7. 朝、予鈴ぎりぎりに廊下で別れたばかりの陽海が、1限後の休み時間に顔を見せた。 「昨日、聡一郎から何か訊いてるか?」 1限目は退屈な日本史だったこともあって、暖かい窓際の席で完全に爆睡していた光は、半目で「んー?」と首を傾げた。 「こら、寝るな光! 聡一郎、今日きてねーんだよ。学校にも連絡ねぇって」 「へ?」 聡一郎が連絡なしで休むことなどありえない。それでやっと眼が覚めた。 「真鍋さん、今日きてるんだろ? 聡が家にいるんなら連絡入れるよな」 家政婦はだいたい9時頃には出勤してくる。もし聡一郎が電話をかけられないほど寝込んでいたとしても、その時点で学校に連絡がいくはずだ。 「昨日、お前に何も言ってなかったか? あいつ」 「訊いてねぇ」 陽海はその場で携帯を取り出し、聡一郎の自宅にかけ始めた。聡一郎は携帯を持っていない。ちなみに鳴滝家でも、持っているのは長兄の陽海だけだ。光は、いつでも連絡を取りたい相手は隣家にいるし、暁に至っては同じ家の中にいる訳だから、家族にかかってくる緊急の電話を受ける立場の陽海以外は必要性を感じないのだ。 光は机の上の両腕に顎を乗せて、昨日の聡一郎を思い浮かべた。特に変わったところはなかったし、身体の調子が悪い風でもなかった。藤野達とのケンカの話のせいで少しショックを受けていたようだったが、それと欠席は結びつかない。 いや。 一瞬、嫌な考えがよぎり、光はきつく眉をしかめた。大丈夫だ、奴らは全員逮捕されていて、今頃留置所の中だ。報復したくても手も足も出ない。 「あ、兄貴ー!」 入り口の方から場違いに脳天気な声が飛び込んできた。立ち話する生徒と机の間を上手い具合にすり抜けて、小柄な少年が息を切らして走り込んでくる。 「兄貴、体操着貸してくんない? 俺、また忘れちゃってさー」 そこで、隣に立つ陽海の姿に気づき、暁は「げっ」と飛び退いた。 「うわっ、陽海、いたのかよ」 忘れたなんてことがバレたら、またガミガミ怒鳴られると思ったのだろう。だが、陽海は携帯を耳に当てたまま暁を一瞥すると、厳しい顔で会話を続けた。 「……そうなんですか。そうですね、ロンドンにも連絡した方がいいと思います。……お願いします。はい。それじゃ」 通話を切り、携帯をたたむ。何事かと見上げる暁と光を見遣り、重く口を開いた。 「ベッドを調べたら、昨日寝た形跡がないそうだ」 鼓動が跳ね上がった。 「……じゃあ、あの後家に帰ってねぇってことか……?」 聡一郎の家までは、どんなにゆっくり歩いても5分もかからない。迷うはずもない道筋、たったあれだけの距離が、とてつもなく遠いものに感じた。何故あの時、笑われても送っていくと言わなかったのだろう。彼が家に辿りつくまで、ちゃんと見送らなかったんだろう。手足が急激に冷えていく。聡はどこへ行ったのか。 いや、どこへ連れ去られてしまったのか、だ。 光は立ち上がった。 「兄貴、麻生さんとこの電話番号、分かるか?」 鳴滝家の顧問弁護士だ。「まさか……」と陽海の顔色も変わる。 「昨日逮捕された連中が、全員まだブタ箱入ってるかどうか訊いてみてくれ」 それまで黙っていた暁が口を挟んだ。 「だけど、聡一郎さんは奴らに顔見られてねーんじゃないの?」 光は首を振った。 「いや。俺と2人でいたとこを、見られてる。……もし聡に何かあったら、俺の責任だ」 ざわついた教室に、チャイムが鳴り始める。それでも立ち尽くしたままの3人を、訝しげに見遣る視線がちらちらと向けられる。 眉を寄せて再び携帯を取り出す陽海の袖を、暁が引っ張った。 「らしくねーぞ。授業の邪魔だろ。外出ようぜ」 怒ったような顔で兄達を見る。 「どうせサボるんだろ」 陽海が口を開く前に続けた。 「俺もサボるからな。怒鳴っても無駄だからな、陽海」 そのまま陽海を引っ張り屋上へ向かう。光は黙ってその後をついていった。 階段を上り、ドアを開けると、屋上には薄ぼんやりとした生ぬるい光が溢れていた。足許でチャイムが鳴る。いかにも授業をサボる生徒にうってつけの、ひなたぼっこ日よりだ。平和な、平凡な日常光景。陽差しを浴びているだけで苛々してくる。 弁護士が問い合わせた情報によると、藤野は未だ拘留されているが、陽海達に伸されなかったあの2人は、暴行を働いていないということで釈放されたということだった。 弁護士に聡一郎が行方不明になった件を告げ、その2人に拉致された可能性を警察に伝えるよう頼むと、陽海は通話を切り、光を振り返った。 「後は、警察に頼むしかないだろう」 苛立ちが急上昇する。光は無言で踵を返した。後ろにいた暁が、すっと立ちふさがった。 「どこ行くんだよ、兄貴」 「捜しに行く」 「あて、あるのか?」 「なかったら、動くなっていうのかよ!」 思わず大きくなった声に、暁の肩がびくりと跳ねる。その反応に、頭に上っていた血が少し下がった。 「……悪ィ」 「兄貴ー」 困ったような、泣きそうな顔で、暁が見上げる。「ああ、もうっ」と光は乱暴に暁の頭をくしゃくしゃ撫でた。 「そんな顔すんなよ。らしくねーのは分かってんだから」 「俺だって聡一郎さんが心配だよ。だから、捜すんならみんなで捜そう。兄貴がそんな顔して独りで突っ走ってったら嫌だよ、俺」 光を見、同意を求めるように陽海を見遣る。 実質、一家の長である長兄は、腕組みをし、光をじっと見つめていた。 「……お前、言い切れるか?」 低く言う。 「あの時みたいに、相手も自分も死にかけるまで殴り続けないって、言い切ることが出来るか?」 真剣な陽海の顔にだぶって、頭の中をその時の情景が過ぎった。自分も相手もボロボロで、そして自分はほとんど息が出来ない状態だった。立っているのがやっとだった。それでも殴り続けた。 暁が驚いて光を見る。 光は俯いた。今も身の内を、煮えたぎったものが渦を巻いて光を焼いている。 「……分からない」 自分自身のことで、もうあれほど血が上ることはないと思う。だが実際に目の前に聡一郎がいて、彼を戒める犯人がいたら、この煮えたぎった感情を理性が押さえ込むことが出来るとは思えなかった。 「じゃあ、駄目だ」 きっぱりと陽海が言った。 「お前を行かせる訳にはいかない」 「止めてくれよ、兄貴」 光は顔を上げ、陽海を見つめた。 「兄貴なら俺を止められるだろ?」 陽海は呆れたように光を見た。それでも、光の切羽詰まった気持ちを察して、切れ長の眸をなごめ、苦笑してため息をついた。 「見境なくなったお前を止めるのは、半端じゃねーぞ」 光も少し笑った。 「俺は兄貴を信頼してるから」 信頼することと、依存することとは、この場合同じなのかもしれない。それでも同い歳の兄に依存するのは、心強かった。 苦笑を続けながら、陽海が再び携帯を取り出す。 暁が2人を見比べ、独りごちた。 「兄貴がキレたら、そんなヤバイのか。俺、今度から気を付けよー」 ≪ back top next ≫ |