4. 光に付き合ってもらって行った図書館のベンチは空いていた。 学校でマフラーを渡すつもりなのだろうか。少しホッとした。そんなつもりはないのだろうが、図書館に行くたびに待ち受けられていたんじゃ、何となく落ち着かない。 だけど、付き合わせたせいで、光はまた以前付き合っていた人達に絡まれてしまった。 あの藤野という男は、もう関わらないでほしいと言ったところで、聞く耳を持っているとは思えなかった。光はタカりにきたと言っていたけれど、一度お金を渡したらそれで満足して帰っていくというのでもないのだろう。第一、そんなことをする義務は光にはない。 どうしたらいいんだろう。光には口止めをされたけれど、やっぱり陽海に相談しようか。古びたインクの匂いがする本棚を前にぼんやりしていると、ぽんと肩を叩かれた。 「聡って、マジで本好きなんだなぁ」 聞き覚えのある声に、振り返る顔が少しぎこちなくなる。聡一郎は無理に笑みを浮かべた。 「……あ、えーと、小幡君」 昼休みの喧噪が、静かなこの図書室にまで遠く届いて潮騒のようだ。 彼はにこにこ笑いながら言った。 「他人行儀な呼び方すんなよ。幸でいいって言ったろ?」 うん……、と返す声がこもってしまう。 「いつも昼休みは図書室にいんの? 俺はたまたまだったんだけどさ」 言いながら、脇に抱えた本の表紙を見せる。あれ? と思った。この間彼と会った日に図書館で聡一郎が借りた本だ。聡一郎の表情の変化を見取ったのか、彼が言った。 「これ、聡が借りてた本だろ? どんな話なのかな、と思ってさ」 聡一郎が持っていたのを、憶えていたということだろうか。 「なあ、今日ヒマ? 一緒に帰らねぇ? あ、聡は部活とかやってる? 俺はダチに頼まれて名前だけ陸上部なんだけどさ。時々大会に駆り出されたりして、迷惑なんだよな。今の時期は何もねーんだけど」 「あ、あのさ」 話にどうにか割り込んで、聡一郎は言った。 「その呼び方、変えてくれないかな」 彼はきょとんとした。 「え、『聡』っていうの? なんで? いいじゃん、聡一郎って長ったらしいだろ?」 長ったらしい、と言われて、聡一郎はますます困ってしまう。 「だけど、名前は名前だから……」 「なんだよ、堅っ苦しいこと言うなよー。俺のも『幸』って短縮してるんだから、おあいこじゃん。それより、聡は今日空いてんの?」 「部活はやってないけど……」 「じゃあさ、今日あんたん家、行っていい? 家、どの辺? 近い?」 「えっ」 彼はにこにこ笑いながら畳みかけてくる。 「聡の家ってどんな感じなんだろうな。楽しみだなー」 「ちょ、ちょっと待って」 「別に今日は何もないんだろ? じゃ、今日に決定だな。俺もちょうど予定ないし」 「待ってって」 大きくなりかけた声を慌てて抑える。静まり返っている訳ではないけれど、ここは図書室だ。 「一方的に決められても、困るよ」 彼の頬から笑みが消えた。 「都合悪い?」 「そういうことじゃないよ」 彼は不意に聡一郎を覗き込むようにして、顔を傾けた。 「なに? 聡、怒ってんの?」 まるでからかっているような行動に見えた。聡一郎はむしろ呆気に取られて、間近の彼の顔を見返した。にこりと彼が笑う。 「かわいいなー。怒った聡の顔もすげぇかわいい」 なんなんだろう。思わず後ずさりかけて、足のかかとが本棚にぶつかった。彼がさらに顔を寄せる。 「眼鏡外した方がもっとかわいいかも」 ひょいと手が伸びて、身構える間もなく眼鏡を取り上げられる。思わず、あっと声が上がる。彼が小声で笑った。 「今の、『あっ』ていうのかわいいー。聡、やっぱ眼鏡ない方がいいって。全然美人じゃん」 「返してくれよ」 視界がぼやけてよく分からない。彼と本棚に挟まれて、身動きは取れず視界はおぼつかない。どんどん不安感が込み上げてくる。眼鏡を取り返そうとして手を伸ばしたが、あっさり逆に捕まえられてしまった。肩に重みがかかり、背が本棚に押し当てられる。 「ゆ、幸!」 「やーっと呼んでくれた、俺の名前」 間近だからかろうじて分かる彼の顔が嬉しげに笑う。彼の息が頬にかかった。 「聡ってマジかわいいよな。俺ってラッキーかも」 「や、やめ……っ」 「聡一郎」 聞き馴染んだ低い声がして、思わず声を上げた。 「陽海!」 「次の時間、教室移動になったぞ。早く戻らないと遅れる」 「聡、あれ誰」 低い抑揚のない声で、彼が訊いた。 「僕の幼なじみだよ。眼鏡返して」 なんとか視力を取り返して、彼の腕をすり抜ける。思った以上に険しい顔の陽海の側にたどり着いて、ようやくホッと息をついた。 「おい」 陽海が彼から視線を逸らさず、低く口を開いた。 「聡一郎にちょっかい出すな」 「なんだよ、あんた」 彼の目つきも変わっていた。笑顔の時には見えなかった、すさんだ表情だった。 「あんたに何の関係があるんだよ。俺と聡のことに他人が口出しすんじゃねーよ」 「聡一郎は、俺の身内同然だ」 「関係ねぇって言ってんだろ!」 図書室中の眼が一斉に向けられる。そこへ場違いのようにのんびりと予鈴が鳴り始めた。 「行くぞ」 聡一郎に声をかけて、陽海が踵を返す。少しためらったが、聡一郎も後を追った。図書室を出る間際にちらりと振り返った時の彼の顔は、毛を逆立てて威嚇する獣のようだった。 「……なんだ、あいつ」 ずんずん先を行きながら、独り言のように陽海が訊く。歩幅の違う聡一郎は、どうしても小走り気味になる。 「1年生の小幡君」 「名前なんかどうでもいい」 「この間、図書館でマフラー貸したんだ」 「それだけか」 「うん」 「光が心配するぞ」 「うん……だから、光には言わないでほしい」 「大丈夫か?」 「うん」 陽海が振り返る。 「あんまり、大丈夫そうな顔してないぞ」 思わず足を止めた。陽海が心配げな顔をしているのに、ようやく気づいた。笑みがこぼれる。 「大丈夫だよ。彼も悪い人じゃないから」 「どうだかな」 聡一郎の10センチ以上頭上でため息をついた。 「お前、ホント世間知らずだからなぁ。言っとくけど、世の中お前の言葉を素直に聞いてくれる奴ばっかりじゃないんだぞ」 「そうかな」 「そうだよ」 教室へと急ぐ生徒の流れに押されるように歩き出しながら、聡一郎は笑った。陽海の不器用な優しさは、いつも心を暖かくしてくれる。彼の隣にいるとほっと落ち着けるのは、彼がいつでも強くて優しいからだ。もしかしたら、そういう彼にずっと見守られてきたから、聡一郎は彼の言う世間知らずになってしまったのかもしれない。 感謝の気持ちを込めて、聡一郎は大切な幼なじみを見上げた。 「大丈夫だよ。僕は一人で解決できるから。それより光を助けてあげてほしいんだ」 本鈴が鳴って廊下に残っていた生徒達が教室へ戻って行く。それを見ながら、「さぼりは、やっぱり良くないよね」と言うと、陽海はさっさと階段の方へ踵を返した。 「何言ってんだ。さぼるぞ」 冬の陽差しは弱いけれど、どうやら屋上はそんなに寒くはないようだ。聡一郎は苦笑して後を追った。 ≪ back top next ≫ |