winter squall



 3.


 あの荒れた日が嘘のように、数日、冬らしいいい天気が続いた。
 2時間目後の休み時間に、教室移動で廊下を歩いていた聡一郎は、いきなり近くで大きな声がして肩を掴まれ、驚いて振り返った。
「あ、やっぱり!」
 白っぽい顔に満面の笑みを浮かべて、あの日ベンチに座っていた少年がいた。
「あ。あの時の」
 同じ高校だったのか。制服姿の彼は、あんな凍えそうな服装ではないからか、健康そうな笑顔だからか、随分印象が違って見えた。
「なんだ、高校一緒だったんじゃねーかよー。俺、あれから毎日あそこで待ってたんだぜ、あんたが来るの」
「え?」
「マフラー返そうと思ってさ。なのに、ひでーよ。あんた全然来ねーんだもん」
「あ……ごめん」
 彼の手が、親しげに肩を叩く。
「俺、2組の小幡幸紀こはたゆきのり。あんたは?」
 叩く手の強さに押されるように、聡一郎は答えた。
「須賀聡一郎。3年5組だよ」
「え? あんた年上? なんだ、同級生かと思ってたよ。んで、聡一郎? なーんか似合わねぇレトロな名前だなぁ。聡でいい? 俺は幸でいいからさ」
「え?」
 口を開こうとする聡一郎を遮って、教室から「小幡ー。次の授業の教材はー?」と呼ぶ声が聞こえた。
「お、やべ。俺今日日直なんだ。明日マフラー持ってくるよ。じゃあまたな、聡」
 ぽかんとする聡一郎を残して、彼はさっさと教室へ引っ込んでしまった。ここは1年の教室だから、彼は1年生なのだろう。
 首をひねり、歩き出す。
 なんだか一方的な会話だったなぁ。
 妙な疲労感を覚えて、ため息をついた。名前がレトロで似合わないなんて言われたのは初めてだ。
 胸の中に、何かもやもやしたものが溜まっている。
 不意に光の顔が見たくなった。
 ああ、そうか。不快の原因が分かって、思わず微笑んだ。
 自分を「聡」と呼ぶのは、光だけでいい。



 図書館に行くのは久しぶりだ。
 聡一郎はいつも一人でうきうきして行ってしまうから、特に本に興味もない光が図書館へ足を向けるのは珍しい。
 きらきらした夕陽を浴びて傍らで借りていた本を抱える聡一郎は、だが大好きな場所へ向かうにしては、いつもより少し沈んでみえた。
 変といえば、いつもは一人で行くのに、今日に限って光を誘ったのは何かあるからなのだろうか? 訊いても「本を返すだけだから、一緒に帰りたい」と言うだけで、それ以上は言いたくないようだった。
 隠し事なんてらしくないな、と思いながら、最近陽海が不機嫌で、また家が荒れ気味なことを話していると、不意に自分を呼び止める声がした。
 振り返るまで少し間があったのは、それが光の以前の姓だったからだ。そしてその顔を見て、それが誰だったのかを思い出すわずかな時間の後、光は内心舌打ちした。
 そういえば、今朝のテレビの占いランキングで光の星座は最下位だった。
「やーっぱり沢崎じゃん。すげー久しぶりー」
 地下鉄の入り口のところにしゃがみ込んだ数人の輪の中から、ひょろりと背の高い男が立ち上がる。
 灰色に脱色して逆立てた髪。薄い眉毛にヒゲ。手には大量の指輪。耳は片方だけでも5個ほどピアスがくっついている。そして、下校時間なのに派手な色の私服姿。
 近づいてくる男の視線から遮るように、光はさりげなく傍らの聡一郎の前に立った。
「元気そうじゃん。あんま変わってねーなー、お前。すぐ分かったぜ」
 光は出来るだけ無表情を装う。
「どちら様だっけ?」
「なんだよー、忘れたのか? 冷てーなー。俺だよ俺。昔よくつるんでたじゃねーか」
「俺、忘れっぽくてさ。昔のことまでいちいち憶えてねーんだわ」
 へらへらした男の眼が、笑いながら鋭くなった。
「藤野だよ。なんだよ、親友だと思ってたのによー。ショックだなー」
「悪ィ。思い出せねーわ」
 不安げな聡一郎を振り返り、「行こうぜ」と歩き出す。その肩を掴まれた。
「せっかく会ったのに、それはないんじゃね? 思い出してほしい訳よ、こっちは」
 しゃがんで様子を見ていた残りの4、5人が立ち上がる。囲まれたらさすがにまずいが、人目もあるし交番も近くだ。光はわざと50メートルほど先の交番の方に視線を飛ばしてから、藤野を見返した。
「悪いけど、憶えてねーな。手、離してくんねぇ?」
 笑いが一瞬引きつり、声が低くなった。
「……そうかよ」
 すぐにそれは薄っぺらい笑顔に飲まれて消えた。
「なんだ、残念だなぁ。せっかく昔のダチに会ったと思ったのによー」
 藤野が手を下ろすと同時に光は踵を返した。
「光」
 聡一郎が心配げに見つめる。「行こう。振り返んなよ」と小声で返して、ことさら普段の歩調で歩き出す。
「俺は記憶力いいからさー。お前のこと忘れないぜー、沢崎」
 間延びした大声が、背中に浴びせかけられる。
「光、あの人達」
「聡は心配しなくていい。もう俺は、あいつらとは関わりないから」
「だけど」
「どうせまたタカりにきたんだよ。無視するのが一番いい」
 光の6年前までの姓を知る者は少ない。身内と聡一郎と、小学校までの友人と、当時ふらふら繁華街を出歩いていた時に知り合った、いわゆる不良グループ。
「沢崎ー、忘れんなよー」
 耳障りな声に一瞬険しく眉を寄せるが、隣の視線に気づいてそれをほどいた。
「あーあ。1回ちゃんと追い払ったのになー」
 カバンを片手に伸びをする。初秋の深い青空にこぶしを突き刺し、眼を閉じた。
 また、やっかいなことがやってきた。
 空の青がまぶたの裏に焼き付いた。




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