》、対象世界との《インターフェイス》、間主観的な認識平面、記号が多々戯れている《境界面》を繊細に扱っていく。私と他者(対象世界)がいる(ある)からその間に認識的なインターフェイスが現れるのではなく、境界面が先行して存在し、そこから私と他者の振舞いを解析していく。表面で戯れる諸記号に意識的だからこそ、巧みに利用して読者を煙に巻く。対‐身体の関係上でもハメットの視線は常に他者(女性)の表面から記号を読み取り、含みの多い言葉を軸として、主人公側の記号と絡みあわせる発想になっている。この場合、記号の背後に《真の精神》、《真の肉体》があるかどうかは重要視されない。ブリジッド嬢のように、準主役級の登場人物でさえ精神性や肉体性が驚くほど希薄な場合もある。男女間の対話は常に性的な響きを帯びているが、前戯的言語ゲームは自立性の高いものでその先の身体を直接に希求していない。
これはハメットが実体験(私生活や私立探偵としての経験。当時の米社会の表層性)から得た認識構造が多分に作用している。他者の心の奥底までは届かない、他者の身体まで届かないという静かな独我論的諦念と、人/事物の表面は嘘をつくものであるという猜疑心を母胎としつつ、記号の遊戯性を徹底的に押し進めて優雅な知的ゲームを構成してみせる。 こう考えていくとハメットがいかに特殊な感覚を持っていたか分かるはずである。
分析で触れられなかった部分を補足していく。レム・コールハースの一節を引用したが、イザードのような新興都市を作り上げる経済力、活力は『錯乱のニューヨーク』の雰囲気と良く対応している。同時にハメット著作と並べると同じ1920年代相手でも解釈の違いが目に留まる。コールハースが大都市の《無意識》を念頭に置いてその発展を追跡しているのに対し、都市内部を生きるハメットは醒めた視線で記号=欲望の行く末を追っているようでもある。
本稿では《ハードボイルド作家》ハメットは強調しなかった。ハードボイルドが都市を母胎に発生した側面を持っているので対照例は尽きない。通りを外部から観察するハメットに《通りを生きた》作家グーディスを、或いは洗練の作家ハメットにケインの《獣性》を対峙させることもできる。グーディスやケインは各論が必要な作家でもある。分析は別な機会に譲りたい。
《インターフェイス》や《パターン認識》等、一般にハメット分析に用いられない概念を使用している。1920‐30年代に活躍した小説家でこれらの概念を援用できるのはハメットが唯一だと思われる。分析で触れたようにハメット著作には現代芸術的な発想が含まれており、一方でコンピューターエイジの認識論がキュビズムやロシア構成主義と連動しているから許された議論ではないかと思う。ハメット著作は大筋で伝統的倫理観や文学観を踏襲しているが、知覚的な部分で時代を先取りしていた側面を持つ。こんな作家が《ハードボイルド》始祖とされているのだから面白い。
「悪夢の街」からの引用は1999年に編集・出版された同名短編集(ピカドール社)が底本である。《ダシール・ハメット、悪夢の街:自然から文化へ》(ナタリー・ブナ、ポラール誌13号掲載、1994年)等、幾つかのハメット論を参考にしている。
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